登録 : 2015.08.09 15:04 修正 : 2015.08.16 07:01

 慰安婦 最初の証言、故ペ・ポンギさん
 沖縄の小さな島で探した寂しい痕跡

ペ・ポンギさんの晩年を家族のように世話した在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部の働き手だったキム・スソプ氏(74)、キム・ヒョンオク氏(73)夫妻と一緒に行楽に行って撮った写真 =キム・スソプ氏夫妻提供//ハンギョレ新聞社

 韓国社会が忘れてしまったペ・ポンギさん(1914~1991)は、朝鮮半島出身女性たちの中で自身が日本軍慰安婦被害者だったことを初めて明らかにした人物だ。 ペさんは1914年9月、忠清南道礼山郡(イェサングン)新礼院里で生まれ、1991年10月18日那覇市前橋2丁目で亡くなった。 写真はおばあさんの晩年を家族のように世話した在日本朝鮮人総連合会(総連)沖縄支部で働いていたキム・スソプ氏(74)、キム・ヒョンオク氏(73)夫妻と一緒に行楽に行って撮った写真だ。キム氏夫妻は写真を撮った正確な日時は覚えていなかった。ペさんは韓国社会で本格的な慰安婦運動が始まる契機になったキム・ハクスンさんの初めての証言が出てくる何と16年も前である1975年に共同通信など日本のマスコミを通じて自身が日本軍慰安婦であったことを明らかにした。 しかし、ペさんの証言は社会の幅広い反響を呼ぶことはなく、まもなく人々の記憶の中から忘れられてしまった。韓国社会はなぜおばあさんを記憶から消したのだろうか。 その糸口を見つけるために、ペ・ポンギさんが慰安婦生活を強要された沖縄の小さな島、おばあさんが住んでいた小さな納屋、おばあさんが最後の息をひきとった町内を訪ねてみた。 そちらで発見できたことは、自身が被った被害を隠して命を終えなければならなかった多くの慰安婦被害女性たちの寂しい後ろ姿だった。

日本軍が負けて悔しがったおばあさんが、天皇の謝罪を口にした

自身が日本軍慰安婦だったことを初めて明らかにしたペ・ポンギさんは、1945年8月15日に日本が敗戦した後も故国へ帰らずに沖縄に残った。以後、自身の事情が知らされることになる1975年10月頃まで言葉も通じない遠い異国の地を転々として一人で生きた。 おばあさんはなぜ戦争が終わった後、故国に戻る代わりに慣れない異国の地に残ったのだろうか。 おばあさんは生前にあるマスコミとのインタビューで「戦場での“こと”が恥ずかしくて、戦後に本国に戻ることはできなかった」と話した。 ペさんを記憶する人々は「おばあさんは本当に気性がさっぱりした方だった」と回想した。

ソウルオリンピックが開かれた1988年9月頃、ペ・ポンギさんが訪ねてきた日本の週刊誌『女性自身』記者たちの前で自身の故郷である忠清南道礼山郡新礼院里の位置を指している。この地図は、当時総連沖縄支部の壁面に懸かっていたものだ =キム・スソプ氏夫妻提供//ハンギョレ新聞社

「撮らないで、▲▲▲▲ 撮っているの?」

 ひなびた漁村の路地に入り込み片っ端から写真を撮っている記者の背中に、突然鋭い声が聞こえてきた。日本語と沖縄方言が混じったような独特の言葉だったので、正確な意味は分からなかったが、概略は察することができた。 振り返ると、70代後半と見えるおばあさん1人が怒った顔で記者の顔をにらんでいた。「あなた誰なの、他人の家の写真を勝手に撮るな」という抗議の視線だった。

 先月26日午前11時、沖縄本島の中心都市である那覇のとまりん(泊港)を出航した499トン(定員450人)の旅客船、フェリー渡嘉敷は西方に1時間20分走って沖縄の慶良間諸島最大の島である渡嘉敷島に到着した。容赦なく照りつける沖縄の陽射しの下、島の中心地である渡嘉敷村は、静まりかえっていた。 休日のために村の公共施設は全てドアを閉ざし、持っている物は20余年前に撮られた白黒写真一枚だけだった。絶対に探し出したい建物があった。

