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[寄稿]日本知識人の覚醒を促す 和田春樹先生への手紙 (1)

登録:2016-03-12 00:41 修正:2016-03-12 09:45
昨年9月の著書出版に合わせ対談する徐京植東京経済大教授(左)と、2013年8月にハンギョレのインタビューに応じる和田春樹東京大名誉教授=リュ・ウジョン記者、イ・ジョンア記者//ハンギョレ新聞社

 和田春樹先生、やむにやまれぬ気持から、このお手紙を差し上げます。ことの性質上、公開書簡の形にしたことをご理解下さい。

 昨年12月28日、韓日外相会談による、いわゆる「慰安婦問題に関する最終合意」(以下「合意」)が発表されましたが、被害者をはじめ韓国や世界の多くの人々がこれを批判し激しく反発しています。先生がこの「合意」の直後に新聞に公表された見解「被害者訪ね謝罪の言葉を」(「朝日新聞」2015年12月29日)は、今回の「合意最終妥結」は「意外だった」という言葉で始まっています。「被害者にどのように謝罪の言葉を伝えるのかが、まったく見えてこない」とし、韓国政府が造る財団に10億円拠出してすませようという「無責任な態度だと反発を受けかねない」と懸念を表しておられます。

1985年2月、和田春樹教授(左)が米国亡命から帰国を断行し日本の成田空港のホテルに泊まっていた金大中氏を訪問した時の様子=資料写真//ハンギョレ新聞社

 今回の「合意」に対する批判の代表的なものとして、「慰安婦問題」研究の第一人者である吉見義明教授が「真の解決に逆行する日韓『合意』」と題する文章を発表しています(「世界」2016年3月号)。その論旨をごく簡単にまとめると、以下のとおり。(1)事実と責任の所在の認定があいまいである。「(日本)軍の関与の下に」というのでなく、「軍が」となぜ言えないのか。(2)「慰安婦」制度が「性奴隷制度」であることを否認している。(3)賠償しないという「合意」である。(4)真相究明措置と再発防止措置は実施されていない。(5)加害者側が「最終的かつ不可逆的に解決」などと言ってはならない。それを言えるのは被害者側だけだ。「今回の合意は、日韓両政府が被害者を抑圧して、解決したことにするという強引なものである。(中略)これが実施過程に入っても被害者は受け入れないだろうから「合意」の実現が不可能になる。だから「最終解決」はされえないだろう。(中略)白紙に戻してもう一度やりなおさなければならない。」

 私は、この吉見教授の見解に全的に同意するものですが、和田先生はいかがですか?

 和田先生は「朝日新聞」の記事で、自身の深くかかわった「アジア女性基金」は韓国で受け入れられなかったとし、その最大の理由は「日本政府は本当に謝罪する気なのかと疑われたことだった」と述べています。まさにそのとおりですが、私は釈然としない思いを禁じることができませんでした。和田先生ははたして「アジア女性基金」が受け入れられない理由を真に認識しておられるのだろうか、という疑問を覚えるからです。いいかえれば、和田先生には朝鮮民族(朝鮮半島南北の住民および在日朝鮮人を含むコリアン・ディアスポラの総称)の心が見えているのだろうか、という問いになります。

 今回の「合意」発表以前から、和田先生は、アジア女性基金は「客観的に見れば日韓間の問題としての慰安婦問題を解決できなかった」とし、「被害者と運動団体が受け入れない案を提示して事業に失敗するということはくりかえしてはならない」と指摘されました。さらに韓国側が提示した条件、すなわち「被害者が受け入れ、韓国国民が納得できる」案であることが核心的に重要であることを強調されていました。(「問われる慰安婦問題解決案」『世界』2016年1月号)

 結果からみると、先生のこの思いは日本と韓国の政権に裏切られたとみるほかないでしょう。先生はこの「合意」発表を「意外だった」といわれますが、ということは、「被害者が受け入れ、韓国国民が納得できる」解決策で合意される可能性があると見ておられたということでしょうか?

