本文に移動

[寄稿]再び和田春樹先生に問う 既成事実による被害者の分断

登録:2016-05-13 22:03 修正:2016-05-19 22:14
母の日を控えた4日、ソウル鍾路区の日本大使館前で開かれた第1229回日本軍「慰安婦」問題解決に向けた水曜集会に出席した人たちがプラカードを持っている=キム・ソングァン記者//ハンギョレ新聞社

ハンギョレは3月12日付土曜版の20、21、22面を通し和田春樹・東京大学名誉教授(78)に送る徐京植・東京経済大教授(65)の挑発的な公開書簡を掲載した。3月26日付土曜版の18、19面には和田教授の徐京植教授に送る答申を紹介した。双方の公開書簡を掲載した後、徐京植教授が和田教授の主張に再反論する文章を送ってきた。徐京植教授はこの文章で、自分が公開書簡を通じて明らかにした3つの質問に対する和田教授の明確な立場の表明を求めた。

 和田春樹先生、私の公開書簡「日本知識人の覚醒を促す-和田春樹先生への手紙」(本紙3月12日付)にご返答「徐京植教授の公開書簡に答える」(以下「反論」本紙3月26日付)をいただき有難うございました。私としては真理探究と連帯構築のための対話を試みたつもりでしたが、一読して、先生からのご返答が思いがけず怒りを含むものであったことに当惑いたしました。しかし、残念ながら私からの問いに答えていただいていないと思われましたので、ここに重ねてお尋ねすることをお許しください。

 私は前記「公開書簡」の末尾に先生への具体的なお願いを3点、挙げました。

(一)「アジア女性基金」失敗の原因を思想の次元で深く掘り下げて考察していただきたい。

(二)昨年12月28日の日韓合意(「12・28合意」)は、直ちに撤回されるべきである旨の意思を表明していただきたい。

(三)朴裕河教授の著作と言動について先生ご自身の見解を明示されることを求めたい。

「両国の合意の白紙化は難しい」との主張には
失敗したアジア女性基金のレトリックが
そのまま繰り返されています
一部被害者の非難ではなく
両国の政治権力を批判しているのです

社会党は官僚・自民党と妥協
「フィリピン・オランダは成功した」が
核心的課題は手も出せなかった状態
加害者側は「成功」といった評価を
自ら禁ずるべきでは

 まず、(三)について、先生は「反論」で、とくに理由を示さないまま「いま徐氏と議論する気持ちがない」とだけ記しておられます。しかし、日本に端を発し韓国社会をも巻き込んで展開している「朴裕河現象」は「慰安婦問題」の本質的な評価にかかわると同時に、日韓両社会において運動体や市民相互の分裂・対立状態の原因となっており、今日までの経緯からして先生は決してその部外者ではありえません。日ごろ「責任」を強調される先生が、この問題については口を閉ざされることは、納得しがたいことです。改めて、先生のご見解をうかがいたいと思います。

「権力批判」を「被害者批判」に

 さて、和田先生は、吉見義明教授や私の「12·28合意」の白紙化論は「安易である」と一蹴したうえで、安倍首相の謝罪表明がより重要であると強調されました。しかし、「12・28合意」の際の安倍首相談話は首相みずからの記者会見や国会などで表明されたものではなく、また、先生ご自身も述べられているとおり、公式な書簡の形で被害者に伝達されたものでもありません。

 今日までの経緯を顧みると、これは「最終的かつ不可逆的解決」で合意という韓国側の譲歩を引き出すために与えられた口約束と見ることが妥当と思われます。実際に、その後の日本政府の立場は、10億円の拠出金は「賠償金ではない」という見解表明や、国連女子差別撤廃委員会における外務審議官の「事実説明」など、一貫した国家責任否定論であることに変わりありません。

 先生は2014年6月の第12回アジア連帯会議の決定を、「日本政府が受け入れうるはずの形を考えて、要求を表現し直した」ものとして重要視され、ご自身も「直ちに日本外務省の局長、課長にも説明し、以来会う人ごとにこの案の意味を説き、文章も書いてきた(『世界』14年9月号)。2015年4月には東京での「全国行動」の集会に尹美香挺対協代表とともに登壇して、この案を支持する発言をおこない、5月には新書『慰安婦問題の解決のために』を書いて、この案による解決を訴えた」と述べておられます(「反論」)。

 しかし、日韓両政府は、和田先生たちの熱意に誠実に答えることなく、当事者にもはからないまま「合意」を公表しました。先生がコンタクトをもった外務省の役人は、先生に今回の合意発表について事前に通告しなかったようです。和田先生の熱意は、国家によって都合よく利用されたのではありませんか?

