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[寄稿]徐京植氏と和田春樹氏の文章を読んで

登録:2016-05-13 22:17 修正:2016-05-15 06:55
先月28日、東京目黒区の東京大学駒場キャンパスで開かれた朴裕河教授の著書「帝国の慰安婦」に関する討論会で、参加者たちが多様な意見を交わしている=東京/3・28集会実行委員会提供//ハンギョレ新聞社

 さる3月11日、ハンギョレ新聞に、在日二世の徐京植氏による和田春樹氏への長文の批判が掲載された。私はそれを読み、「同じことを繰り返し書いている」と思った。徐は今回の文章を「やむにやまれぬ気持ち」で、「『恩知らず』と思われるのではないかと躊躇し」つつ書いたというが、これは今に始まったことではなく、彼はまったく同じ趣旨の和田批判をこの20年の間あちこちで話している。

 徐によるそうした和田批判に対して私が最初に論じたのは1998年のことだった。私はこう述べた。

 「和田氏が『目下の情勢では〔国家補償立法の実現は〕不可能』と判断していることを『根本』への働きかけを放棄した『ニヒリズム』だと言うためには、和田氏と同じ重量の具体性でもって反論するという慎重さが求められると思います。」(「『新たな連帯』への序章」、拙著『二世の起源と「戦後思想」』2000年)

 そして、元「慰安婦」について語った徐の「慰安婦の人たちは私の母だ」(日本の戦争責任資料センター編『ナショナリズムと「慰安婦」問題』98年)という言葉の薄っぺらさを私が指摘したのは1999年のことだ(「足踏みする二世たち」同前)。

 徐京植の思想に決定的に欠落しているのは、冷戦崩壊という不可逆的な転換点への認識である。その自覚の有無において、和田春樹と徐京植は対極に位置する。そうした徐が、アジア女性基金に加わった和田について「理解しがたい」、「釈然としません」と書いているのはしごく当然だ。

 そして、冷戦崩壊という歴史的な転換点への徐の無自覚が象徴的に現れているのが、彼の在日朝鮮人論である。90年代に入って徐が示した在日像は、在日朝鮮人は「朝鮮半島の政治的現実によって日常の生を拘束されている。」(『歴史学研究』703号、1997年。下線は引用者による)、「いうまでもなく朝鮮半島の政治的現実は、国境を越えて在日朝鮮人の生の条件を根本的に規定している。」(徐京植『分断を生きる』97年)という、1960年代に日本で展開された在日論そのものであった。韓国で発表された「『在日朝鮮人』の危機と岐路に立つ民族観」(『歴史批評』96年夏号)を下敷きにして書いたという文章では、60年代式の運動論を型どおりになぞっている。

 「分断を克服し、民族成員の大多数の希望と利益にかなうかたちでの民族統一を実現する過程に、主体的に、公然と、広範に参加することによってのみ、在日朝鮮人は自己を解放することができるだろう。」(『分断を生きる』)

 朝鮮半島の北部には社会主義国が存在しているのにもかかわらず、ソ連東欧圏の社会主義が崩壊する事態が起ころうと、在日朝鮮人にはなんら関係がないというわけだ。こうした徐の運動論が、和田批判文で繰り返されている「原則的立場」なるものを在日論に援用したもの、つまり、徐京植の兄である徐勝が法廷で陳述した「実際に豊かな統一された、世界に誇るに足る祖国をもつことであり、更には全民族的一体感を確固とし、紐帯を強めることであります」の言い換えにすぎないことは言うまでもない。

 今日にいたるも徐は、60年代に始まった在日二世の運動、なかでも韓国民主化運動への連帯の動きについて一度たりとも総括したことはない。「思春期の頃から漠然と『もの書き』を志望していた」(徐京植『植民地主義の暴力』2010年)徐が転換点を自覚したのは「兄たちの出獄」においてだけだ。

 「1988年5月と90年2月に兄たちは出獄することができ、この時を境に私個人の人生にも転機がおとずれた。」(『分断を生きる』)

 自分一個の人生には反応しても、在日朝鮮人運動における「兄たちの出獄」の歴史的な意味については徐は考えない。しかし私でさえ次のようにとらえていた。

 「転機の要因は1990年、数十名をかぞえた在日韓国人政治犯の象徴的存在であった徐勝の日本帰国である。韓国の民主化はすでに87年に実現していたが、在日朝鮮人にとっては政治犯の象徴的人物の日本帰国によって、民主化達成の実質的な節目をむかえたといえる。何かが終わり、何かが始まろうとする過渡期に入ったのである。」(李順愛「伏流する分解と再編」『論座』2004年5月号)

