アジア女性基金
アジア女性基金発足時の状況を思い出してみましょう。90年代に入って、金学順さんをはじめ、続々と証人たちが現れ始め、それまで隠蔽されていた証拠資料も発掘され始めました。加藤官房長官談話(1992年1月)、宮沢首相の謝罪表明(同前)、河野官房長官談話(1993年8月)、細川首相記者会見(同前)と、被害者から見てまだまだ不十分とはいえ、日本政府から従来の立場を改める姿勢が連続して表明されました。国際的な関心も盛り上がり、それは北京世界女性会議(1995年9月)の行動綱領(性奴隷制被害に関し、真相究明、加害者処罰、十全な補償を求める)につながりました。このような流れが順調に発展させられていたなら、局面は現在とは違ったものになっていたでしょう。そのために必要だったことは、日本の進歩的市民と韓国の(韓国のみならず全世界の)反植民地主義勢力が連帯を維持しつつ、日本政府に対峙していくことだったでしょう。もちろん保守派からの頑強な抵抗はあったでしょうし、たやすく勝利が得られたとは思いませんが、このような闘いの過程で連帯が強化されたことでしょう。しかし、現実はそのようには展開しませんでした。
私が驚愕したことは、あろうことか、和田先生がアジア女性基金を中心的に推進する位置につかれたことでした。私の知る先生の「初心」にも、あの70年代、80年代の連帯運動の経験にも合致しない、理解しがたい選択でありました。
雑誌「世界」(1995年11月号)に日韓知識人間の往復書簡が掲載されました。往信「なぜ<国民基金>を呼びかけるか」は大鷹淑子、下村満子、野中邦子、和田春樹の4氏連名。返信「やはり基金の提案は受け入れられない」は李効再(イヒョジェ)、尹貞玉(ユンジョンオク)、池銀姫(チウニ)、朴元淳(パクウォンスン)の4氏連名になっています。
この往復書簡で日本側(実質的な執筆者は和田先生でしょう)は、「慰安婦制度は日本軍の判断にもとづいて、日本軍の要請と管理のもとに組織的につくられた」「女性の名誉、尊厳、人権を踏みにじったこの罪は重大」と前置きした後、「問題は、日本政府にとって「従軍慰安婦」問題は国家が犯した戦争犯罪であると法的に認めることは難しいということです」と続けています。その理由として最初に挙げられているのは、「残念ながら日本とドイツは違います」というものです。ドイツはナチ国家と断絶した国家だが、日本は戦前と連続した国家である、過去の戦争犯罪をただの一度も自分では裁けなかった。このような日本国家にいま戦争犯罪を認め、法的責任をとるように求めても難しい、というのです。
当時このくだりを、信じられない思いで何度も読み返したことをいまも記憶しています。
日本とドイツが違うことは周知の事実です。韓国の被害者や知識人が、そのことを知らないとでもいうのでしょうか。ここに述べられている和田先生たちの日本批判は事実としてはそのとおりです。しかし、それは日本政府や日本国民に向けられるべき言葉でしょう。それを日本政府の施策である基金構想を受け入れるよう、韓国側を説得する論法に使用するのは根本的な錯誤ではないでしょうか。卑近なたとえですが、たとえばDVを繰り返して反省することのできない人物がいて、その人物の身内が被害者に向かって「彼に根本的な反省を迫っても無理ですよ」と説得しているようなものです。なんという錯誤でしょうか。
かつて「われわれが生まれかわるため連帯」を主張しつつ孤独な連帯運動の先頭に立ったあの和田先生が、もっとも「連帯」が求められるこの局面で、こんなことを言おうとは想像もできませんでした。韓国側4氏の返信には、「韓日間に横たわる深淵の深さをみつつ」という副題がついていますが、私もまさしく「深淵」を覗き見る思いがしたものです。
韓国側4氏の返信は委曲を尽くしたもので、ここにそのすべてを紹介することができないことが残念です。「先生方がおっしゃるように、日本の現実が基金案以外は望みがたいというのは、正直なところでしょう。しかし、私たちはむしろ、日本の政治、社会的現実がそうした雰囲気であるからこそ、ますます基金事業をためらうのも事実なのです。日本がこれほど過去の非人道的犯罪を隠蔽し糊塗し擁護しようとするので、いくばくかのお金や物質的利益ですべての懸案に決着をつけようとすることは私たちの良心が許さないのです。」日本とヨーロッパ社会が違っている、という論点について、「こうしたちがいがあるからといって、日本の戦後処理における微温的なところまで認めなければならないという法はありません。むしろ、日本社会がヨーロッパとちがって、しっかりとファシズムを清算できていないとすれば、しっかりと清算すべく圧力を加えなければならないと思うのです。」
