2010年3月9日、当時は米国の副大統領だったジョー・バイデンはイスラエルを訪問し、米国の安保公約を改めて強調した。イスラエルの違法なパレスチナ占領地への入植地建設が大きな摩擦を引き起こした直後だった。米国はイスラエルの入植地建設中止発表をチャンスとみて、バイデンの訪問で平和交渉を促進しようとした。
しかし、強烈な不意打ちを食らった。バイデンとネタニヤフ首相の晩さんの直前、イスラエル内務省は東エルサレムの占領地に1600軒を建設するとして、入植地の拡大計画を発表したのだ。晩さんのテーブルに灰をばらまいた格好だ。ネタニヤフは、計画発表は知らなかったとしらを切りつつも、発表を翻すことはなかった。
バイデンは現地で批判声明を発表した。しかし、当時の国務長官ヒラリー・クリントンは、バイデンは「いかにも彼らしく、これらすべての騒動にも落ち着いていた」と回顧録に記している。ヒラリーは、本当に激怒したのはバラク・オバマ大統領だったと語る。オバマはヒラリーに、自らの怒りをネタニヤフにはっきりと伝えるよう指示したという。ネタニヤフはこの直後、強力なユダヤ系ロビー団体「米国イスラエル公共問題委員会」の総会に出席するために米国を訪問した。ヒラリーは、オバマはホワイトハウスにやって来たネタニヤフをほぼ1時間も待たせるというやり方で復しゅうしたと語る。
2024年9月27日、バイデンはネタニヤフにまたも一杯食わされた。イスラエル軍によるレバノンの首都ベイルートへの空爆で、ヒズボラの指導者ハッサン・ナスララが殺害されたのだ。
バイデンは、ナスララは米国人の殺害に対しても責任があるとし、声明で「正義の措置」だと述べた。しかし報道などを見ると、ネタニヤフに振り回されていたことがはっきりする。ナスララ射殺2日前の25日夜、バイデンとフランスのマクロン大統領は、21日間の休戦を求める共同声明を急きょ発表していた。ニューヨーク・タイムズは、議論がかなり進んだからこそ発表された声明だと伝えた。ホワイトハウスの特使は国連とレバノンの官吏たちに、イスラエルは休戦を支持する考えを明らかにするだろうと述べていた。ナスララも仲裁人を通じて支持を表明していたという。ネタニヤフも翌日、「イスラエルは米国が主導する計画の目標を共有している」として呼応するかのような態度を取っていた。
ところが、ニューヨークの国連総会でのネタニヤフ演説の2時間後、ベイルートで火の手が上がった。イスラエルは数日前から計画を立てていたが、米国には知らせなかったという。イスラエルのヒズボラとの休戦は、ガザ地区のハマスとの休戦も意味しえた。任期末に難題を解決し、歴史に名を残す大統領になるという希望を抱いていたであろうバイデンは、茫然(ぼうぜん)自失したことだろう。再選の夢を不本意ながらあきらめた彼は、ノーベル平和賞を夢見ていたかもしれない。しかし、14年前にイスラエルを訪れた自分を一杯食わせたネタニヤフが、今度は米国にやって来てそれをした。
最強国の指導者がどうしてこうなったのか。イスラエルの戦略的価値、米国のユダヤ人の力、ネタニヤフの知略などが背景にあるだろう。しかし、決定的な責任はバイデン自身の無能、判断ミス、偏見にある。ガザ地区が灰と化した時も、彼は民主主義(イスラエル)と反民主主義(ハマス)勢力の戦いが本質だとのイデオロギーを繰り返した。
米国のジャーナリスト、ボブ・ウッドワードは近日中に出版する本で、バイデンがネタニヤフのことを「非常に悪い奴」だと言ったと語っている。それを分かっていながら利用され助けた人間のことは、何と呼べばよいのだろうか。
イ・ボニョン|ワシントン特派員 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )