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[ルポ] 沖縄の悲劇、そして朝鮮人性奴隷(5/6)

登録:2015-08-08 06:40 修正:2015-08-16 07:42
3.朝鮮人性奴隷

■ 済州(チェジュ)4・3の前奏曲?

 コ・ヒボムの『これが済州だ』(タンビ、2013刊)にこんな内容が記されている。 

<済州島は巨大な要塞だった。済州島を取り巻くように随所に陣地が設置され、迫撃砲や速射砲を備えた砲兵、歩兵、工兵など各種の軍部隊が配置された。 1945年8月現在で人口23万人だった済州島に7万5千人余の日本軍兵力が入って駐留していた。

 第2次世界大戦の敗戦を目前にした日本が、日本本土を防御するために済州島を防御基地として最後の決死抗戦を行う体制を整えていた。

 連合軍の日本本土攻撃を防御するための作戦は暗号名「決号作戦」で、北海道(決1号作戦)、東北(決2号作戦)、関東(決3号作戦)、東海(決4号作戦)、中部(決5号作戦)、九州(決6号作戦)とともに、済州島は決7号作戦の舞台になった。

 沖縄陥落以後、米軍の主な上陸地点は九州になるだろうとし、この時に米軍の済州島攻略は必然的と判断された。 済州島が最前線になったわけだ>

 万一その時に沖縄戦線が崩れた後にも日本が戦争を継続したとすれば、済州島で沖縄の悲劇が繰り返された可能性が高い。

 7万5000の日本軍兵力が決死抗戦のために済州島に入ったのは1944年3月に新設された沖縄守備軍である日本軍第32軍が決死抗戦のために沖縄に入ったのと同じパターンだ。

 幸い済州島は沖縄のような悲劇は避けられたが、皮肉にも日帝崩壊後に同じ民族が同族を虐殺した4.3事態という惨劇を体験することになる。

 すでに以前に多くの朝鮮人が沖縄でそのような惨劇を体験していた。1945年8月20日、沖縄本島から南西側に約100キロメートル離れている島、久米島に戦争前から暮らしていた朝鮮人、具仲会(ク・チュンフェ)、日本姓は谷川氏一家7人が根拠もなく米軍と内通したスパイと疑われ日本軍の手で虐殺された。沖縄の女性と結婚し5人の子供をもうけて暮らしていた具さん一家は、すでに日本が降服した後にも投降しなかった日本軍の手で残酷に殺された。

 普天間基地すぐそばにある佐喜真美術館に行けば『沖縄戦図』という横8メートル、縦5メートルの水墨彩色大作が一方の壁面を完全に占めている。

 原爆の図、南京大虐殺、アウシュビッツ惨劇を描いた画家の丸木位里、丸木俊夫妻が描いたこの大作は、集団自決などガマの中で強行された沖縄住民虐殺惨劇を描写している。そこにこの久米島の朝鮮人一家の虐殺場面も入っている。

 具さんが木にかけた綱で首が括られ亡くなって、幼い息子が彼のからだにすがって泣いている。そのそばには彼ら一家が日本軍の銃刀で虐殺される姿が描かれている。

■ 集団自決は虐殺である…佐喜真美術館

 佐喜真美術館『沖縄戦の図』図録の冒頭に二人の画家が書いた同じタイトルのこのような文が載っている。

恥かしめを受けぬ前に死ね
手りゅうだんを下さい
鎌や鍬でカミソリでやれ
親は子を、夫は妻を
若ものはとしよりを
エメラルドの海は紅に
集団自決とは
手を下さない虐殺である

 16日に訪ねた佐喜真美術館には、沖縄に修学旅行に来たと見られる40人程の制服姿の中高生が『沖縄戦の図』の前に座っていて、佐喜真道夫館長が彼らの前に立って絵の説明をしながら、沖縄戦、そして戦争の意味について熱心に話していた。

 佐喜真館長は普天間に土地をたくさん持っていた父親のおかげで、米軍から軍用地料を受け取り金持ちになった人だが、早くから本土に留学に行き勉強して、沖縄が体験したみじめな戦争体験を無視し聞き入れない本土人の沖縄出身者に対する偏見を骨身に凍みて感じた。

 そんな彼が丸木夫妻の大作『沖縄戦の図』を展示するために、普天間基地内の先祖から受け継いだ土地の一部を軍用地契約更新の際に返してもらい美術館を作った。

普天間基地のすぐ隣にある佐喜真美術館 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 沖縄平和学習の名所になった佐喜真美術館には毎年4万人程度が訪れる(写真説明5-1)。写真家チョン・ジュハ氏が原発事故以後の荒涼たる福島近隣地域を撮った写真集『奪われた野原にも春は来るのか?』や版画家のホン・ソンダム氏の作品解説が載せられたパンフレットも展示されていた。