 日本政府は早々と今回の「合意」そのものを反故にしかねない言動を繰り返しています。一例を挙げれば、去る2月16日、国連女性差別撤廃委員会の対日審査において、日本の杉山外務審議官は慰安婦問題について「最終的かつ不可逆的」に解決されたと強調しつつ、「日本軍や政府による慰安婦の『強制連行』は確認できなかった」という趣旨の発言をしました。同じ発言のなかで、この問題で日本政府がとってきた対応として「アジア女性基金」の活動を挙げたそうです。つまり、日本政府はこれまでと同様、今回の「合意」も外交的な自己防御のレトリックとしてのみ活用していく姿勢を明確に示しているのです。その視点からみると、「安倍首相と朴大統領に、いま一歩の努力をお願したい」という和田先生の見解(前掲「朝日新聞」記事)は、吉見教授の見解に比して、いかにもあいまいであると言わざるを得ません。

 現実には、和田先生の懸念した「過ち」は、あくまで国家責任を否定したい日本政府の立場からみれば「過ち」ではなく、むしろ外交的成功だったといえるでしょう。彼らは終始一貫しています。そして、韓国政府はそれに加担したということです。それが「過ち」であったとすれば、「アジア女性基金」の失敗の原因を省察することができず、それを思想的に深めて後代に継承できなかった者たちの「過ち」といえないでしょうか。まことに僭越な言い方になりますが、この意味で、和田先生ご自身の責任も決して小さくないと考えます。

「最終解決」

 「慰安婦問題の最終解決」という言葉は、「ユダヤ人問題の最終解決」というナチの行政用語を連想させ、不吉な胸騒ぎを引き起こします。この用語は、あらゆる「問題」の原因を「ユダヤ人」におしつける心理的機能を果たし、究極的に工業的大量虐殺に帰結しました。同じように、「慰安婦問題」という用語は、それが本来「日本問題」であるにもかかわらず、「慰安婦」に問題があるかのような偏見を醸成します。理性的に思考することのできない人々は、目障りな問題は除去したい、うるさい存在は黙らせたい、という反知性的な衝動に身を任せることになります。当事者を無視して強行された「慰安婦問題の最終解決」という「合意」が、今後どんな惨憺たる事態を招くことになるのか、憂慮に耐えません。それは被害者を黙殺する名分、被害者を黙らせる圧力(象徴的には「少女像」の撤去)となって現れるでしょう。愚かにもこの合意を承認した韓国政府は、このような不正義の企てに協力する立場に立つことになりました。

 しかし、歴史が語っているように、被害者を最終的に黙らせることは不可能です。「蒸し返さない」という約束は両政府間ではありえたとしても、被害者との間ではありえないことです。「慰安婦」問題の真相は、被害者とそれに共感し支持する人々による不断の「蒸し返し」のおかげで明らかになってきたものです。その「蒸し返し」がなかったとしたら、隠蔽された資料が探し出されることも、証人が名乗り出ることもなかったでしょう。政府間でどんな空約束をしようと、今後「蒸し返し」がないということはありえず、必要とあれば何度でも「蒸し返す」ことこそが、被害者側だけではなく加害者側にとっても、正義にかなっているのです。

 しかし、日本国民の多数者は、この「蒸し返し」(広くいえば植民地主義批判)の原因と意義を理解できず、さらに攻撃性を強めることでしょう。国民のこのような攻撃性を国家は徹底的に利用しようとするでしょう。私の脳裏に浮かぶ悪夢は、近い将来「朝鮮半島有事」という事態が起きることです。そうなれば、米軍とともに(いまは自衛隊という名の)日本軍が朝鮮半島に侵入してくることになるでしょう。その準備が着々と進められています。日本国民の多数は、すでに内面化された差別意識や攻撃性を克服できないまま、この悪夢を傍観するか、あるいは積極的に支持するでしょう。

 これは言うまでもなく、私たち朝鮮民族と日本国民との平和的な共存、よりよい社会に向けての連帯にとって最悪の危機です。このことは、近代史を通して繰り返し提起されてきた日本国民への思想的問い、和田先生自身も提起した問いを、いま一度、深刻に想起してみることを私たちに要請しています。私がほかならぬ和田先生あてに手紙を書くことにしたのも、このような理由からです。金学順(キム・ハクスン)さんの記者会見から25年。いわゆる「慰安婦」問題は、まったく解決しそうもないままに歳月が過ぎました。私はこの間の日本社会と韓国社会の推移を見つめてきたものとして私見を述べ、先生のご批判をあおぎたいと思います。

暗鬱な風景

 この数年、眼の前にはつねに暗鬱な風景が広がっています。2012年12月の総選挙で自民党が大勝し政権政党に復帰しましたが、その際の街頭演説の光景が目に焼き付いています。秋葉原の駅頭で演説する安倍晋三自民党総裁を、日章旗を打ち振って歓呼する「市民」たちが取り巻いて、反中・嫌韓・在日外国人排斥を叫びました。1930年代のドイツやイタリアにタイムスリップしたような、身の毛のよだつ光景でした。インターネット上で、都市の街頭で、極右排外主義勢力の暴言が続いています。それどころか、現在の日本政界は、安倍首相自身をはじめとする歴史修正主義者たちに完全に占拠された状態です。