「この村に以前に日本軍の慰安所があったという話を聞きました。場所が分からないので一時間ほど迷っています」

「私たちはよく知らない」

 老人が沖縄の焼き付ける陽射しに赤くほてった記者の顔をじろりと見た。

「あの空地だ。私たちはよく知らない。知っていても三歳か四歳の時のことだ。人から話を聞いただけだ。あそこに慰安所があった」

1944年11月から1945年3月頃まで、ペ・ポンギさんが日本軍慰安婦としての生活を強要された沖縄県渡嘉敷島の慰安所があった場所。 屋根が真っ赤な瓦になっていて、「赤瓦の家」と呼ばれていた。 港から歩いて3分程度の距離にある =キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 彼が指さした空地の前に到着し、20年前の写真と現在の姿を較べて見た。遠くの山の稜線と屋上へ向かう前の家の階段の位置が正確に一致した。渡嘉敷港から歩いて僅か3分。 1944年11月から1945年3月末まで、ここにあった「赤瓦の家」でペ・ポンギさん(1914~1991)を含む朝鮮人女性7人が日本軍によって慰安婦生活を強要された。 現在は“マティス”(韓国の軽乗用車)と似ている廃車1台が放置されていて、反対側の塀の上には「本の中では家族旅行もできるよ」という意味のよく分からない字句が書かれていた。

朝鮮半島出身の慰安婦被害女性として
自身の経験を証言した最初の人物
慰安婦運動の決定的な契機となった
1991年キム・ハクスンさんの証言より
何と16年も前なのに、韓国社会はなぜ
沖縄が日本に返還された1972年
字がわからなくて書類申請できず追放の危機
慰安婦として沖縄に来ることになった事情
知人に打ち明け嘆願書提出
隠しておきたかった個人史を知らせた契機
赤瓦の家、その場所へ行く

慰安婦主要事件年表 //ハンギョレ新聞社

 韓国人の記憶から消えたペ・ポンギという人物は、現在韓日関係の最大懸案になっている慰安婦問題の歴史を記録する時に欠かすことのできない独特の位置を占めている。 朝鮮半島出身の慰安婦被害女性たちの中で、自身が旧日本軍慰安婦だったことを証言した最初の人物であるからだ。 ペさんの存在が確認されたのは、韓国で慰安婦運動が始まる決定的な契機になる1991年8月のキム・ハクスンさん(1924~1997)の“歴史的証言”がなされる何と16年も前だ。 なぜ韓国社会はペ・ポンギさんを記憶から消したのだろうか。 また、ペさんとキム・ハクスンさんの間に存在する16年という広漠たる空白をどのように理解すればよいのだろうか。沖縄の小さな島の港で、簡単には答の出ない問いが相次いだ。

 ペさんが生きてきた孤独な暮らしの姿は、日本のフリージャーナリスト 川田文子氏が1988年に出した著書『赤瓦の家―朝鮮から来た従軍慰安婦』(同書にはチェ・ポンギという仮名で登場する)に詳しく記述されている。ペさんは1914年9月、忠清南道礼山郡新礼院里で生まれた。 彼女の父親は他の農家に住み込みながら、かろうじて糊口をしのぐ貧農だった。 そのため、ペさんは満6歳で他の家の“ミン嫁(将来息子の嫁にするために幼い時から連れて来て育てる少女)”になる。 名目はミン嫁だったが、貧しい家で口減らしのために事実上家政婦として売られたのだった。 17歳で結婚するが失敗し、以後は朝鮮各地や満州などをあてもなくさ迷って生きた。本に書かれたおばあさんの人生史は、あまりに凄惨でしばしば本を伏せてため息を吐くほどだ。