 日本政府はすすんで実行する気持ちのない口約束の代価として「不可逆的最終解決」の合意という外交的成果を得ました。今後日韓両国の権力はこの「合意」をタテに、被害当事者のものも含めて、さまざまな批判を封じ込めようとするでしょう。この「合意」によって失われたものは大きく、真の「解決」の道はさらに遠のきました。

 そうであるからこそ、韓国の運動団体はその日のうちに「12・28合意」の「白紙撤回」を求め、「日本政府の国家的法的責任履行がかならず実現されるよう」求める立場を明確にしたのでしょう(共同声明「市民団体の立場」)。私が和田先生にお願いしたことは、先生ご自身にもこのような立場に立っていただきたいということです。

 しかし、先生はこう述べられます。「日韓両政府の合意を白紙撤回させることはことの経過からして、難しいと言わざるを得ない。(中略)安倍首相にその「最終的解決」案を白紙撤回させて、まったく新しい解決案を出させる力は日本の国内にはないのである。だから、慰安婦問題解決を願ってきた日本人としては、このたびの日韓合意の改造、改善の道を進むしかない。むしろそうすることがこれまで運動してきた者の責任だと私は思う」(「反論」)。

 この見解は私にはおおいに疑問です。いまさら撤回は難しい、新しい解決案を出させる力は日本にはない、だからこの道を進むしかない、それが「責任」だ、……ここには、失敗に終わった「アジア女性基金」のレトリックがそのまま反復されています。果たしてそれが「責任」でしょうか?私は、冷徹な批判によって失敗の反復を防ごうとすることこそが責任であると思うのです。

 しかも、先生は「反論」にこんなことも書かれました。「運動家であれ、専門家であれ、日韓合意の白紙撤回を主張するなら、このたびの合意を受け入れる被害者ハルモニが出てきたとき、その行動を認めず、その人を非難することになるのである。」

 これは、私が「公開書簡」の「亀裂」という章で述べた、「アジア女性基金」が「償い金」支給を強行した際のレトリックの忠実な再現です。前回の歴史的失敗の経験を踏まえた発言とはとても思えません。

「アジア女性基金」の際にも、その発足前から、構想そのものに危惧や批判の声が、韓国のみならず日本の中からも挙げられていたにも関わらず「基金」は強行され、批判者に対しては、「お金を受け取った被害者ハルモニを非難するのか」という筋違いな反論が繰り返されました。今回も、被害当事者や運動団体の意向を無視して両国政府が「合意」を唐突に公表しました。和田先生は、それを批判するものに対して、「被害者ハルモニを非難することになる」という論法で反論しておられます。これは既成事実を作ったうえで、被害者の分断をはかり、その分断された被害者の一方を盾にとって自己正当化をはかろうとするレトリックではないでしょうか。公害問題、基地問題、原発問題等々、国家補償のからむ多くの事例で権力側がとってきた常套的な手法ともいえるでしょう。そうした分断策をこれから実行するという予告とさえ聞こえます。和田先生のような尊敬すべき知識人から、こんな論法を二度にわたって聞くことになったのは残念としかいいようがありません。

 「日本政府が差し出す謝罪とそれにともなう措置について、受けるか、受けないかを決めるのは、名乗り出て、告発した被害当事者に権利がある。ここに来て、被害当事者全体の声を確認しないで、「白紙に戻してもう一度やり直さなければならない」と断定する権利が吉見義明氏にあるのだろうか」(和田「反論」)。

 そう主張する「権利」は、事実認識を基礎にした理性的な議論である限り、吉見先生はもとより、私にもあるはずです。私は、今後「12・28合意」を受け入れるかもしれない一部被害当事者を非難しているのではなく、そのようなやり方は被害者を分断するものであり真の「解決」にはつながらないとして、日本と韓国の政治権力を批判しているのです。これら二つのことを混同して論じることは、「権力批判」を「被害者批判」にすり替えることを意味します。私が前回の公開書簡で、国家責任を否定する国家の立場を個人の道徳論で覆い隠すべきではないと主張したのはこのことです。和田先生にお答えいただきたかったものこの点でした。

