登録 : 2016.03.26 22:08 修正 : 2016.03.27 07:46

安倍首相の謝罪表明が「12·28合意」の白紙化より重要

昨年12月29日、チョ・テヨル外交部2次官が京畿道広州市の「ナヌムの家」を訪ね、協議の結果を説明する様子。和田春樹教授は、韓日会談の合意を実現するためには安倍首相が謝罪表明する書簡を駐韓日本大使が慰安婦被害女性に伝えるべきとする=共同取材団//ハンギョレ新聞社

駐韓日本大使が「安倍書簡」を被害者に伝えねば

 いま必要なのは、外相会談合意を実現するつもりなら、安倍首相の謝罪表明を実行せよと主張することである。何よりもまず安倍総理の謝罪が文書化されなければならない。岸田外相の発表の裏けには、次のような安倍総理の謝罪文があるはずなのである。

 慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している。

 私は、日本国の内閣総理大臣として、改めて慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われた全ての方々に対し、心からのおわびと反省の気持ちを表明する。

 2015年12月28日     日本国内閣総理大臣  安倍 晋三

 この謝罪の言葉を手紙にして、韓国の被害者に伝えることが急務である。駐韓大使が生き残っている韓国人被害者全員のもとを訪問して、手紙をお渡しするのである。そのさいには、日本政府が韓国政府に一〇億円を寄託した趣旨がこの首相の謝罪文にあきらかであることを丁寧に説明しなければならない。

 一〇億円は被害者に日本政府の謝罪のこころを伝えるために、一定の金額を送ることに使われるととともに、正しい慰安婦問題の認識を明らかにするための事業にも使われることが望ましい。

 徐京植氏はこの論文でアジア女性基金について長く論じている。それは、現在の日韓合意に対する私の姿勢がアジア女性基金に対する私の態度をくりかえすもの、同じ過ちをくりかえすものと見ているためである。そうならば、アジア女性基金について私も論じよう。

 徐京植氏はアジア女性基金発足時の状況から論じ始めている。河野談話から細川首相会見まで、日本政府の動きが肯定的に評価され、国際的には、95年9月の北京世界女性会議で行動綱領(真相究明、加害者処罰、十全な補償)が打ち出された、このまま順調に行けば、局面は違ったであろう、そのためには、日本の進歩的市民と韓国の反植民地主義勢力が連帯して、日本政府に対峙することが必要だったというのだ。

 このような認識は現実とひどくずれている。日本政府は、宮沢政権も、細川政権も、日韓条約のさいの請求権協定で請求権に基づく支払いは解決ずみであり、被害者への国家補償はなしえないという原則に従い続けていた。1994年6月に村山自社さきがけ連立政権が生まれると、先の大戦は自存自衛、アジア解放の戦争だった、あの戦争について謝罪も反省もしてはならないという「終戦50周年議員連盟」が組織され、最終的には自民党議員の三分の二が加わるまでになった。外務省は戦後五〇年記念事業として平和交流事業計画を立案し、これによって慰安婦問題への対処としようとしていた。日韓の運動勢力の連帯は存在したが、この事態を打破する力はなかった。

 村山内閣の官房長官五十嵐広三氏は国家補償を主張してきた人であったが、慰安婦問題での立法を断念し、政府資金でうごく財団法人をつくり、政府のカネと国民からの募金を合わせて、被害者に一時金を支払う仕組みをつくることを提案し、河野洋平外務大臣、武村正義大蔵大臣との折衝をつづけていた。この段階で、1994年8月19日に朝日新聞に「元慰安婦に<見舞い金>、民間募金で基金構想、政府は事務費のみ」という大見出しの記事が出た。このことが被害者ハルモニの強い反発をよび、運動団体は基金構想絶対反対となったのである。五十嵐官房長官は記者会見を開いて、この記事に反論すべきだった。

「ポンプのよび水」論の次に
政府のカネを受け取ろうとしたアジア女性基金
誤りと欠陥で結局拒否されたが
日本政府の公式謝罪と法的補償
回避手段と見ることには同意できない

韓日の知識人が昨年7月29日、ソウルのプレスセンター外信記者クラブで「2015韓日そして世界の知識人共同声明」の発表を通じ日本政府の歴史認識問題の転換を求めた。左から4人目が和田春樹東京大学名誉教授=キム・ソングヮン記者//ハンギョレ新聞社