 ペさんの人生に決定的な不幸が訪れたのは、彼女が29歳になった1943年の晩秋だった。 彼女は咸鏡南道(ハムギョンナムド)興南(フンナム)で「仕事をしなくても金を稼ぐことができる。寝ていれば口にバナナが落ちてくる所に行く」と慰安婦募集業者にそそのかされて慰安婦募集に応じてしまう。

 1943年末は既に太平洋戦争の戦況は米国側に有利な状況だった。 米軍潜水艦の積極的活動で日本の兵站線はすでに断たれていた。おばあさんが興南、ソウル、釜山、日本の門司、鹿児島などを経て那覇に到着したのは、慰安婦募集に応じて1年も過ぎた1944年11月のことだった。当時おばあさんが目撃した那覇は、米軍が1944年10月10日に沖縄各地を集中空襲したいわゆる「10・10空襲」で廃虚になっていた。 ペさんは以後、他の朝鮮人女性6人と共に沖縄本島ではなく渡嘉敷島に配置され「赤瓦の家」と呼ばれた日本軍慰安所でアキコという仮名で日本軍を相手にする慰安婦生活を強要された。以後、日本が敗戦した後には米軍収容所で今度は米兵を相手に同じ仕事をしたという。

ペ・ポンギさんを16年間世話した総連の働き手、キム・スソプ氏が1975年10月におばあさんと初めて会った南城市佐敷にあった納屋の位置を説明している。 現在、納屋の建物は撤去され、その場所には倉庫らしい建物が建っている =キル・ユンヒョン特派員//ハンギョレ新聞社

 在日本朝鮮人総連合会(以下、総連)沖縄支部の“働き手”だったキム・スソプ氏(74)がペさんに初めて会ったのは、今から40年前の1975年10月だ。当時おばあさんは、沖縄東南部の南城市佐敷に住んでいた。今は周辺がきちんと宅地として区切られているが、キム氏は「以前、この周辺はすべてサトウキビ畑だった」と話した。当時、ペさんはサトウキビ畑の内側にあった「ガスもなく水道もない」2~3坪の納屋に住んでいた。納屋はすでにかなり以前に取り壊され、今は2階建の倉庫が建っている。

 キム氏は「ペさんは当時、長い放浪生活で心身が極度に疲弊した状況だった」と話した。 同じ総連の働き手だった妻のキム・ヒョンオクさん(73)とペさんを訪ねて行けば「ある日には気分よく会っても、気分の良くない時には「会いたくない」と言って門前払いされることがよくあった」と話した。 おばあさんが頭痛、神経痛、神経衰弱などで小さな納屋で叫び続けることがあり、村の子供たちはペさんに向かって「狂ったおばあさん」と石を投げるほどだった。

 当時、ペさんは韓国語をすでに忘れていた。そのようなペさんが日本語でキム氏夫妻にたびたびした話は「友軍が負けたのが悔しいさ」という話だった。キム・ヒョンオクさんは「おばあさんの立場では、日本軍が勝ってこそ(慰安婦である)自身も暮らせたのでそのように考えたようだ」と話した。ペさんは日本軍が負けて世の中が変わったということは知っていたが、それが“祖国の解放”を意味したということは理解できなかったし、朝鮮戦争で祖国が南北に分断されたという事実も知らずにいた。さらに「私が貧しかったから」、「それが私の運命だ」として、自分に起きた不幸を全て自分のせいにしていた。

日本の出入国政策により強制カミングアウト

 自身が日本軍慰安婦だったことをペさんが明らかにすることになった契機は、1972年5月になされた“沖縄の日本復帰”だった。 沖縄の施政権を回復した日本政府が、1945年8月15日以前に日本に入国した事実が確認される沖縄県居住朝鮮人に対し特別永住を許可する措置を発表したためだ。 そしてその申告期間を3年に制限した。