 和田先生は、今回の「反論」で、「12・28合意」に至るまでの1990年以来の経過を述べた上で、徐京植は「慰安婦問題の解決を求める運動のこのような厳しく、困難な道程をどれほど理解して、発言しているのだろうか」と述べておられます。

 もちろん、不勉強な私でも、先生が近著『慰安婦問題の解決のために』をはじめとして、各所で繰り返してこられた見解をここで繰り返されたことは理解しております。しかし、私がお尋ねしたことは、「アジア女性基金」は「初期設定」が誤っていたのではないか、誤った初期設定を修正しないまま強行したことが「失敗」の原因ではないのか、そうだとすれば過ちが生じた原因をどう考えるべきか、といった原理的な次元での問いでした。そして、それにもかかわらず、今回の「12・28合意」において、その過ちが反復されているというのが私の主張の核心です。自分たちは最大限の努力をして来た、自分たちがどれほど苦労してきたか知らないのか、という先生のお叱りは、残念ながら、私の問いに対する答えにはなっておりません。私は先生方の努力が足りなかったと批判しているのではなく、その努力の方向性が誤っているのではないかと尋ねているのです。

日本軍「慰安婦」被害者の女性たちと民主社会のための弁護士の会が昨年1月28日、ソウル麻浦区の慰安婦被害者の憩いの場「平和の我が家」で韓日合意が国際人権基準と国連勧告に合致するか問う国連請願書提出の記者会見をしている=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社 

 和田先生は、アジア女性基金発足時から95年に至る状況についての私の認識が「現実とひどくずれている」と言われます。日本政府の大原則は「被害者への国家補償はなしえない」というものだった、村山連立政権が生まれると、右派による「終戦50周年議員連盟」などの強力な対抗運動が組織され、「日韓の運動勢力の連帯は存在したが、この事態を打破する力はなかった」(「反論」)。

私はこのような日本の右派の頑強な抵抗について無知だったのであればその認識は「ひどくずれている」といえるでしょう。しかし、そうではありません。「第四の好機」という拙稿でも言及したとおり、私はそれ以前から一貫して、日本の右派・保守派の岩盤の厚さを軽視したことはありませんでした。「アジア女性基金」発足の頃、私たち在日朝鮮人の若手研究者による研究会のレセプションで来賓としておいでになった和田先生が発言され、激論が交わされた場面を思い出しました。その時、先生が「基金」構想の必要性の根拠として、このような日本右派の岩盤の厚さを思い知ったと、現在と同じ議論を述べられたとき、失礼ながら、私は内心で、和田先生ほどの人でも自国の政治状況についてそれほど楽観的であったのかと、驚きました。

 そんなことはむしろ前提であり、このような右派の頑強な抵抗と闘っていくためにこそ「日本の進歩的市民と韓国の反植民地主義勢力が連帯して、日本政府に対峙することが必要だ」と私は考えていたからです。90年代前半に、「慰安婦」問題をはじめとする戦後補償問題、戦争責任問題が浮上してきたことによって、ようやくかすかながら連帯の萌芽が見え始めたのです。「アジア女性基金」構想はこのような連帯に亀裂と対立をもたらし、右派との闘いにおいて不利な条件をつくることになった、というのが私の論点です。

 「日韓の運動勢力の連帯は存在したが、この事態を打破する力はなかった」と先生は言われます。もちろん、直ちに事態を打破する力はなかった、と私も思います。しかし、そうであればあるほど、国家責任の追及という原則を高く掲げ、連帯を強固にし、長期的な闘いに備えるべきであったと思います。そうでなければ、いつまでも「事態を打破する」ことはできないでしょう。

 事実、あれから四半世紀以上が経過した現在にいたっても、和田先生は繰り返し、「新しい解決案を出させる力は日本の国内にはない」と、同じ論法を繰り返しておられます。事実認識としてはそのとおりだとしても、そのように「日本はいつまでも変わることができない」という前提に立ち、あまつさえ、その前提を共有するよう被害者側に求める論法には、結局この人は日本を変えるつもりがないのではないかという根本的な疑問を抱かざるを得ません。むしろ、日本社会における保守派の岩盤が強固であればあるほど、被害者側と連帯してそれと闘ってこそ、困難の先に「事態を打破する」希望が見えてくるのではありませんか。「アジア女性基金」発足時に韓国側から投げかけられた批判は、まさしくそういう呼びかけであったと考えます。

