本文に移動

[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(4/6)

登録:2015-08-08 06:33 修正:2015-08-16 07:43
2. 沖縄の悲劇

■ チビチリガマ(洞窟)の惨劇

 しとしとと雨が降る16日、宿泊所の上の方にある読谷に行った。1945年4月1日、18万人の地上戦闘員、後方支援部隊まで合わせれば54万に達する米軍が、沖縄本島上陸作戦を開始した。彼らが最初に上陸したところが読谷で嘉手納、北谷につながる西海岸地帯であった。

 それから日本が降服するまでの数カ月間に24万人に及ぶ途方もない人々が狭い沖縄本島と近隣の小さな島で死んでいった。

 「沖縄戦では本土出身の兵士たち約6万5000人、沖縄で急遽招集された約3万人の急造部隊員、一般民間人約9万4000人が犠牲になった。その他に朝鮮半島から軍夫や従軍慰安婦として強制連行された約1万人もまた犠牲になったと知られているが、その正確な数字は今も確認されていない。このように沖縄戦では、軍人よりもはるかに多くの民間人が犠牲になった」(『沖縄現代史』新版、新崎盛暉、岩波新書、2005)。沖縄人よりさらに深刻な差別にあった朝鮮の人々の凄惨な痕跡は今も沖縄の各地に残っている。

 沖縄戦闘で最底辺の最もみじめな境遇に追い立てられた朝鮮人犠牲者について日本政府は死亡者調査もしたことがないほどに徹底的に放置し今も無視している。その上、彼らの存在が世の中に知らされたのは、沖縄の住民とそちらに暮らしている少数の朝鮮人々が努力した結果だ。

 犠牲になった朝鮮人と彼らの存在を世の中に知らせた朝鮮の人々は、祖国の分断のために二重三重に差別を受ける苦痛の中で暮らし、今なおそうして生きている。

 『読谷村史』は、当時軍人・軍属2167人、一般住民1757人、合計3924人の読谷の人々が死んだと記録した。そのうちの31.3%が栄養失調と病気で亡くなった。

 中頭郡読谷村波平という村に「チビチリガマ」がある。“ガマ”は自然の洞窟だ。16日に訪ねた村の下には小さな小川が流れるへこんだところに崖があり、そこに洞窟の入口が見えた。 由緒を刻んだ石板とオブジェを通り過ぎ真っ暗な洞窟内に入ると、何も見えなかった。

沖縄本島の中頭郡読谷村波平にある自然洞窟「チビチリガマ」。1944年10月、米軍の沖縄占領戦当時、この洞窟に避難していた住民140人のうち85人が集団自決などにより命を失った =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

チビチリガマの入口に立っている「チビチリガマの歌」歌詞 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

チビチリガマの前。傘をさした人の後方下が入口 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 デジタルカメラのあかりで内側を照らしてみたが、人の出入りが禁止されている洞窟内はそれでも何も見えなかった。心配になったのか、一緒に行った稻福氏が入口で懐中電灯を照らしてくれた。勇敢にも闇の中に飛び込みはしたものの、その瞬間背筋が寒くなった(写真説明4-1,4-2,4-3)。 1944年10月、米軍機が沖縄空襲を始めた後、波平の住民はそこを避難所として利用した。

 1945年3月以後、ここに避難した人は140人だった。洞窟は大きくなく天井も低く、それほどの数の人が入れば身動きも難しい過密状態であった。4月1日に上陸した米軍がそちらにきた。老人と彼らの娘たちが竹槍を持って米軍に向かって駆け寄り、老人二人が射殺された。

 ガマの中の住民たちは絶望感と恐怖に包まれた。 米軍に捕まれば日本軍が中国人を無慈悲に蹂躪し虐殺したように、無残に殺されるという話を日本軍から聞いた彼らは、捕虜になるよりは死ぬ方がマシと洗脳されていた。

 サイパンから帰郷した二人の男が「自決」を叫んで毛布に火をつけると、女性4人がこれに反発して火を消した。子供たちがいたためだ。

 人々は自決賛成派と反対派に分かれた。その翌日、米軍が再び来て、18歳の少女が母親の手で首を絞められ死んだ。母親は米軍に殺されるよりは娘を“強制自決”させる方を選んだのだ。満州から帰郷した従軍看護婦から毒劇物の注射を受けて自決した人もいた。 14~5人が「天皇陛下万歳!」を叫んで自決した。

 誰かが再び毛布を集めて火をつけ、ガマの中は生き地獄になった。「痛い、痛い」という悲鳴が上がった。 子供たちが母親たちの手で死ぬときに上げた悲鳴だった。チビチリガマに逃げた140人のうち85人がそんな風にして亡くなった。(沖縄の戦跡ブック ガマ』、沖縄県高教組教育資料センター ガマ編集委員会編、2013年6月改訂版)