 ペさんは正規教育を受けられなかったため、日本語も韓国語も読み書きができなかった。 書類を出せずに強制追放の恐怖に苦しめられたペさんは、以前に一緒に仕事をしたことのある食堂の主人に自身が「慰安婦として沖縄に来て今まで生きてきた」という話を打ち明ける。食堂の主人はこのような経過を書いた嘆願書を沖縄県入国管理事務所に提出した。 これを通じてペさんは追放されずに特別永住資格を得ることができたが、隠して置きたかった辛い個人史が世の中に知られることになる。1975年10月、日本のマスコミを通じてペさんの事情が記事化されたためだ。 その頃に出てきた1975年10月22日付の高知新聞の記事の中で、後ろ姿のペさんは「戦場での“こと”が恥ずかしくて故国に帰れなかった」と話している。

 1972年5月、沖縄が日本に返還された後に総連は1972年8月15日に沖縄で行われた朝鮮人強制動員の真相を糾明するための「朝鮮人強制連行真相調査団」(以下、調査団)を作ることになる。 また、一カ月後の9月6日には、キム氏夫妻などを中心に沖縄総連支部も結成された。 その年の10月に調査団が発表したA4用紙60頁に及ぶ『真相調査報告書』によれば、朝鮮人慰安婦と関連して「10月10日の空襲当時、日本軍の某部隊の士気鼓舞のために慰問隊員として送られた。戦争に翻弄された彼女たちは言葉も通じず地理も分からない戦場をさすらうだけだった」という記述を載せている。 キム氏夫妻は「当時はペさんのような生存慰安婦には直接会ったことはなかったが、沖縄人の様々な証言と記録を通じて朝鮮人慰安婦の実体は確認していた」と話した。

 総連の働き手だったキム・スソプ氏がおばあさんの事情を聞くことになったのも、池田という名の共同通信の記者を通じてだった。 ペさんは当初はキム氏夫妻を冷たく追い出した。 しかし2~3年も飽くことなくペさんを訪ねてくるキム氏夫妻の誠意に、ペさんは少しずつ心の扉を開くことになる。

 ペさんの「カミングアウト」は自発的な選択だったのか。 在日朝鮮人2世のキム・ミヘ東京大学特任研究員は「キム・ハクスンさんは『慰安所を作ったのは民間業者』という日本政府の嘘に怒って直接闘争を決心したのに比べ、ペ・ポンギさんは日本の出入国政策によって強制的に“カミングアウト”を強要された」と話した。 そのため、ペさんは望まない外部の取材要請に少なからぬ苦痛を受けることになる。

 ペさんの事情は韓国社会には本格的に伝えられなかった。 キム氏夫妻はその理由について「ペさんが私たち(総連の活動家)と親しく生活した結果、南側ではこれを認めたくなかったのではないか。韓国のマスコミと会ったのは今回のハンギョレ取材が初めて」と話した。 1977年4月、総連の機関紙である朝鮮新報がペさんの事情を大々的に報道すると、このような傾向は一層強化される。 ユン・ジョンオク梨花女子大名誉教授は1990年1月、ハンギョレへの寄稿でペさんを巡るこのような状況に関して「おばあさんはからだも丈夫でなく、相変らず人間忌避症を病んでいて、朝総連系のキム(キム・ヒョンオクさん)という女性の要請だけに応じると言った」と一行で整理している。

 韓国のマスコミがペさんの事情を積極的に報道したとしても、その影響力は大きくなかったと見られる。ペさんの居住地が韓国ではなく沖縄だった上に、1980年末まで韓国の軍事政権は日本に対する強制動員被害者や遺族たちの賠償・補償要求を強く押さえ込んでいたためだ。キム・ハクスンさんの勇気ある証言が出てくることになったのも、1987年6月抗争以後に日帝被害者が自分たちの声を上げられる社会的な雰囲気が形成された後だ。

 ペさんはキム氏夫妻との往来が頻繁になって、サトウキビ畑のまん中にあった佐敷の納屋を出て那覇市内に引っ越すことになった。 キム氏夫妻とペさんの共存は、そんな風にして16年間続いた。 おばあさんの気分が良くなって「今日はドライブに行こう」と言えば3人が集まって近くの温泉に行ったりもした。 キム・スソプ氏は「毎月5日がおばあさんの生活保護費が出る日だった。するとおばあさんが事務室に来て「肉買って来なさい」と言えば、家内がスーパーに行ってプルコギとビールを買ってきた。おばあさんが月に一回ずつ私たちに奢ってくれたんです」と話した。