 私が前回の公開書簡で先生の「初心」についてお尋ねしたのも、この問題意識のためでした。先生は、1973年の金大中拉致事件を契機に韓国民主化連帯運動の中に「第三のチャンス」がある、と力説されました。これは「われわれが生まれかわるための連帯である。日本人と朝鮮半島の人々との間の歴史をすべての面で問い直し、根底からつくり直すための連帯である」と。「日本国民はこの「第三のチャンス」をつかんだのでしょうか?」という私の問いは、日本国民は「生まれかわった」のか、日朝両民族の歴史を「根底からつくり直す」ことができたのか、という問いでもありました。

もし、それができたのだとすれば、先生はいまに至ってまで「新しい解決案を出させる力は日本の国内にはない」と繰り返す必要はなかったはずです。また、それができなかったのだとすれば、過ぎ去った四半世紀の誤りをきびしく振り返って総括し、いまからでも「初心」に立ち返って「生まれかわる」ための努力をすべきではありませんか。

 「アジア女性基金」構想を進めた村山内閣の五十嵐広三官房長官が、朝日新聞の「元慰安婦に<見舞い金>、民間募金で基金構想、政府は事務費のみ」という記事に反論しなかったことについて、私はこの記事は、「当時の(社会党を含む)政権の意図を正直に伝えている」とみるべきだと主張しました。これについて、和田先生は「これは村山内閣に反感を持つ人の根拠がないきめつけである」と反発しておられます。「反感を持つ人」という言い方は、互いの見解の相違を踏まえて真実に迫ろうとする理性的対話にはなじみません。かりに私が「反感」を抱いたとしても、それは原因ではなく結果でしょう。「反感」のゆえに根拠のない言いがかりをつけているのではなく、実際に行われた行為の結果が私になんらかの感情を抱かせたのです。

 「五十嵐官房長官も、戦後50年問題プロジェクト・チームの社会党委員も、必死で主張したが、被害者への支払いに政府資金をあてることはついに官僚と自民党委員から賛成がえられず、断念されることになった」…そう和田先生は述べておられます。

 五十嵐氏はもちろん大いに努力したことでしょう。私はそのことを無視しているのではありません。そのことは、この際の議論のポイントではないと申し上げているのです。五十嵐氏は「官房長官」であり、つまり政府の公式な代弁人なのです。その人の決定や発言は、一義的には政府の意思表示であることを免れません。彼の内心やそこに至るまでの苦労を忖度することと、政策そのものの評価とは別問題です。まして、先生自身が記しておられるとおり、「被害者への支払いに政府資金をあてることはついに官僚と自民党委員から賛成がえられず、断念されることになった」のです。彼は「官僚と自民党委員」の意向を受け入れ、官房長官としてそれを公表しました。これがまさしく、私のいう「(社会党を含む)政権の意図」です。五十嵐氏個人の人柄がどうであるかということとはあくまで別問題です。

フィリピンなど「成功」の評価は誤り

 このように社会党が、それまでの原則を捨て「官僚と自民党」に妥協して体制内化しました。その結果、社会党は自壊し、日本の進歩的リベラル勢力は無力化しました。「アジア女性基金」構想も、その枠内でつくられたものであるだけに、初期設定の段階から矛盾と限界性を抱え、それを克服できないまま現在に至ったのではないかというのが、私の問題提起でした。その問題提起に対する和田先生の応答は、私の問いには答えず、五十嵐氏や自分たちの苦労を理解すべきだ、という論法の反復です。ここにも、先に述べたと同じ、国家批判と個人批判との(場合によると意図的な)混同が見られます。

 このような混同の代表例は、天皇制という国家制度の戦争責任や植民地支配責任を論じようとするときに、(それが事実であろうとなかろうと)「天皇個人は平和志向だった」というような的外れな応答が返って来て議論が深まらない現象です。率直にいうと、先生の応答にはこれと類似したレトリックが頻繁に現れます。

 「基本的な欠陥をもっていたにせよ、アジア女性基金は、日本政府がすすめた謝罪と償い(贖罪)の事業であったことは否定できない。これを「日本政府が公式謝罪と法的賠償を回避する手段」であったとみるのは正しくない。」先生はこのように書かれていますが、まさしく「アジア女性基金」は「基本的な欠陥」(初期設定の誤り)をもちながら推進された「日本政府の事業」なのであって、そこにおける日本政府の過去20年来変わらない方針は、今日ますます明らかなように、国家の法的責任をあくまで否定するということです。