■ 座間味島の集団自決

 ちょっと違う話だが、沖縄本島の南西側にある慶良間諸島の座間味島で起きた“集団自決”の悲劇に関する描写を若干引用してみよう。当時の状況を想像するのに役立つだろう。

 「座間味島の宮平ウタさん(当時43歳)夫婦は、子供3人と共に自宅に掘ってあった防空壕に避難した。彼らは、当時そちらを占領していた日本軍32軍部隊員から『玉砕しろ』との命令を受けた。米軍が艦砲で撃つ弾幕を突き抜けて集合場所の忠魂碑まで行くと、日本軍兵士が防空壕で玉砕するとして手榴弾を配った。

 それを持って来た彼らが防空壕内で眠りから覚めたのは、ウタさんが『米軍が来ている! はやく子供たちから殺して!』という声を聞いた時だった。彼は妻の首をはねようとかみそりで数回ひいた後、11歳の息子もそのようにした。 そして9歳、15歳の二人の娘、最後に自身の首をはねた。 息子は亡くなり、他の4人は瀕死の重傷を負った状態で米軍の手で救出された。

 ウタさんの家族のように、男がいる家族ほど犠牲は大きかった。死んだ人のうち、女性と子供(12歳未満)が83%を占めた。そこには“敵”に殺される前に自殺することを美徳とする家父長制社会の性道徳も大きく作用したと見られる。

 座間味島では村長をはじめ村のリーダーたちが皆、一家『集団自決』をしたが、日本軍が駐留していなかった村や島々では「集団自決」は起きなかった」。(『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』女たちの戦争と平和資料館 wam、2012)この資料が指摘しているように、沖縄住民たちの集団自決は主に日本軍の推奨と強要に従ったものだった。

 集団自決に使われた道具は、手榴弾とかみそりの他に青酸カリ、鉈、鍬、鎌、紐、包丁、農薬、石、木材などで、身のまわりの全てのものが凶器になった。

 そのような「集団自決」という虐殺が、沖縄本島はもちろん周辺の多くの島々、さらに遠い台湾近隣の与那国島でも強行された。現場実態調査を通じて確認された事実に基づいて作成された『沖縄の戦跡ブック ガマ』は、沖縄の多くの村で強行されたおぞましい虐殺の実態を具体的に伝えている。

■ 糸満の12万人の犠牲

 避難民20万人が集まっていた沖縄本島最南端の糸満では、避難民の死亡率が平均70%を越えた地域が多く、最大94%に達した地域もある。稻福氏は「ガマの中に逃げて身を守った20万人のうち、生きて帰った人は8万人程度で残りの12万人は亡くなった」と話した。

 20万人の避難民の97%は現地の住民たちだったという。「南部の3カ村だけで住民の70%に該当する7万人が死んだ」と稻福氏は話した。多くの住民たちが日本軍が守っているガマから出て行くこともできず、出て行って戻って来た人々の中にはスパイの汚名を着せられ処刑された事例も少なくなかった。 日本軍は「沖縄弁を使うやつらは全員スパイ」とまで言った。

 そのような不信と差別は、軍夫や慰安婦として連れて行かれた朝鮮人にはさらに苛酷だった。 多くの日本軍が最後に手榴弾で住民たちと共に自爆したり、銃を撃ったり首をくくるなど残酷な集団自決の道を選んだ。そのようなガマが糸満一帯だけで8百カ所あったという。

■ 3万5千人の霊魂が安置された「魂魄の塔」

沖縄南部の糸満市の南側、北中城村にある「魂魄の塔」=ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

「魂魄の塔」の案内文が彫られた石碑。3万5千人の亡骸を安置したという説明が見える =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 糸満の南部、北中城村には「魂魄の塔」があるが、石をセメントで固めて作った基礎に石碑が立っているこの塔を中心に多くの碑石とオブジェが立っている大規模追悼施設だった(写真説明4-4,4-5)。一時は3万5000人の遺骨を奉安した所だ。こちらは生き残った住民たちを収容所に保護していた米軍が、米軍基地の造成のために故郷に帰れなくなった人々を1946年初めに移住させたところだ。

普天間基地の内部を遠くからでも眺望できる展望台から基地の内側を見ている人々 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

糸満市の南側にある北中城村にある「魂魄の塔」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 人口が再び増えて住民たちが田畑を開墾することになり、そこから多くの遺骨が出てきた。主人も分からないその遺骨を集めておいたところが魂魄の塔が立てられたところだが、1979年に近隣の摩文仁に国立沖縄戦没者墓地が造成され、そちらに骨はほとんど移し、今は少数の象徴遺骨だけが残っている。稻福氏はそちらでまだ遺骨が発見されていて、大型爆弾も発掘されたと話した(写真説明4-6,4-7)。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者

韓国語原文入力:2015/08/04 10:26 訳J.S(3526字)

関連記事