 生徒たち相手の説明が終わった後、キュレーターの上間かな恵氏から絵の説明を聞いている私に会いに来た佐喜真氏と挨拶を交わした。

沖縄本島南部の糸満市と隣の島尻郡にまたがる「沖縄平和記念公園」内にある犠牲者の名前が彫られた碑石。24万人に及ぶ犠牲者たちの名前が刻まれている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

日本語・英語・韓国語・中国語で書かれた沖縄平和記念公園内の「平和の礎(いしじ)」石碑 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

平和記念公園広場 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

沖縄平和記念公園の「平和の礎」 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

沖縄平和記念公園を訪れた日本の中学生が魂を慰労し平和を願う歌を歌っている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 具さん一家7人の名前は、糸満市と隣の島尻郡にまたがる沖縄平和記念公園内の平和の碑(1995年建設)にも24万の犠牲者と共に彫られていた(写真説明5-2,5-3,5-4,5-5,5-6)。ところが具さん一家ではなく日本名の谷川氏一家の名前になっていて、韓国と北朝鮮犠牲者の名前が彫られた碑石の区画ではなく、沖縄犠牲者碑区画の碑石に彫られていた(写真説明5-7,5-8)。最も激烈な戦闘が行われた地域の一つである宜野湾の嘉数高台の上には、軍夫として連れて行かれ弾薬運搬、陣地構築、「人間爆弾」として犠牲になった朝鮮人386人を追慕する「青邱の塔」が立っている。

米軍と内通したスパイの疑いを着せられ日本軍の手で虐殺された朝鮮人、具仲会(ク・チュンフェ 日本姓 谷川)氏一家7人の名前が彫られた平和記念公園内の碑(右部分)。谷川姓で朝鮮人区画の碑石ではなく沖縄人区画の碑石に刻まれている =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

沖縄平和記念公園のそばに別に造成されている韓国人慰霊塔公園 =ハン・スンドン記者//ハンギョレ新聞社

 慶良間諸島の渡嘉敷島では、戦争末期に朝鮮人の米軍投降を防ぐため、日本軍が討伐隊を編成して多くの朝鮮人を殺害した。慶良間には朝鮮人軍夫約1千人と慰安婦として連れて来られた幼い朝鮮人女性21人がいたことが分かっているが、彼らのうち、軍夫数百人と慰安婦4人がそのようにして犠牲になった事実を記録した「アリランの碑」が渡嘉敷島に立っている。渡嘉敷だけで200余人の朝鮮人軍夫、7人の朝鮮人慰安婦が連れてこられたという。

■ 座間味と阿嘉島の朝鮮人性奴隷

 慶良間諸島内の座間味島と阿嘉島にも朝鮮人慰安婦が7人ずつ一組で投入され、朝鮮人軍夫が座間味に300人、阿嘉に350人が配属されていた。これらのうちの相当数が戦争末期に住民と兵士たちを集団自決、玉砕に追い込んだ日本軍の犠牲になったと見られる。

 阿嘉島では1945年2月、朝鮮人軍夫たちで編成された水上勤務隊が投入されたが、日本軍はこれらの朝鮮人を特にひどく差別し食糧もまともに与えなかった。

 その年の4月、7人の朝鮮人が山中に逃げたが発見され処刑され、残りの朝鮮人軍夫が30~40人ずつ狭い洞窟内に幽閉された。 日本軍は彼らに用便の場合を除いては出入りを許さなかった。そこで少なくとも12人の朝鮮人軍夫が処刑されたと見られる。

 北谷の嘉手納地域には、慰安所と彼女たちの定期検診のための病院があった。そこに「年齢16~17歳で日本名で呼ばれた朝鮮人女性たちがいたが、日本の憲兵が彼女たちの一人を『あたかも動物でも扱うように乱暴に』接して『殴り倒した』が、誰も抵抗できなかった」という証言が残っている。

■ 130カ所余りに達した沖縄の慰安所
「アイゴー、アイゴー」吠えるような声

 慰安所は沖縄だけで130余カ所が設置されていた。そこには沖縄女性と日本女性たちも慰安婦として来ていたが、ほとんどが10代20代の背が高く色白だった住民たちが記憶する朝鮮人女性たちで満たされていた。

 遠い島のすみずみにまで設置された慰安所130カ所余りに朝鮮人慰安婦が7人ずつ配置されたとすれば、その数は1千人近かったと推算される。

 「渡嘉敷島で日本軍は駐留を始めて2カ月後に慰安所を設置した。そこに送られて来た7人の朝鮮人女性は、最も年長のアキコ(韓国名ペ・ポンギ 30歳)、キクマル(28)、カズコ(23)、ハルエ(または、ハルコ、23)、スズラン(20)、アイコ(16)、ミッチャン(16)と全員が日本名で呼ばれていたが、カネコという朝鮮人男性が管理していた…正月の接待酒を飲んで酔った彼女たちが、狂ったように『アイゴー、アイゴー』と泣き叫んだ声を多くの人々が聞いた。