韓国側4氏の返信は次のような「連帯」の呼びかけで結ばれています。「日本政府の戦後処理政策が時代錯誤だとしても、それを批判し牽制する日本の健全な市民グループが存在する限り、私たちはその人たちと連帯しともに歴史の進展をはからねばならないのです。私たちは、日本の中にそうした良心的な知識人と市民グループが存在することを確認し、安堵し、また希望を持ちます。(中略)先生方と私たちがこの困難な問題をめぐって行なった議論がささやかな芽となって、次の世代に花開くことを望むばかりです。」
亀裂
和田先生の「<従軍慰安婦>基金のよびかけ人になった理由」(1995年7月5日)という文書は、次のような挿話から書き起こされています。1953年、日韓会談が「久保田発言」で中断されたとき、当時17歳の高校生であった先生は異口同音に韓国側を非難する日本政府、野党、大新聞の論調に納得できず、「昔のことはすまなかったという気持ちを日本側がもつか持たぬかは会談の基礎、この点について歩み寄りの余地はない」という韓国側の主張は「朝鮮民衆の声」であり傾聴されるべきだと思った、そのとき以来、自分は日本国民の考えが改められるように願ってきた、と述べておられます。――ここには前記した竹内好『現代中国論』の思想が反映していることが読み取れます。
しかし、その思いがなぜアジア女性基金推進へと繋がっていくのか、論理がうまくつながりません。アジア女性基金構想には「不十分な点はあるが、前進と見たい」「壁が厚いと感じていたので、わずかにあいた裂け目にみなが身体を入れ、押し広げていくべき…」と考えたと述べておられますが、何度読んでも釈然としません。当時、日本でも韓国でも、この基金構想に対する批判は強く、尹貞玉先生らが来日して「原則的な立場を貫くように」と促したが、先生は考えを変えなかったということです。
基金構想をめぐって露呈した韓日間の亀裂は、「償い金」支給によって決定的な危機に陥りました。韓国側の反対にもかかわらず、基金側が1996年8月から「償い金」支給実施にとりかかり、97年1月に7人の被害者に対して支給を強行したためです。「償い金」伝達式はソウル市内のホテルで非公開のうちに行われました。これに対して、韓国外務省は「日本の基金側が問題の深刻さを認識せず、韓国政府および大多数の被害者の要求に背を向け、一時金支給などを強行したことはまことに遺憾」とコメントしています。韓国の挺対協と市民連帯は「日本政府は基金を通じての買収工作を白紙化して公式に謝罪せよ」「7人のハルモニたちの行動は正しくない」との声明を発表し、のちに7人は「市民連帯」の国民誠金支給から除外、残る151人に支給すると決定しました。基金側は「償い金」を受け取りたいという「ハルモニの主体性を尊重せよ」と主張し、「7人を差別するな」と要求しました。
和田春樹・高崎宗司連名の「韓国の友人への手紙」(1997年5月30日「創作と批評」1997夏号)は、尹貞玉先生の「罪を認めない同情金を受け取ったら。被害者は志願して出て行った公娼になる」という発言をとらえて、「決めつけられたハルモニたちのことを思って涙が流れました」と述べ、市民連帯宣言文の「謝罪のない、賠償金ではない慰労金を受け取ることにより日本政府に免罪符を与え、われわれ自ら二度も金で売られた奴隷になる」ことは許されないというくだりをみて、「驚きを通り越した悲しみを覚え」たと述べています。
私はこれを読んで、尹貞玉先生の「公娼」云々という発言には問題があると思うものの、全体としてみると、ここには奇怪な倒錯があると感じました。償い金を受け取った7人の被害者が批判される立場に立たされたことは悲劇です。しかし、その原因をつくったのは誰でしょうか?韓国側の了解を得ないまま、事業を強行した基金側に責任はないでしょうか?それなのに、日本側が韓国側に道徳的非難を向け、自らを道徳的高みに置くというのは、倒錯ではありませんか。