 そして、90年代以降、徐をはじめとする二世たちが繰り出したのは、そのほとんどが、これまでと同じような観点、同じような論調の日本批判だった。それは意味のないことではなかったが、そこには在日朝鮮人運動を省みようとするような自己省察の視点は皆無である。徐は今回の和田批判のなかで、こう書く。

 「日本国民の多数者は、この『蒸し返し』の原因と意義を理解できず、さらに攻撃性を強めることでしょう。国民のこのような攻撃性を国家は徹底的に利用しようとするでしょう。」

 日本国民の多数が「攻撃」するとは、被害妄想がすぎないか。徐はさらにこうとも書いている。

 「日本国民の多数は、すでに内面化された差別意識や攻撃性を克服できないまま、この悪夢を傍観するか、あるいは積極的に支持するでしょう。」

この日本国民について、徐は他のところで、「リベラルで良識的なはずの日本国民多数」(『植民地主義の暴力』)とも表現している。徐が和田批判文の中で繰り返し指弾するのはこうした「日本のリベラル派」に対してだ。そして日本は90年代から「長い反動の時代に入った」というのである。

 徐京植氏に問いたい。88年5月に徐俊植氏が、続いて90年2月に徐勝氏が出獄したが、その長期にわたる救援運動を日本で持続的に応援し続けたのはいったい誰であったのか。監獄にとらわれていた徐兄弟を救おうとする運動は、「反動の時代」に入るという90年代以前のものだから「正義」だったとでもいうのだろうか。このことは、徐が言うような「恩人」だとか「恩知らず」だとかのレベルの話ではないだろう。そうした支援者たちを今になって「反動」であると罵倒するのなら、緻密な論理構成をもって丁重に批判するというのが当然の手続きだ。今回のように日刊新聞の三面を使って、それも特定個人にむけた批判を全面展開するのならなおのこと、せめて和田の論考をもう少し深く読み込んだうえで書くべきだろう。徐の和田批判の単純かつナイーブな論理には驚くべきものがあると言わざるをえない。

 和田は、自己批判も厭うことなく、「アジアの被害者に対して何もできなかった」戦後日本のあり方を切開し、「この状況を破るには、保守右翼と保守中道派を切り離し、中道派を説得して、革新派と連合させ、新しい国民的コンセンサスを構築する他ありません。これまでは政府の政策に反対することによって政府の行動にブレーキをかけることができたのですが、政府に自分たちの望む政策を実現させるには、それでは足りない」(『日本は植民地支配をどう考えてきたか』96年)と判断した。そして、元「慰安婦」たちに国家補償をすべきなのはその通りだと受けとめつつ、次のように訴えた。

 「問題はそれをどうして実現するかということです。(略)実現のためには国民的コンセンサスをつくり、国会の中で多数となって、そして政府を動かしていかなければならない。私たちが少数派として反対しているだけでは動かないということが明らかです。その時にどうするのかという問題に私たちは直面しています」(『「慰安婦」への償いとは何か』96年)

 ここに現れている、きわめて実践的かつ意識的な和田の試行錯誤は、冷戦崩壊を受けて着手された日本の戦後革新運動の深刻な総括の延長線上に位置している。「新しい時代に主体的に入る」(和田春樹『歴史としての社会主義』92年)ことが目指されたのである。

 その冷戦崩壊については、徐の批判文では次のように語られる。

 「日本では東西対立時代の終焉は『脱イデオロギー時代』という浅薄な決まり文句とともに、進歩的リベラル勢力の自己解体という方向で進行しました。」

さらにまた、「進歩勢力がみずから『脱イデオロギー』と称して理念や理想を捨てていたとき、右派勢力はむしろ国家主義イデオロギーの砦を固めて反抗の機会をうかがっていたということになります」と述べている。

 ここで日本の「進歩的リベラル勢力」による運動の推移を「脱イデオロギー」という「浅薄な決まり文句」で説明しているのは徐自身であり、「理念や理想を捨てて」というのもあまりに一面的な観点である。これまで、韓国の運動圏や在日朝鮮人の一部には、頭から日本人の運動をたいしたものではないと見なす傾向が存在していたように思う。自分たちのほうが厳しい運動を闘っているのだと。しかし、それは内実を知ったうえでの判断というよりも、むしろ知らないがゆえの、ある先入観、気分的なものだったのではないかと思われる。