 それで村の人々は慰安婦の悲劇と苦痛を知ることになった」(『軍隊は女性を守らない』)

■ ペ・ポンギさん=アキコの恨多き生涯

 ペ・ポンギさんの名前が世の中に知られたのも数奇だ。1945年3月23日、慰安所が米軍の爆撃で破壊され、一緒にいたハルエが死んだ。

 米軍が上陸した後、山中に陣を敷いた日本軍について行った彼女たちは炊事班の役割をしたが、食べ物がなくて飢えていた。その年の8月26日、そこの日本軍が武装解除された後、米軍によって沖縄の石川収容所に送られた。

 一緒に行ったカズコはある朝鮮人男性と暮らしを立てたが、知人もお金もなく日本語もよくできなかったペさんは1年余りして再び酒場の酔客を相手にからだを売るほかはなかった。米軍も日本当局も彼女たちに何の関心も傾けなかった。

 朝鮮人帰還者を乗せる船があるという事実も知らなかった。全身がボロボロになったペさんが最後に生活保護者として認定を受けようとした時、戸籍が問題になった。彼女は存在したが、存在を認められなかった。生活保護どころか強制追放の危機に処した。 哀れな事情が知らされて周囲の人々の助けで特別滞留許可が下され、そのために彼女が慰安婦だったという事実が知らされ、ペ・ポンギという名前も世の中に知られた。

 キム・ヒョンオクという朝鮮人夫婦が彼女を熱心に助けてくれたが、彼らは民団ではなく総連所属なのでペさんは以後、韓国政府やそちらの韓国領事館からも敬遠された。

 日本軍慰安婦の存在は、実はペ・ポンギさんの出現により世の中に初めて知らされたが、1991年にキム・ハクスンさんが自身が慰安婦として連れてこられ苦痛を受けた事実を明らかにするまでは、慰安婦問題自体が重大な問題に浮上できなかった。

 総連所属の朝鮮人の助けを受けたという理由で、ペさんは二重三重の差別と不当な待遇にあった。韓国政府や韓国社会は、まさにその理由のために慰安婦問題を知っていながら永い間キム・ハクスンさんが決断を下すまで慰安婦被害者の苦痛と恨、最も恥ずべき日本の過去問題を無視したのかもしれない。

 1991年10月に亡くなったペさんは、故郷に戻りたくないかと帰郷を薦める周囲の人々に向かってこのように話した。

 「故郷に戻った夢を見る時もあった。だが、一度も行って見ようとはしなかった。今戻っても何の意味があるのか…」。朝鮮人性奴隷は一人当たり毎日10~20人の日本兵を相手にしなければならなかった。「僅か3・4分毎に順番になった者が次々と入って来た」という証言もある。慰安婦は常に飢えていて、近所の住民の家に行って食べ物を求め、締めて帰る姿も目撃されたという。「日本軍は慰安婦女性たちを出身地別に差別待遇して、将校専用慰安所には九州や沖縄出身の慰安婦を配置した。彼女たちは食事の接待も受け、きれいな服を着ていたし、時には外出までできて朝鮮人慰安婦よりましな待遇を受けた」(『軍隊は女性を守らない』)

■ 沖縄だけで千人を越えた朝鮮人慰安婦

 日本軍慰安婦として連れてこられた1千人以上の10代、20代の朝鮮女性たちをはじめとして、1万人を超えると推測される沖縄連行朝鮮人のうち犠牲者がどれくらいになるかは分からないが、平和の碑で今までに「大韓民国」と彫られた碑石に名前が載っている犠牲者は441人にしかならない(写真説明6-1)。確認され次第、追加しているが大韓民国の墓地に準備されている碑石の多数にはまだ何の名前もない空き碑石として残っている。

 その隣にある「朝鮮民主主義人民共和国」碑石に彫られている名前は数十個に過ぎない。 その上、北朝鮮碑石には台湾人犠牲者の名前が並んで刻まれている。数が少ないために同じ碑石を使っているのだ(写真説明6-2)。朝鮮人犠牲者がこのように少ないのは、実際の犠牲者が少ないことではなく確認されないためだ。そのために平和の碑建立者側も、今後確認されるかもしれない朝鮮人犠牲者の追加刻字に備えたのか、名前を刻んでいない空き碑石を同じ区画にずらりと立ててある(写真説明6-3)。確認されないのは、主に戦後の日本当局の朝鮮人犠牲者軽視・無視のためだが、慰安婦として連れてこられた犠牲者の場合には、遺族たちが碑石に登載することを拒否するなどの様々な理由がある。

 そして、戦時に日本名を使わざるを得なかった多くの朝鮮人犠牲者が、日本人として誤認されたケースも少なくないだろう。そして、生き残った人々の中にも今に到るまで沖縄人や日本人として偽装して生きている人々もいるだろう。

ハン・スンドン ハンギョレ文化部記者

韓国語原文入力:2015/08/04 10:26 訳J.S(5179字)

https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/704569.html

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