この和田・高崎書簡に対して、韓国神学研究所のキム・ソンジェ先生が返信しています(1997年6月25日)。「(和田)先生は道徳的次元から「国民基金」支給の正統性を強弁しているが、「国民基金」は日本政府が公式謝過と法的賠償を回避するための手段として設立したものなので、「国民基金」自体に道徳性がないのです。もしも「国民基金」が良心的な日本人の純粋の市民団体であるならわれわれも喜んで連帯し、また、純粋に募金した基金であるなら、あえてこれに反対する理由はありません。…先生が個人的な次元で道徳性を強調するのは矛盾です。(中略)「国民基金」がハルモニに葛藤を呼び起こし、ハルモニを差別されるようにし、苦しめているのです。」
和田先生は近著『慰安婦問題解決のために』(2015年5月刊、以下「解決」)で、韓国の被害者、運動団体、世論がアジア女性基金に拒否の態度をとったことについて「今では理解しています」と述べています。また、「予想を超えた強い反発」があったため韓国での事業を中止せざるを得なかった、とも書かれています。ということは当時、多少無理があっても「償い金」支給を実施してしまえば何とかなるだろうと考えていた、ということでしょうか?それを強行すれば取り返しのつかない対立に陥る、むしろ原則的立場を貫いてほしい、それが連帯の基礎であるというのが、尹貞玉先生をはじめ、和田先生を尊敬していた韓国側の人々の真意だっただろうと推察します。この時の和田先生はなぜ、「朝鮮民衆の声」を傾聴しなかったのでしょうか?
初期設定の誤り
和田先生は、アジア女性基金は韓国と台湾では目的を達することができなかったが、フィリピンとオランダでは「成功を収めた」と総括し、基金に対する批判は理解できるが、その事業によって「心の安らぎをえた被害者がいることを無視して、アジア女性基金を全否定することは正しいことではありません」と述べておられます(「解決」)。
私がここで改めて問いたいことは、韓国と台湾で理解が得られなかったことが不成功の原因というとき、その理解が得られなかった理由をどうお考えかということです。先生の著書には、「見舞金」報道に即座に反論しなかったために真意が誤解された、「償い」という言葉の説明が不十分で韓国語と中国語に翻訳するにあたって「決定的な誤り」を犯した、などが理由として挙げられています。しかし、私の考えではこれらの理由は「決定的」なものではありません。
決定的な理由は、「初期設定の誤り」にある、と私は考えます。
和田先生は、「朝日新聞」(1994年8月19日)に「元慰安婦に<見舞金>、民間募金で基金構想、政府は事務費のみ」という記事が出たことについて、「この記事がつくりだした印象は致命的でした」と述懐しています(「解決」)。「つくりだした印象」という表現は事実が歪曲されて伝えられたことを示唆していますが、ほうとうにそうでしょうか?むしろ、これは当時の(社会党を含む)政権の意図を正直に伝えている、その意図は現在まで一貫している、とみるべきではないでしょうか。
和田先生は「五十嵐官房長官は、このとき、ただちに記者会見をして、<見舞金>など考えていないと、きっぱり否定すべきでした。しかし、それはおこなわれなかった」、「<見舞金>だというレッテルが早々に貼られてしまい、それがはがせなくなった」と述べておられます(「解決」)。しかし、実際には、官房長官が「きっぱり否定しなかった」のは、<見舞金>と呼ぶにせよ何と呼ぶにせよ、正式な賠償金は絶対に支出しないという点が政権の譲れない意図だったからではありませんか。和田先生は薮中元外務次官が近著(『日本の針路』2015年)で、日本が慰安婦に「見舞金」を出したと書いているのは不見識であると批判していますが、これこそが日本政府中枢部の一貫して変わらない立場なのであり、それを和田先生のように「事実上の補償金」であると便宜的に読みかえて受け入れるよう被害者に向かって主張することのほうに無理があります。これに反発した被害者側や運動団体こそ、事実を正確に見ていたということになるでしょう。
90年代に入って次々に証人が現れ、訴訟が提起され、国連の舞台でも問題提起されるなど、日本政府は対応に迫られていました。自民党長期政権体制が動揺し政党間の集合離散が繰り返されていた1993年から95年にいたるあの時期、日本政府としての慰安婦被害者に対する措置は(細川政権の連立与党であった社会党も含めて)体系的に検討されることはなく、官僚に委ねられたことがわかります。