 和田先生はその「アジア女性基金」の専務理事を務められました。つまり、たんなる一般市民ではなく、政府の政策意思を実践し体現する位置にみずから立たれたのです。先生個人が善意であったこと、自己犠牲的な努力をされたことは否定しませんが、そのような「個人の道徳性」の次元と国家政策の評価の次元とは冷静に区別されなければなりません。同じように、「アジア女性基金」に拠金した一般市民の善意の次元と、その「基金」が客観的に果たした政治的役割とは、冷静に区別して考察しなければならないでしょう。後者を論じようとするときに前者を強調して、後者への批判が一般市民の善意に対する非難であるかのように語るのは、控えめにいっても「的外れ」であり、あえて言うと拠金した市民の善意すらも国家目的に利用しようとする「すり替え」でしかありません。

 アジア女性基金は、フィリピンとオランダでは成功を収めたと評価できると先生が述べられたことについて、「オランダでは、被害者として名乗り出て、日本国家を批判しつづけたジャン・ラフ=オハーン氏が基金を拒絶した、「この一人の女性が存在するという事実だけでも、基金が『成功』したとは言えない」と私は批判しました。この批判に対して先生は、ご自分の著書で、オハーン氏は「日本人が忘れることのできないオランダ人女性です」と強調したのは私であると反論されました。私もそのことは先生の著書を読んで承知しております。

 しかし、私には先生のこの言い方にも納得がいきません。オランダで基金が「成功した」という評価と、オハーン氏は「日本人が忘れることのできないオランダ人女性です」という強調とは、どのように両立し、どのように論理的に整合するのでしょうか?オハーン氏の告発を忘れないのならば「基金」が成功したとは言えないのではないでしょうか?たとえそのような「忘れられない被害者」がいようとも、受け入れた人の数が多ければ「成功」と評価するのですか?まして、「基金」受け入れを拒否し続けている被害者が韓国、台湾などに多数存在するだけでなく、そもそも「基金」事業の対象にすらならないままの被害者たちが中国、北朝鮮、東チモールなど各地に現存しているというのに。

 ここでもし先生が「オハーン氏のような存在がある以上、基金が成功したとはとうてい言えない」と言っておられたら、私は先生のご苦労に共感し、尊敬の思いを新たにしたことでしょう。私がここで申し上げているのはいわば「自律的倫理規範」とも呼びうる精神的態度のことです。この人々に加えられた(日本国民の立場から言えば自国がこの人々に加えた)筆舌に尽くしがたい残虐・冷酷な行為から見れば、「アジア女性基金」による「謝罪と償い」はとうてい釣り合わないということ、まして真相究明、責任者処罰、歴史教育、記念事業など核心的課題は手つかずのままであることを考慮すれば、被害者たちが「心の安らぎ」を得たかどうかを超えて、加害者側は「成功」などという評価を自らに禁じるべきではないでしょうか。そうであってこそ、オハーン氏のような人も含めた被害者たちからの信頼を徐々に得ることも可能になるでしょう。

 フィリピンのロサ・ヘンソンさんについても、私の申したいことは同じです。オハーン氏とは異なり、彼女は死の前年に「償い金」を受け取りました。報道によると、それは貧しいトタン葺きであった自宅の改築費用に充てられたそうです。「貧しいから、高齢だから、「償い金」を受け取ったとみるのは、フィリピンの被害者たちに対する偏見ではないか」と和田先生は私を批判されました。しかし、これは私の「偏見」ではなく、否定できない「事実」です。私がそれを言うのは「償い金」を受け取った被害者を非難するためではありません。私はただ、無力な被害者たちをこのような限界にまで追い込んだ上で、その人々に強いた屈辱と苦難にまったく釣り合わない「償い金と謝罪」を伝達したことをもって事業の「成功」と称するその精神のありように「自律的倫理規範」の欠如を、さらに言えば、道徳性の名を借りた国家意思の冷血さを感じるばかりです。

 しかし、これは「自律的倫理規範」についての話です。もとより誰かに要求されたから実行するたぐいのことではありません。したがって私もまた、この点について、これ以上は言葉を重ねることはやめて、ただ、和田先生と読者のみなさんが静かに自己省察されることをお願いしておきたいと思います。