ジャン・ラフ=オハーン氏とマリア・ヘンソン氏の場合

 私がそう述べていることをとらえて、徐京植氏は、この記事は、「当時の(社会党を含む)政権の意図を正直に伝えている」とみるべきだと主張している。これは村山内閣に反感を持つ人の根拠がないきめつけである。五十嵐官房長官も、戦後50年問題プロジェクト・チームの社会党委員も、必死で主張したが、被害者への支払いに政府資金をあてることはついに官僚と自民党委員から賛成がえられず、断念されることになったのだ。そこで、被害者への「償い(atonement, 贖罪sokje)金」の支払いを国民からの募金でのみ行うという基本コンセプトに立つアジア女性基金の設立に進むことになったのである。

 国民からの募金のみによって償い金を払うという基金の基本コンセプトは、韓国では<民間募金で見舞金(慰労金)>というイメージをさらに固定させて、政府が責任をとろうとしないという当然の反応をよびおこした。アジア女性基金は拒否されるのである。

 私は、そのアジア女性基金の呼びかけ人になるように政府からもとめられて、承諾した。徐京植氏は、私が当時書いた文章をいくつか引用して、私の基金参加の理由説明が筋の通らないものであると批判している。たしかに私は、日本では戦争犯罪に対してドイツのような筋の通った措置がとれない理由をのべて、現状で慰安婦被害者に対する国家補償を行うことができないのだと弁明している。だが、他方で私は、壁が厚いので、「わずかにあいた裂け目にみなが身体を入れ、さらに押し広げて行くべきだ」とか、「厳しい日本の現実の中では、これ以上は遅らせられない、今状況をよい方向に変えることに着手し、{活動を}はじめながら、その先の変化をさらに求めるというふうにしたい」とか述べている。国民からの拠金も、国家予算から出る資金も、変わりがないという基金弁護論に流れた説明もたしかにしているが、私の気持ちは、「ポンプのよび水」論で、国民がまず償いのカネを出すので、つぎには政府がもっと多くのカネをだしてほしいと願うものだった。1995年11月6日の基金批判派との公開討論会で、私は、「償い金」を韓国、フィリピンの被害者に渡していけば、この事業はかならず他の国の被害者にも拡大する、「拡大した場合は、国民から集めたお金では不可能だと思います。・・・だから日本政府も国民も立ち止まることはできない道に入ってきているのです」と訴えている。私は、アジア女性基金の改良、改善、修正という道をとるほかないと考えていたのだった。

 いまになって、調べてみて、私はそのチャンスが基金発足一年後に現れたことを知るにいたった。1996年春、償い金の額を決定するための議論が基金内部でおこなわれたとき、集まった募金額では提案された償い金額(300万円案と200万円案)が保障されないことが明らかになった。対象被害者はまず韓国台湾フィリピンで330人程度とされていた。とすると、償い金300万円なら10億円、200万円なら6億6000万円が必要になる。募金額は1996年4月には3億3000万円程度であったので、明らかに不足であった。このとき、基金の運営審議会では、不足分は政府に出してもらおうという意見が圧倒的多数であった。そこで原理事長は200万円案を採用し、橋本総理とかけあい、不足分は政府が責任をもつという確約をえた。このことが基金に報告され、みなが了解したが、理事会議事録には記載されず、秘密にされたのである。

 いまから考えれば、このとき、基金の基本コンセプトは破産することが明らかになっていたのであり、基本コンセプトの修正を正式に議論し、決定すべきであったのである。そうすれば、韓国の慰安婦被害者の批判に応えて、首相が謝罪し、政府と国民が共同で償い金を出すというふうに基金の性格を変えることができたかもしれない。しかし、このチャンスを基金の内部の人間は生かせなかった。私はいまこのことに大きな責任を感じている。

 にもかかわらず、基本的な欠陥をもっていたにせよ、アジア女性基金は、日本政府がすすめた謝罪と償い(贖罪)の事業であったことは否定できない。これを「日本政府が公式謝罪と法的賠償を回避する手段」であったとみるのは正しくない。すくなくとも村山政権の中枢部の閣僚たちはそのような考えをもっていなかった。基金に関わった者たちもそのような考えをもっていなかった。募金に応じた多くの市民がいた。最初の四ヶ月で自発的な個人からの拠金は六七〇〇万円(一億三〇〇〇万円中の半分)に達した。市民の拠金には日本のもたらした苦痛と損害に対する謝罪の気持ちをのべた言葉が添えられていた。