1994年6月に自民・さきがけ・社会党による3党連立政権が誕生し、社会党出身の五十嵐官房長官が中心となって「基金方式」が協議され始めました。アジア女性基金は寄り合い所帯の政権から、十分な準備もないまま、なにより相手方(被害者と支援団体)との慎重な事前協議もないままに、即興的に提案された対応策であったといえます。一国の戦争犯罪に決着をつけるには、あまりにもお粗末であったというほかありません。今回の「合意」はその再演となりました。
政権与党入りした社会党勢力が保守派や官僚の抵抗を崩すことができないと判断し、国家補償や立法解決の道を放棄する中で、玉虫色の対応策として基金案を出してきたことがなによりも大きな問題でした。そのため、政府が一貫して国家補償を否定しているにもかかわらず、和田先生のような存在が、これは「事実上の補償である」と被害者を説得しなければならないという「板挟み」状態に陥りました。先生が「事実上の補償である」という解釈を強調するたびに、その言葉は政府によって覆されてきたのです。今回の「合意」に関する10億円の資金についても同様のことが言えます。別の言い方をすれば、和田先生たちは、政府の立場からみれば被害者に向けた防御壁だったということになります。そのうちに村山内閣は退陣し、保守派が強烈な巻き返しを始めました。
逆方向のベクトル
もう少し大きな歴史の中でみると、慰安婦問題というのはそもそも世界的な東西対立構造の終焉とともに浮上してきた出来事でした。韓国を含むアジア諸国の権威主義体制が動揺し、民主化が進んだ結果、それまで封印されていた日本の戦争犯罪問題が浮上したわけです。被害者が名乗り出ることが可能となり、支援運動も活発になりました。
しかし、当の日本では、このベクトルは逆方向を向いていました。日本では東西対立時代の終焉は「脱イデオロギー時代」という浅薄な決まり文句とともに、進歩的リベラル勢力の自己解体という方向で進行しました。社会党・総評ブロックそのものが「55年体制」と称する旧体制に依存してきたことは事実ですが、そのような社会変動の中で新しく進歩的勢力を結集する代案を提示することができないまま、すすんで自壊の道を選んだことが致命的でした。社会党は小選挙区制を受け入れ、自民党との連立も喜々として受け入れました。一貫して国家主義に抵抗してきた日本教職員組合(日教組)は方針を転換し、学校行事での国旗掲揚、国歌斉唱を容認しました。その際につねに言い交された決まり文句は「時代は変わった。もうイデオロギーの時代ではない」というものでした。進歩勢力がみずから「脱イデオロギー」と称して理念や理想を捨てていたとき、右派勢力はむしろ国家主義イデオロギーの砦を固めて反攻の機会をうかがっていたということになります。
社会党の村山委員長を首班とする3党連立政権が誕生すると、村山首相は、就任直後の国会演説で、安保条約肯定、原発肯定、自衛隊合憲など、旧来の党路線を全面的に変更することを宣言しました。村山談話を発表した際の記者会見で、記者から天皇の戦争責任について質問されると、「それは、ない」と即答しました。すべて、呆れるほどの軽さだったと言うほかありません。
この結果、社会党の求心力は大きく低下し、1996年1月の村山内閣総辞職後、社会党は党名を社会民主党に改称して解体しました。それ以来、日本の進歩的リベラル勢力は政治的受け皿を失って現在に至っています。現在、安保法制についても、原発再稼働問題についても、世論調査では国民の半数内外が反対の意思をもっているにもかかわらず、その意思を代表する政治勢力が不在のままなのです。
慰安婦問題は東西対立終焉後の韓国と日本で、このように社会変動のベクトルが逆方向に交差する中で浮上したものといえるでしょう。いうならば、「原則」を守り抜いて民主化を勝ち取った韓国側と、生き残りのために次々と「原則」を放棄しつつあった日本側進歩勢力とが、慰安婦問題を間に置いて向かい合うことになったわけです。アジア女性基金構想は一瞬といえるほど短期間、政権与党の一角を占めた社会党勢力が、生き残りのために保守派や官僚との妥協を図りながらみずからの存在理由を辛うじて示そうとしたプロジェクトと見ることができます。それだけに、出発の時点から自己矛盾をはらんだものでありました。