 「慰安婦」問題をめぐっても、韓国の運動体には「過激民族主義」、日本の市民運動体には「反日主義」という低劣な悪罵が投げつけられ、韓日の市民・研究者たちの積年の努力、研究の蓄積、議論の深化をまったく覆す勢いで、否定論や歴史修正主義の嵐が吹き荒れています。嘆かわしいのは、ジャーナリストや知識人たちまでも、このような嵐にただただ身をすくめるか、あるいはみずから進んで同調していることです。

 昨年夏に発表された安倍晋三首相の「戦後70年談話」は首相自身がまぎれもない歴史修正主義者であることを再確認させるものでしたが、日本のメディアや知識人から、その点を鋭く指摘する声はほとんど聞かれませんでした。安倍談話は冒頭で、「日露戦争が、植民地支配のもとにあった多くのアジア・アフリカの人々を勇気づけた」と述べています。この認識は長年にわたって日本保守派に広く共有されてきたものですが、朝鮮民衆の立場からは到底容認できないことは言うまでもありません。日露戦争は朝鮮半島と中国東北地方(満州)の覇権をめぐる戦争であり、朝鮮は日本によって軍事占領されて「保護国」化され、そのことが、のちの「併合」へとつながりました。植民地化に抵抗した「抗日義兵」など多くの朝鮮民衆が日本軍に殺戮されたことも歴史の事実です。その朝鮮民族に向かって、安倍首相は、日露戦争を引き合いに出して自国を美化してみせたのです。これは「和解」とは正反対の、愚弄とも挑発ともいえる言動です。

 ここでは朝鮮の例のみを挙げましたが、安倍談話は北海道、琉球(沖縄)、台湾に対する征服と支配について、一言の「おわび」も「反省」も述べていません。安倍首相がその談話において「反省」したのは、第一次世界大戦後、日本が「世界の大勢」を見失い、戦争への道を進んで行った、という点のみでした。これは欧米諸国への弁明にすぎず、植民地支配と侵略戦争の被害者に向けた「反省」といえるものではありません。

 安倍談話には「戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません」と述べているくだりもあります。これがいわゆる日本軍「慰安婦」を指す言葉であれば、なぜ明示的にそう語らないのか。「忘れてはなりません」と、誰が誰に向かって教え諭そうというのか。しかも、誰が傷つけたのかという主語は周到にぼかされています。あくまで国家としての責任を否定または回避しようとする意図がそこに貫かれています。

 日本政府は昨年夏の国会で憲法の恣意的な解釈変更によって日米間の「集団的自衛権」を容認する安保法制を強行採決しました。本年1月、「戦後レジームからの脱却」を信条とする安倍首相は、今後改憲に着手すると公然と表明しました。戦後日本の平和主義は、朝鮮民族を含む莫大なアジア民衆の犠牲を代価として与えられたものです。平和の果実はおもに日本国民が享受して来ましたが、日本国民だけのものではありません。しかし、それさえも、いま投げ捨てられようとしているのです。みずから「平和国家」を標榜し、世界の多くの人々もそのように思い込んできた日本が、その看板を降ろす日が迫っています。日本社会に生まれ、そこで65年を暮らしてきた私ですが、こんな風景を見ることになるとは想像していませんでした。なぜなら、私に「人権」「平和」「民主主義」など普遍的価値を教育したのも、戦後日本の平和主義教育と文化だったからです。それが、目の前で無残に崩れています。

初心

 和田春樹先生のことを想うと、私の脳裏に古い写真のような情景が浮かび上がってきます。あれは1980年代のはじめ、先生は40代の前半、私はまだ30になったばかりの頃でした。夕刻の銀座通りを歩いていた私は、偶然に先生の姿を見かけました。どこに行かれるのかと尋ねると、「数寄屋橋公園へ」という答えでした。「いまから、デモです」と。

 その当時、先生は「日韓連帯運動」に邁進しておられました。光州事件の後、「金大中内乱陰謀事件」の軍事裁判が進行中で死刑判決が予想されるという、文字どおり絶望的な日々だったと記憶します。「金大中を殺すな!」と訴えるその定例デモには多くても数十人、少ないときは数人しか参加しないこともあると聞きました。高名な先生が、そのように世人の関心を引くこともない活動を黙々と続けておられる。華やかな銀座通りを行き交う日本国民の大半は無関心であっても、ここに私たち朝鮮民族の真の友とよぶべき人がいる。そう感じながら私は、重い鞄を下げてゆっくりと立ち去っていく先生の後ろ姿を見送ったのでした。