 私は自分の本の中で、次のように書いている。「アジア女性基金は、このような誤りと事業の欠陥の故に、韓国と台湾では、目的を達することができず、国民的和解に貢献できませんでした。しかし、アジア女性基金は、フィリピンとオランダでは、明らかに意味ある事業を実施することができ、成功を収めたと評価できます。アジア女性基金に対する批判は理解できますが、アジア女性基金の事業を受け止めて、心の安らぎをえた被害者がいることを無視して、アジア女性基金を全否定することは正しいことではありません。」

 この主張を徐京植氏は批判する。オランダでは、被害者として名乗り出て、日本国家を批判しつづけたジャン・ラフ=オハーン氏が基金を拒絶した。徐氏は、「この一人の女性が存在するという事実だけでも、基金が『成功』したとは言えない」と言う。しかし、本の中で、「沈黙しているオランダ人被害者に代わって、日本国家の罪を告発した」オハーン氏は「日本人が忘れることのできないオランダ人女性です」と強調したのは。私である。

日本人と朝鮮民族はまだ
敵対関係にとどまるのか
韓国人の協力を信頼し
日本人を変えようと努力する
これが私たちが向かわねばならない道

「第三のチャンス」を生かし変わることができた

 フィリピンについては、ヘンソンさんのことを取り上げ、「徹頭徹尾日本国家に蹂躙された」彼女が「亡くなる一年前に『償い金』を受け取ったことをもって、『心の安らぎ』を与えることができたというのでしょうか」と批判する。だが、ヘンソンさんは基金をうけとったとき、「いままで不可能と思っていた夢が実現されました。大変しあわせです」と語ったのだ。徐氏の考え方の問題性は、つづく言葉に現れている。「たとえ貧しさや高齢の故に『償い金』を受け取る人が続出するとしても、かりに韓国を含むすべての地域の被害者が『償い金』を受け取ったとしても、国家が明確で誤解の余地のない謝罪と補償を行わない限り、日本人たちは自らを慰めてはならない」

 フィリピンでは、貧しいから、高齢だから、「償い金」を受け取ったとみるのは、フィリピンの被害者たちに対する偏見ではないか。そして、すべての地域の被害者が「償い金」を受け取っても、日本人は自らを慰めてはならないとは、いかなる意味なのか。徐京植氏は、さらにアジア女性基金は「被害者救済」のためでもなく、「日本国家の責任を明らかにして」「連帯の地平を切り開く」ためでもなく、日本人の「良心」を「慰めるためのもの」だったのではないかと、述べているが、これも理解に苦しむ主張である。

 アジア女性基金に関わった者の気持ちからすれば、被害者のために何事かをしたい、不十分であれ、日本国家国民の責任を果たしたいと思ったのであって、自分の良心を満足させることだけを考えていたということはありえない。人間の小さな努力に対して超越的な高みから判定を下すようなことはやめてもらいたい。

 このたびの論文を読んで、私は徐京植氏の世界と私の世界があまりに遠いことを痛感して、嘆息せざるをえなかった。氏は、この論文の中で、1989年の氏の論文「第四の好機―ー『昭和』の終わりと朝鮮」を取り出して、私につきつけている。この論文は、私が1974年に発表した「韓国民衆をみつめることーー歴史の中からの反省」(『展望』12月号)の中で展開した「第三のチャンス」論をふまえて提起されたと説明されている。

 私の主張は、日本国民は植民地支配の歴史を否定して、新しい関係を朝鮮半島の人々との間に創造していくチャンスを1945年と1965年に迎えたのに、それを生かすことができなかった、だが、1973年、金大中氏の拉致事件が起こって以来、日韓条約8年目の現実と韓国民衆の闘いに触れて、第三のチャンスが到来したというものであった。日本の市民の日韓連帯運動が国民的に拡大したのは、1980年の全斗煥クーデターによって金大中氏を死刑にする陰謀が進められたときであった。そのときは日本では、国民もメディアも金大中氏への敬意と共感からこの人を殺させてはならないという気持ちになった。政府さえ、同じ気持ちであったと考える。私は第三のチャンスをまさにつかんだ気がした。