現実主義
このようなアジア女性基金構想に反対する人は、日本でももちろん少なくありませんでした。その一人として、和田先生は、私にとっても思い出深い「世界」元編集長の安江良介氏の名を挙げておられます。(参照:拙稿「鮮やかな日本人」「世界」1998年3月号、のちに拙著『半難民の位置から』影書房所収)
和田先生は、韓国で開かれたシンポジウムで以下のように発言されました(「アジア女性基金問題と知識人の責任」(『東アジア歴史認識論争のメタヒストリー』青弓社、2008年)。「安江良介ら日本の革新系人士たちは国家補償を求め、アジア女性基金を否定的に見た。しかし、運動しても、政府はもはや新しい措置はとらないだろうというのが、この人々も内心考えていたことであった。日本にいればわかることであった。」「意味ある絶対野党主義は、すでに意味を失っていた」
しかし、私は疑問に思います。「この人々も内心考えていたこと」「日本にいればわかること」と、後日になって、韓国で韓国人に向かって語ることはフェアといえるでしょうか。すでに亡くなった人は反論することができません。私の知る安江良介氏は、そういう考え方をする人ではありませんでした。ぎりぎりまで知恵と努力を惜しまない人でした。
野党的な立場から国家や政府を批判することは「絶対野党主義」であり無意味である、というのでしょうか? 社会党解体の過程でしきりに唱えられた言葉が「現実主義」であり、「万年野党からの脱却」でした。その勢力が政権内に入り、極右派や保守派と妥協することは不可避であり正当であるとお考えですか。その結果が、前に述べた、原則の放棄と自己崩壊です。和田先生も、この発想を共有されているのでしょうか?
先生はさらに、「アジア女性基金に否定的な人々に政府が国家補償をしないときはどうするのかと問うと『そうなれば被害者に謝罪して、募金をして、なにがしかのお金を差し出すほかない』と答えた。となると、アジア女性基金とどのような違いがあるのだろうか」そう述べておられます。
もちろん、「違い」ははっきりとあります。国家に抗して民間人の自発的支援金を差し出すのか、それとも国家とともに、国家責任回避の手段としてそれをするのかは根本的な違いです。そして稀代のロマンチストであると同時に冷徹な現実主義者でもあった安江氏は、この「原則」を指摘していたのではありませんか?
先生はこうも発言しておられます。「日本の中の謝罪派の分裂、日韓の対立が日本の右翼の台頭を許した。和解のためにはそれぞれのナショナリズムを尊重し、二国間の連帯をつうじて、国際主義的なものを求めていくことが必要だ。相手が自らに誇りを持ちたいと願っているということを相互に尊重しなければならない。そのことは日本人が韓国に反省と謝罪を表明する場合でも必要である。」
「自らに誇りを持ちたいと願っているということを相互に尊重」すべき、というのは誰のどんな「誇り」を指しているのですか?自国の歴史的責任を明らかにして新たに更生しようとする人々の人間的な「誇り」は当然に尊敬され、連帯されるでしょう。しかし、自国の歴史的犯罪を隠蔽ないし美化しようとする歴史修正主義的な「誇り」はきびしく拒絶されて当然です。和田先生は「誇り」というあいまいな言葉で、何を指しているのですか?
「謝罪派の分裂が日本右翼の台頭を許した」というなら、その分裂の原因と責任についても踏み込んだ考察が求められるでしょう。私自身は前記したように、初期設定を誤ったまま基金構想を強行しようとした側により重い責任があると考えています。韓国側の知識人や支援団体との連帯を最大限に重んじて、ともに手を取って国家に対峙していたとしたら、局面は違っていたのではないでしょうか。すくなくとも、現在のような消耗な対立ではなく、連帯の気風が育っていたでしょう。
これまで述べたようにアジア女性基金の不成功の原因は、その初期設定の誤りにあり、そのことを早期に修正せず事業遂行に固執したことが連帯の条件を大きく損ねたと私は考えます。その意味で和田先生の「現実主義」は、真の目的に照らして「現実的」ですらありませんでした。
当事者のため?