 徐京植は言う。

 「『原則』、いいかえれば『理想』を共有してこそ、『連帯』が可能となるからです。」(この一行はハンギョレ新聞の日本語版にあるが、韓国語版では省略されている)

 徐は、自分が思う「原則」「理想」のもと、和田批判をとおして「抗日闘争」を実践しているつもりなのだろうが、あまりに大時代的で的外れだ。

 ハンギョレ新聞の記事には、「和田の現実主義と徐京植の理想主義との間の葛藤」(2016年3月25日)と書かれているが、あまりに単純化しすぎている。和田が言っているのは、「現実的に実現可能な政策的オルタナティブを考えていく」(『月刊フォーラム』96年3月号)というものであり、しかし一方で、「この地上に現在存在しない状態を夢見ることなしに本格的な改革の運動がなりたつとは思えない」(『歴史としての社会主義』92年)という重層的なものだ。「原則」であれ「理想」であれ、それだけを語ってすむのなら、社会主義の崩壊は起こらなかったのではないだろうか。

 最後に、徐の和田批判文における事実関係の間違いについて、ここでは二点のみ指摘しておきたい。

 その第一点目は以下のようなものである。

 徐は冒頭で、「昨年12月28日、韓日外相会談による、いわゆる『慰安婦問題に関する最終合意』が発表されましたが、被害者をはじめ韓国や世界の多くの人々がこれを批判し激しく反発しています」と書いている。そこで、日本の一般紙に掲載された、三人の知られた在日同胞の意見を紹介する。

  「合意では、慰安婦について日本軍の関与を認めており、反省が読み取れる。長い年月がかかったが、両国の間に刺さっていた大きなとげが抜ける内容だ。(略)合意内容について、筆舌に尽くし難い経験をした元慰安婦やその支援者が、すぐに納得できるとは思えない。日本側は『問題をむし返さない』ことを求めている。日本の保守層からは『韓国側に弱腰だ』という反発も出るかもしれない。しかし、お互いに冷静にみたらこの方法しかないだろう。」(詩人の金時鐘、『毎日新聞』2015年12月29日)

 「双方とも、早期妥結のため、うまく落としどころを見つけた。(略)100%の解決ではないにせよ、日韓国交正常化50年の節目に合意できたことは歓迎できる。」       (大阪市立大教授・朴一、同前)

 「長い時間はかかったが、二国間で解決しようとする政治的な動きに光明を見た気がする。」(二世の作家・深沢潮、同前)

 これらをみても、「激しく反発」されているとはさすがに言えないだろう。

 なお、付言すると、今回の韓日合意について、日本の新聞が伝える次のような指摘を韓国の人々は知っておくべきだと思われる。

 「韓国では支援団体などの反発が続く一方で、評価する元慰安婦らの声はほとんど表には出ていない。(略)実際、評価する元慰安婦の声は表に出にくい。」(『朝日新聞』2016年2月29日)

 「韓国外務省によると、独り暮らしや家族と生活している元慰安婦の多くは合意を肯定的に受けとめているが、その声が表に出ることはほとんどない。」(『日本経済新聞』2016年3月20日)

 今度の韓日合意については、当事者ではない人々には、「激しい反発」ではなく、少なくとも冷静な判断が求められていることは間違いないだろう。

 徐京植の事実関係の間違いの二点目は次の箇所である。

 「慰安婦問題は東西対立終焉後の韓国と日本で、このように社会変動のベクトルが逆方向に交差する中で浮上したものといえるでしょう。いうならば、『原則』を守り抜いて民主化を勝ち取った韓国側と、生き残りのために次々と『原則』を放棄しつつあった日本側進歩勢力とが、慰安婦問題を間に置いて向かい合うことになったわけです。」

 ここで言われている「『原則』を守り抜いて民主化を勝ち取った韓国側」が東西対立終焉後にどのような動揺を経験したかを、徐はまるで知らないかのようだ。それは、1945年以降の、マルクス主義の強い影響下における葛藤をすでに経て久しい日本をしのぐかのような動揺だった。「慰安婦」運動を実質的に支えた韓国女性団体連合ですら、その動揺から無縁ではいられなかったのである。

徐が主張するように、「民主化を勝ち取った韓国側」が、文中で指示されているような意味で「『脱イデオロギー』と称して理念や理想を捨て」るプロセスをまったく経なかったのだとすれば、徐京植はその根拠を具体的に提示することができなければならない。

 日本の戦後期に思考し実践された和田春樹の経験を軽く見るわけにはいかないのである。

 李順愛(お問い合わせ japan@hani.co.kr )  

                       

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