 

 先生はその当時のお考えを、著書『韓国民衆をみつめること』(創樹社1981)にまとめておられます。本書「はじめに」に、高校生のときに竹内好の『現代中国論』(1951年初版)を読んで、「歴史と社会に開眼した」という記述があります。竹内との出会いは人間和田春樹の思想形成に決定的な意味を持ったようで、その後も今日まで繰り返し、先生の著作にこの話が登場します。

 和田春樹少年の心を揺すぶったのはおそらく、この本に収められている「日本人の中国観」という論文でしょう。1948年に日本を訪れた中国国民党政府の高官である張群が、帰国する際に「日本の皆さんへ」というメッセージを残した。それは、「日本国民に対し、思想革命と心理建設とを徹底的に実行するよう切望」する、「この二つは平和民主日本を保証するだけでなく、日本と他の民主国家とが合理的関係を再建するのに必要な保証にもなる」と述べていた。しかし誰もこの呼びかけに答えたものがいない、だからこそそれに答えたい、それが自分の義務だと感じた。そう先生は記しておられます。

 張群のメッセージをほとんど誰もまともに受け止めなかった原因について、竹内好は、商業新聞から日本共産党にいたるまで、中国革命を皮相的なイデオロギー対立の側面からだけ見て、「その底に流れている民族的な革命のエネルギイの面からそれを見ていないからではないか」と指摘し、敗戦直後であるその当時も、日本人の中国観の根底には「侮蔑感」がある、と喝破しています。推測するに、この竹内の思想に触発された和田少年は、その後、これを朝鮮問題に向かい合う時の自己の思想的参照軸にしたのでしょう。「日本人の朝鮮観」を根底から問い直し、「思想革命と心理建設とを徹底的に実行」することが、先生の初心だったのではないでしょうか。

 先生の『韓国民衆をみつめること』によって、若かった私はそれまで漠然としか知らなかった自民族の苦闘の歴史と、その中で闘い続ける尊敬すべき人々について多くを教えられました。それはまた、アジアに対する無理解と偏見の暗い穴から抜け出ることができない大多数の日本国民の中に、真の連帯のために自己変革の必要を唱える「稀な日本人」が存在することを知る機会でもありました。当時の感銘が、35年もの年月が経ったいまもよみがえってきます。

 本書第1章の「韓国の民衆をみつめること―歴史の中からの反省」と題された論考は1974年、維新独裁が最悪の弾圧政策を繰り広げていた時期に発表されたものです。

 先生は、日本が朝鮮を「併合」したとき、詩人・石川啄木などわずかな人々を除いて、「いかに恐るべき罪の道に日本国が入り込もうとしているか」をほとんどの日本人が知らず、あるものは国家権力への恐怖に委縮し、またある者は「併合」に酔いしれて、「日本帝国主義の朝鮮植民地支配がはじまってしまった」と指摘した上で、「日本人が、この侵略と収奪の歴史を否定して、朝鮮半島の人々との新しい関係を創造していくチャンス」は三度あったと説いておられます。

 その第一のものは1945年の日本敗戦時。第二の好機は1964-65年、韓日条約交渉の妥結前後。しかし、この二度のチャンスにも、日本国民の大部分は、朝鮮民族の真意、抗日独立闘争の意義を理解することができず、朝鮮民衆と連帯できないまま好機を逃したと指摘した上で、1973年、東京から金大中大統領候補が韓国国家機関に拉致された事件と、それを契機に起きた韓国民主化連帯運動の中に「第三のチャンス」がある、と力説しておられます。これは「われわれが生まれかわるための連帯である。日本人と朝鮮半島の人々との間の歴史をすべての面で問い直し、根底からつくり直すための連帯である」と。

 日本国民はこの「第三のチャンス」をつかんだのでしょうか?