基金の「償い金」支給事業を正当化するときに、よく用いられるレトリックは「被害当事者は高齢化しており残り時間は少ない。せめて償い金を受け取ってもらって心の安らぎを与えたい」というものです。これが、一人の個人の純粋な善意から出た言葉なら、異議を唱える理由はありませんが、この場合、和田先生は「一人の個人」とはいえず、日本政府が行なう基金事業の実行主体なのです。ある時は民間、別の時には国家事業、ある時は個人の善意、別の時は国家意志、このようなあいまいな二面性がアジア女性基金の特徴といえるでしょう。そのため、国家を批判する人は和田先生のような無私で善意の人を非難するのか、という反批判を浴びることになります。そのことを覚悟で言うと、この二面性は相互補完的な構造をなしており、国家責任回避装置であるアジア女性基金に「道徳性」という粉飾をこらす機能を果たしていると私は考えます。和田先生自身にその意図がないとすれば、先生は徹頭徹尾、国家によって利用されたということになるでしょう。
そもそも「被害当事者のため」というレトリックのもつ絶対性を、あらためて虚心に検討してみる必要はないでしょうか? かりに、当事者が誰も名乗り出ていなかったら、あるいは当事者の全員が「償い金」を受け取ったら、つまり可視的な被害者がいなかったら、この事業の意義はどうなるのでしょう?この事業は「被害当事者」の存在によって支えられているのですか?
私の考えは違います。この事業は「加害当事者」の「道徳的更正」のためにあるのではないでしょうか。慰安婦制度という前代未聞の悪が行われたという事実の前に震撼し、被害当事者が見えなくとも、あるいはかりに被害者が「許す」と言ったとしても、自律的な倫理観から行われるべき行動ではないでしょうか?
韓国の被害者と支援団体が当初から提示してきた要求は、真相究明、真の謝罪、個人賠償、責任者処罰、正しい歴史教育、追悼碑の建立の6項目です。
和田先生は、「謝罪」については首相の手紙で果たされた、「償い金」は賠償そのものではないが、それと同義のものとみなしうる(そうみなすべきだ)、と主張されます。しかし、被害者に渡される金員は、金額ではなく名分こそが問題なのです。誤解の余地のない明確な補償金でない以上、被害者が真に慰められることはありません。まして、その他の4項目はまったく実行されていないばかりでなく、過去25年間の反動期を経て、ますます実現が遠のいています。
重要な点は、これら6項目はそれぞれ独立してあるのではなく、相互に密接に関連しているということです。真相究明や真の謝罪なしに、処罰も歴史教育も慰霊碑もありえないからです。これら6項目を実現することは、もう一度いうと、被害者のためではなく、加害者のためにこそ必要なのです。被害者の存在が見えない場合でも、加害者が自律的に成し遂げなくてはならないプロジェクトです。被害者はむしろそれを支援してくれている存在ととらえるべきです。
アジア女性基金事業はオランダとフィリピンでは成功したと和田先生は言われます。しかし、この場合、「成功」とは何でしょうか? 「被害者の中でもっとも勇敢に名乗り出て、たゆまず日本の国家のしたことを批判し続けたジャン・ラフ=オハーンは基金に申請を出すことを拒絶しました。」(「解決」)この一人の女性が存在するという事実だけでも、基金が「成功」したとは言えない、すくなくとも「成功」を自賛すべきではない、なぜなら彼女こそが日本国家がもっとも真摯に赦しを乞うべき相手であり、彼女が赦してこそ赦しを得たといえるのだから……私はそう考えるのです。
フィリピンの場合も、「償い金」受け取りを拒否した人たちがいる一方、マリア・ヘンソンさんをはじめとして、最終的に受け入れた人もいます。ヘンソンさんは「償い金」を受け取った翌年に亡くなりました。戦中に日本軍によって集団レイプされ、ようやく90年代になって訴訟を起こしたものの棄却され、国家賠償を受けることもないままに亡くなったのです。徹頭徹尾日本国家に蹂躙されてきたその方が、亡くなる一年前に「償い金」を受け取ったことをもって、「心の安らぎ」を与えることができたというのでしょうか。たとえ貧しさや高齢の故に「償い金」を受け取る人が続出するとしても、かりに韓国を含むすべての地域の被害者が「償い金」を受けとったとしても、国家が明確で誤解の余地のない謝罪と補償を行わない限り、日本人たちは自らを慰めてはならない、私はそう考えます。
アジア女性基金の活動は、被害者救済のためではなく、まして、日本国家の責任を明らかにして新たな連帯の地平を切り開くためでもなく、日本人が自らの「良心」を慰めるためのものだったのではないのか。それは謙虚の衣をまとった自己中心主義ではないのか、その心性を克服することこそが、問われている課題ではないのか。その反省がない限り、「もう金は払った」とか、「被害者の目当ては結局は金だ」とかという、日本社会に遍在する最悪の差別意識と闘うことはできません。
韓国語原文入力:2015-09-10 18:58