 80年代には、全斗煥大統領の訪日を契機として、私たちは、朝鮮植民地支配反省謝罪の国会決議が必要だという考えをもち、1984年から宣伝を開始した。1987年韓国民主革命がついに勝利の時を迎えると、88年には、私は、安江良介氏と組んで、北朝鮮と政府間交渉をもち、「植民地支配の清算」を行うことを求める活動をおこなった。

 1989年1月、昭和天皇が亡くなった。1月31日、私は、鶴見俊輔、旗田巍、日高六郎氏らとともに、声明を発表した。「歴史の清算がなされないまま、昭和という時代の幕は下りたのだ」、朝鮮民族に対して、「私たちの国家は植民地支配の清算を果たしていない」と指摘し、植民地支配が軍事力によって強制されたものであると認め、それが朝鮮民族に「計り知れない苦痛」をあたえたことを謝罪するという国会決議を採択するように求めたのである。ハンギョレ新聞は、2月8日の社説「日本国会は植民罪科を謝罪せよーー知識人たちの『謝罪決議』要求は正当だ」で、私たちの呼びかけを支持してくれた。3月1日には、私たちは、「朝鮮植民地支配の謝罪、清算とあたらしい日朝関係を求める三・一宣言集会」を開き、国会決議をもとめる国民署名運動のスタートを宣言するのである。

 徐京植氏が「第四の好機」という論文をもって登場してきたのは、まさにこの瞬間であった。その論文は3月8日に店頭で売り出された『世界』4月号に掲載されたのである。「第四の好機」を言い出すということは、「第三の好機」は生かされずに終わったという認識を前提とする。このたびの論文でも、徐氏は、「日本国民はこの『第三のチャンス』をつかんだでしょうか?」と問うて、「韓国民主化闘争の前進に励まされて、韓日民衆間の連帯が急速に進むように見えた瞬間」もあったが、90年代から、日本は「長い反動の時代」に入ってしまった、「実に惨憺たる歳月」であったと述べている。

 これが現実無視の暴論であることは、先の私の説明から明らかであろう。89年の氏は2年前の韓国民主革命の勝利も無視している。それが日本に影響して、翌90年には、金丸田辺代表団が訪朝し、日朝交渉の開始にいたるのである。慰安婦問題が提起されて、93年には河野談話が出る。ついには1995年の村山談話となるのである。徐京植氏はこの前進を前進とみとめず、90年代に入れば、反動一色となるとみてしまうのである。

 そういう悲観的な姿勢が生まれた理由が問題の論文「第四の好機」の中に見出される。氏が、「第四の好機」とするのは、天皇の死である。植民地支配は天皇の名によっておこなわれたのに、天皇が死去した日本は「天皇の戦争責任を免責することによる日本人全体の『一億総免責』が行われようとし」ていると述べている。朝日新聞の社説が天皇の責任を免罪し、米国による天皇制温存に感謝していることを怒りをもって論難する。徐氏はこれで日本に絶望したようだ。「第四の好機」もおそらく生かされないだろうとみる。韓国では「民主化と民族統一のための闘い」は確実に前進しつつあるが、それに合わせて、日本人も前進するとみるのは、「おそらくナイーヴにすぎるのだろう」。そこで、徐京植氏は警告する。「侵略と収奪の歴史を自己否定すること」がなければ、「日本人は将来にわたって『抗日闘争』に直面し続けるほかない」と。その言葉がこのたびの論文にも繰り返されている。

 日本人と朝鮮民族はなお敵同士の関係にとどまるであろう。これが1989年の徐京植氏の予言であった。だが、2016年の日本にいて、私は少なくとも日韓両国民の関係は第三のチャンスを生かして変わったと考えている。韓国の国民からの協力を信じて、日本国民の意識を変えるために努力を続けることーーそれが私たちの進むべき道なのである。朝鮮民族の残る半分との危機を回避する必要性を痛感するにつけ、そう強く思っている。

和田春樹・東京大学名誉教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-03-25 20:04

http://www.hani.co.kr/arti/international/japan/736924.html

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