 「アジア女性基金に関わった者の気持ちからすれば、被害者のために何事かをしたい、不十分であれ、日本国家国民の責任を果たしたいと思ったのであって、自分の良心を満足させることだけを考えていたということはありえない。人間の小さな努力に対して超越的な高みから判定を下すようなことはやめてもらいたい。」

 人をひるませるこの強い言葉に対しても、すでに述べたことが私からの応答になるでしょう。私は「人間の小さな努力」を冷笑しているのではありません。その「人間の小さな努力」が国家によって横領されることを許してはならない、被害者のために何事かをしたいという、それ自身としては立派な個々人の願望を国家の法的責任回避のために利用させてはならない、そう述べているのです。

 先生は、昭和天皇が死去した1989年の1月31日、鶴見俊輔氏ら知識人とともに声明を発表したことを、今回の「反論」で想起しておられます。「私たちの国家は植民地支配の清算を果たしていない」、植民地支配によって朝鮮民族に「計り知れない苦痛」をあたえたことを謝罪するという国会決議を採択するよう」求める内容でした。私もあの時、自分の感じた喜びを改めて思い出しました。それは、昭和天皇の死去を契機に「一億総免責」状態になだれ込もうとする当時の日本社会において、きわめて貴重な抵抗の動きであり、希望の持てる連帯の萌芽であるように見えました。これが、私の言う「韓国民主化闘争の前進に励まされて、韓日民衆間の連帯が急速に進むように見えた瞬間」の一情景であり、和田先生はその中心人物でした。しかし、その希望の瞬間は文字どおり数年のうちに過ぎ去りました。

 和田先生は私が昭和天皇の死に際して書いた「第四の好機」を挙げて、次のように書いておられます(「反論」)。「(徐京植は)植民地支配は天皇の名によっておこなわれたのに、天皇が死去した日本は「天皇の戦争責任を免責することによる日本人全体の『一億総免責』が行われようとし」ていると述べている。朝日新聞の社説が天皇の責任を免罪し、米国による天皇制温存に感謝していることを怒りをもって論難する。徐氏はこれで日本に絶望したようだ。」

 この引用はおおむね私の論旨を掬い取ったものといえます。しかし、不明確なのは、それに対する和田先生自身の見解です。前記のとおり、和田先生らは日本朝鮮植民地支配が未清算であることを問題視し、そのことを「謝罪」する国会決議を求める立場を明らかにされました。私は、先生方が問題視されている未決の課題の中には当然、天皇制および天皇個人の責任という問題も含まれているはずだと考えていました。しかし、この点でもどうやら私はナイーヴだったようです。先生は天皇の戦争責任および植民地支配責任をどのようにお考えですか?ご自身は当時の朝日新聞社説と同様に、「米国による天皇免責はよかった」と考えておられるのですか?

植民地支配の罪を謝罪するという問題意識と、米国による天皇制温存に感謝するという意識は、どうみても論理的に不整合であると私は思います。それはまさしく、戦後50周年の記者会見で、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と述べた直後に、記者から天皇の戦争責任について質問され、「あ、それはない」と即答した村山首相のスタンスに、その非論理性において合致するものでしょう。つまり、原則を捨てて与党化の道を選び、結局は自壊に至った当時の社会党のスタンスです。

 「第三の好機」は生かされなかった、連帯の希望は90年代の半ばまでには混迷に陥り、暗転して、日本社会は現在まで続く「長い反動期」に突入した、それが私の認識です。この認識を、和田先生は「現実無視の暴論である」と一刀両断されました。しかし、そうでしょうか? 

 90年には金丸田辺代表団が訪朝し日朝交渉が開始したと言われますが、その後国交交渉は頓挫し、現在、日本と朝鮮民主主義共和国との間は最悪の対立状態にあります。慰安婦問題が提起されて93年には河野談話が出た、95年には村山談話が出たではないか、と先生は言われます。しかし、その後、慰安婦問題は「被害者が納得する解決」に至ることができず、むしろ日本社会では官民挙げての歴史修正主義から攻撃の的にされ続けてきました。97年にはほとんどの中学校歴史教科書に登場した「慰安婦」に関する記述は、いまでは姿を消しています。国家主義と排外主義が高潮し、巷には嫌韓論とヘイトスピーチが溢れています。教育や報道への国家介入、秘密保護法、安保法制、公然たる改憲の企図…こうした状況を「反動期」と呼ぶことが「現実無視の暴論」でしょうか? 現実主義者の和田先生こそ「現実」が見えていないのではありませんか?