 かすかな曙光が射し込んだように思えた瞬間はありました。韓国民主化闘争の前進に励まされて、韓日民衆間の連帯が急速に進むように見えた瞬間です。しかし、90年代から今日まで、日本は長い反動の時代に入ってしまいました。90年代の半ばに国家主義的な政治家団体の中枢に登場した少壮政治家安倍晋三が、いまでは総理大臣です。彼の内閣には、同じく90年代の半ばに「慰安婦」問題に対する対抗意識から発足した「日本会議」という国粋主義組織のメンバーが多数参加しています。振り返ってみれば、実に惨憺たる歳月というほかありません。

 ただ、私はこの事態を前に、和田先生をはじめ日本の進歩的な人々にも、はたして自分たちの側に問題はなかったか深刻に振り返っていただきたいと思っております。

「第四の好機」 

 1989年1月7日、昭和天皇(裕仁)の死去した時、私は「第四の好機―「昭和」の終わりと朝鮮」と題する小文を草しました(『世界』1989年4月号、のちに拙著『分断を生きる』影書房所収)。タイトルからも明らかなとおり、和田先生から受けた影響の延長線上にある論考です。

 「日本の朝鮮植民地化の過程は、すべて統治権の総攬者たる天皇の『裁可』を得て進められた。朝鮮総督は、法的にも天皇に『直隷』する、天皇の代理人であった。」「(朝鮮植民地支配とそれにともなう投獄、拷問、殺害などの行為は)先日死去したその人の名において行われたのである。(中略)『昭和』の終わりにあたって、この否定しようもない事実を想起する日本人は、まことにわずかでしかない。(中略)彼らは知らないのではなく、黙殺しているのである。なぜなら、『朝鮮』を直視することは、彼らの自己肯定、自己賛美の欲求と相いれないから。しかし、考えてみるまでもなく、侵略と収奪の歴史を自己否定することは、日本人自身の道徳的更生と永続的な平和の確保のためにこそ必要なのである。そうでなければ、日本人は将来にわたって「抗日闘争」に直面し続けるほかない。」

 天皇昭和の死去を、日本のマスメディアは一斉に「崩御」という用語を用いて伝えました。これはもちろん、日本国憲法の精神にも反する、封建的身分制の用語です。日本のメディアは進んで「臣下」の地位を選んだことになります。

 朝日新聞(1月7日夕刊)「『昭和』を送る」と題する社説は、私をさらに驚かせました。進歩的リベラル派を代表するとされる朝日新聞の社説が、天皇の戦争責任からから目を背け、彼を一個の平和愛好的人物として描こうとしただけではなく、日本敗戦後、米国が「日本再建に役立たせよう」として天皇制を擁護したが、「この考え方はよい結果を生んだ。もしも天皇制廃止ということになっていたら、敗戦の混乱は加速され、復興は遅れていたに違いない」と断言しました。

 天皇制肯定の論拠が「復興」とは、なんと虚無的なまでの自己中心主義でしょうか。みずからが加害した相手への想像力が全く欠如しています。日本敗戦後の時点で朝鮮をはじめ被害諸民族は混乱と貧窮に喘いでいましたが、加害国である日本は賠償に着手すらしていませんでした。それどころか、日本経済は朝鮮戦争とベトナム戦争の特需によって大きな利潤を得ました。米国が天皇の戦犯訴追を避けて戦後天皇制を温存したのは、間接支配によって日本統治を円滑に進めようとする意図によってでしたが、それを「よかった」と評する精神には「奴隷根性」という以外の形容が思いあたりません。

 この小文を、私は次のように結びました。「いまや天皇死去を『好機』として、天皇の戦争責任を免責することによる日本人全体の『一億総免責』が行われようとし、戦後の『復興』や『繁栄』の手ばなしの自己肯定が巨大な力で進められている。(中略)『昭和』天皇の死去が、日本人にとって自己の歴史を批判的に再検証する好機を提供し、日本人が朝鮮をはじめアジア諸民族との真の友情をつくり出す好機を提供するかもしれない、という私の考えは、おそらくナイーヴすぎるのだろう。日本人はこの『第四の好機』をみすみす逸し去ろうとするのだろうか。」

 現時点から振り返ると、やはり私はナイーヴすぎたようです。予測どおり、日本人はその後現在まで「抗日闘争」に直面し続けており、「慰安婦問題」をめぐる対立と葛藤も、大きく見ればこの文脈の上にあるといえます。

 このように第三、第四のチャンスも逃されましたが、それでも、私の中には「日本人と朝鮮半島の人々との間の歴史をすべての面で問い直し、根底からつくり直すための連帯」を目指すという和田先生の初心は揺るがないはずだという思いがありました。「連帯」はそれくらい困難なものであるはずであり、たとえどんなに困難でも放棄することの許されないものであるからです。

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-09-10 18:58

https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/734569.html

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