故郷の礼山を離れて満州などさまよい
29歳になった1943年、業者にそそのかされ
アキコという仮名で日本軍を相手に
戦場での仕事が恥ずかしく
故国に帰れなかったと言った
納屋で暮らし、頭痛と神経衰弱で
「狂ったおばあさん」とまで言われたが
総連のキム・スソプ氏夫妻との交流を通じて
人生の晩年をとても大切に過ごし
91年10月18日、永遠の眠りに就く

ペ・ポンギさんの事情を日本に伝えた高知新聞1975年10月22日記事。ペさんは顔を公開せず後ろ向きで証言している =キム・ミヘ氏提供//ハンギョレ新聞社

「恨みを晴らしてほしい」

 キム氏夫妻との交流を通じてペさんは、社会を眺めるそれなりの見識を育てていったようだ。キム・ヒョンオクさんは「おばあさんと話をして『おばさんがそうなったのは、おばさんの運命のせいではない。私たちが日帝の植民地になったせいだ」と話した。 初めはそういう話を聞くことを嫌がったが、徐々におばあさんが胸の中に疑問を抱くようになって、それで自ら色々考えるようになったようだ」と話した。

 沖縄には同胞たちが多く暮らしてはいないので、当時総連支部の主な事業は米軍基地反対運動をする沖縄民衆との“連帯”だった。 当時、沖縄では韓米連合軍事訓練であるチームスピリット訓練(1976年から1993年まで実施。現在はキーリゾルブに代替)に対する反対運動が激しく戦われていた。この訓練に参加する米空軍が沖縄の嘉手納基地を活用していたためだ。 当時キム氏は、チームスピリット訓練に反対する嘉手納基地前反対集会にしばしば連帯演説に行った。 キム・ヒョンオクさんは「おばあさんが『旦那さんはどこへ行ったか』と訊けば『反対集会に行った』、『それは何をするのか』と言えば『それはそんなこんなだ』と説明をしたりした」と話した。 目立つ身なりのおばあさんが総連の関連集会に欠かさず参加しているとある時、平良良松那覇市長(1968~1984年在任)がペさんの事情を聴いて「長い間、ご苦労されました。 本来なら日本政府が責任を負って補償するべきなのに、生活保護しか出来ずにいます」と謝罪したこともあった。

 1989年1月のことだった。テレビでヒロヒト天皇が亡くなったというニュースを見たペさんが突然、「なぜ謝罪もせずに死んだのか」と言った。 ペさんがそのような話をするとは夢にも思わなかったキム・ヒョンオクさんは、ペさんに「天皇が具体的に何をしてくれたら良いと思うか」と尋ねた。 すると、ペさんは「謝罪をして欲しかった」と話した。 ペさんはこの頃、自身に降りかかった不幸の原因について、自分なりの見解を持つようになったことを感じさせる。ペさんはキム氏夫妻にたびたび「恨みを晴らしてほしい」という話もした。

 キム氏夫妻には晩年のペさんを考えれば忘れられない思い出が多い。韓国でソウル オリンピックが開かれた1988年9月、日本の週刊誌『女性自身』記者らがペさんを訪ねてきた。 日本の記者たちがペさんに故郷はどこか地図で指してくれるよう言った。 ペさんは、忠清南道礼山新礼院里を指した。 たまたまカメラマンのフジイ氏が近所に住んだことがあった。 興奮した日本の記者たちは、ペさんに「私たちが旅費を出すから故郷に一度行ってみないか」と提案した。 ペさんは「そうだな、行きたいけど、一度行かなくては」と言いながらも確答はできなかった。 そのうちにペさんはわあわあと泣き出してしまった。 キム・スソプ氏は「ペさんとは長く過ごしているが、そんな風に悲しみ泣く姿を見たのその時が初めて」と話した。