「89年の氏(徐京植)は2年前の韓国民主革命の勝利も無視している。それが日本に影響して、翌90年には、金丸田辺代表団が訪朝し、日朝交渉の開始にいたるのである。慰安婦問題が提起されて、93年には河野談話が出る。ついには1995年の村山談話となるのである。徐京植氏はこの前進を前進とみとめず、90年代に入れば、反動一色となるとみてしまう」(和田「反論」)

 まず、言うまでもなく私は「6月抗争」を頂点とする韓国民主革命の勝利を高く評価しています。私の肉親を含む政治犯たちもこの革命の結果、出獄することができました。その勝利を私が「無視している」という和田先生の解釈はどこから出てきたのでしょうか?韓国の民主革命を、日本が反動期に入ったという私の議論への反証に持ち出す発想が不可解です。私は「日本の反動期」について議論しているのです。韓国民主革命の勝利は「日本の反動期」についての反証ではなく、むしろ、日本の進歩的リベラル勢力が韓国民主革命の勝利という好条件を生かすことができず、金丸訪朝団から村山談話にいたるわずか5年ほどの「瞬間」の後に、「長い反動期」の到来を許してしまったことへの思想的反省材料であるべきだと私は考えます。(その韓国も現在は「反動期」を迎えていることは前回の公開書簡で言及しました。)

 「日本人と朝鮮民族はなお敵同士の関係にとどまるであろう。これが1989年の徐京植氏の予言であった」と和田先生は記されましたが、私は「敵同士」という表現はしておりませんし、そういう皮相な認識でもありません。両民族はお互いに「敵同士」であるのではなく、日本国とその国民が植民地支配という過去と継続する植民地主義を克服しない限り、朝鮮民族はいつまでも抵抗をやめることができない、と申したのです。その意味では、1989年の私の「予言」は当たりました。残念なことです。

 和田先生は「2016年の日本にいて、私は少なくとも日韓両国民の関係は第三のチャンスを生かして変わったと考えている。韓国の国民からの協力を信じて、日本国民の意識を変えるために努力を続けること――それが私たちの進むべき道なのである」と結論されました。

 「日本国民の意識を変えるために努力を続けること」は当然のことですが、「韓国の国民からの協力を信じて」とはどういう含意でしょうか?「韓国国民」のみならず、ほとんどの朝鮮民族は、植民地主義と闘い自己変革しようとする「日本人」への協力(むしろ「連帯」)を惜しまないことでしょう。しかし、自己変革の課題に背を向け、国家責任を回避しようとするような「努力」に対しては抵抗を続けることでしょう。「韓国の国民からの協力を信じて」などと言う前に、自分たち自身の力によって、自己変革の闘いに取り組むべきではありませんか?

 1990年代の半ばに、日本の思想界に重大な転換が生じました。和田先生に即して私の感じたことをいうと、つじつまの合わない「現実主義」がそれ以前の「初心」にとって代わりました。日本が「変わる」必要を力説していた先生が、「日本は変わらない」と繰り返すようになり、被害者に対してまでそのことを説得しようとするようになりました。この転換は前回の公開書簡で述べたように、東西対立時代の終焉と社会党(進歩派リベラル勢力)の自壊という現象と軌を一にしているようです。ここでなにが起きたのか。そのことは思想的にも、日本近現代史上の重要問題であると私は考えています。この問題に取り組み、解明する努力を尽くさない限り、現状を理解し打破することはできないでしょう。私は、かつて(80年代)の和田先生のような知識人たちが現れ、「日本の自己変革」という困難な課題に立ち向かうことを切望しております。しかし、日本知識人の中でこの思想的課題と真剣に格闘している人たちが現在どれほど存在するのかと考えると寂寞の思いを禁じえません。この現状こそが、「慰安婦問題」をはじめとする個別課題を超えて、東アジアの平和構築にとって真に危機的であると考えます。その議論に資すことができればという意識から、私の考えを正直に先生にぶつけてみました。率直なご返答をお待ちいたします。

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2016-05-13 21:33

https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/743805.html

関連記事