 もう一度は、ペさんを主人公に『沖縄のハルモニ』というドキュメンタリー映画を作った山谷哲夫という映画監督が、上映会で集めた寄付をペさんに渡したことがあった。 ペさんは初めはそのお金をキム氏夫妻に渡して受け取ろうとしなかった。押し問答の末、キム・ヒョンオクさんが以前に「女は結婚して家庭をもうけ、子を産んで良い暮らしをするのが幸せ」と言ったペさんの話を思い出して「一緒に指輪をしに行こう」と提案した。 キム氏夫妻はペさんと一緒に沖縄の中心街である国際通りにある一番有名な宝石店に行き金の指輪を買った。 キム・ヒョンオクさんがペさんに「おばさん、これ持って行きますか、して行きますか?」と尋ねた。 ペさんはうれしそうな顔で「して行くよ」と答えた。

 ペさんが息をひきとったのは1991年10月18日だ。その年、沖縄は例年より蒸し暑い日が続いていた。 ペさんの健康を心配したキム氏夫妻は、10月初めにペさんに「一緒に病院に行こう」と話した。 その数日後、キム氏夫妻は「ペさんの家のドアをたたいても返事がない」という那覇市社会福祉担当職員の連絡を受けた。 不動産屋で鍵を借りドアを開けたところ、ペさんはベッドで一休みしているように横になって亡くなっていた。

 ペさんの49日を兼ねて追悼式が開かれた日、彼女を記憶する多くの人が集まった。キム氏夫妻が公開した追悼式の写真を見れば、追悼式の祭壇の前に那覇市長と沖縄県知事が贈った花輪も見える。 ペさんが暮らした那覇市前橋2丁目の住民たちは、ペさんをキム氏夫妻の親戚だと思っていた。後になってペさんがどんな生活を送ったかを知った住民たちはとても驚いたという。 先月24日午後、ペさんが晩年を過ごした前橋2丁目の路地を訪ねてみた。 25年前、おばあさんの後ろ姿を捉えた写真に写っている“昭和不動産”の看板は今も変わっていなかった。 庶民が暮らす、どの町にでもよく見られる閑静で寂しい通りだった。キム・スソプ氏は「ペさんが慰安婦としてものすごく苦労してかわいそうな人のように思われているが、私はペさんを哀れだとは思わない。ペさんは人生の晩年をとても大切にして生きたから」と話した。

1991年12月6日、ペ・ポンギさんの49日を兼ねて、沖縄の那覇で開かれた追悼式。ペさんを記憶する多くの人が集まって、彼女の死を追悼した。 写真の後方に沖縄県知事、那覇市長が贈った花輪も見える =キム・スソプ氏夫妻提供//ハンギョレ新聞社

キム・ハクスンさんの弔慰金1万円

 おばあさんの49日が行われた1991年12月6日は、偶然にもキム・ハクスンさんが東京地方裁判所に最初の慰安婦被害補償訴訟を請求した日だった。キム・ハクスンさんがどこで知ったたのか、ペさんの追悼式に1万円の弔慰金を送ってきた。 ペ・ポンギさんがキム・ハクスンさんのような“闘士”であったかは分からない。 おそらく、ペさんは自身が慰安婦だったという事実が明らかになることを望んではいなかったようだ。とはいえ、ペさんはキム・ハクスンに歴史的な“バトンタッチ”をしてあの世に逝った。そしてキム・ハクスンさんも亡くなり、多くの時間が流れた。慰安婦被害者は亡くなって、今は48人しか残っていない。

 キム・ミヘ特任研究員は「ペ・ポンギさんを通じて慰安婦被害者が戦争の後にどんな生活を送り、どんな苦痛を味わったのか、私たちが少しは知ることが出来るようになった。 ペさんは戦争が終わって慰安婦女性たちがどんな人生に耐えなければならなかったかを見せる窓のような存在ではなかったかと思う」と話した。

渡嘉敷・那覇・佐敷(沖縄)/キル・ユンヒョン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-08-08 15:21
http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/703614.html 訳J.S(9515字)

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