14日午前11時、ソウル鍾路区(チョンノグ)の駐韓日本大使館前。京畿道平沢市(ピョンテクシ)から来たというユ・ヨウルさん(12)は、この前買ったばかりの麦わら帽子を慰安婦少女像の頭にかぶせた。この日、ソウルの最高気温は36度。ユさんは「日差しが強すぎて少女像も熱いのではと思い、家から帽子を持って来た」と話した。平和の少女像の周辺に市民が集まった。ある人は白い花束を置いて行き、ある人は少女像の首に紫色のスカーフを巻いてあげた。少女像周辺は「謝罪せよ」と叫びながら写真を撮る市民たちでにぎわっていた。ユさんは「慰安婦被害者ハルモニ(おばあさん)たちの力になりたいと思って、水曜集会に来た」と語った。
毎週水曜日、日本大使館前で正義記憶連帯の主催で開かれる「日本軍性奴隷制問題の解決のための定期水曜集会」がこの日で第1400回を迎えた。同日は28年前、故金学順(キム・ハクスン)さんが自分の慰安婦被害事実を最初に証言した日を記憶しようという意味を込めた「世界日本軍慰安婦メモリアルデー」でもある。27年前、元「慰安婦」の女性と当時韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)など約30人が孤独な戦いを始めて以来、この日の集会に参加した日本軍慰安婦被害者ハルモニは、キル・ウォンオクさん(91)とデモが終わる頃に姿を現したキム・ギョンエさん(91)の二人だけだった。27年もの歳月が過ぎ、老衰などで亡くなったり、健康が悪化して参加できないハルモニたちの不在を、市民2万人(主催側推算)が埋めた。市民たちは「私たちが証人だ」、「最後まで一緒に闘いましょう」などと書かれたプラカードを持って、「日本政府は謝罪せよ」と叫んだ。
国内13都市をはじめ、日本や米国、台湾、豪州など世界12カ国37都市57カ所も連帯し、第1400回水曜集会を後押しした。正義記憶連帯は「1992年から続いている『水曜集会』が、大韓民国を超えて日本、そして世界各国の市民たちのウィズ・ユー(with you)を作り出した」とし、「水曜集会が戦時性暴力の追放のための連帯を作り、戦時性暴力生存者の主体的な運動を引き出す希望となっている」と述べた。
「暑い中、足を運んでくれて、ありがとうございます。最後まで闘って勝つことが勝利する人です」。 午後12時に紫色のブラウス、水色のスカーフに右手首には慰安婦を象徴する「黄色い蝶のバンド」をつけたキルさんが、席から立ち上がった。左右から2人がかりで支えて、ようやく立ち上がることができる状況でも、キルさんは市民たちに腰を曲げてふかぶかとあいさつした。市民らはキルさんに「サランハンダ(愛している)」と叫び、情を送った。キルさんは、正義記憶連帯が舞台の隣に設けた青い椅子に座った。劇団「経験と想像」の俳優たちが慰安婦少女を演じるときは、舞台の方に身を乗り出して、じっと見ていた。
■キル・ウォンオクさんにとって「水曜集会」とは
当初デモが始まった時は、挨拶だけで帰る予定だったが、キルさんは劇団の公演と北朝鮮側が送ってきた連帯声明まで聞き、午後12時30分になってようやく席を立った。市民らはキルさんに「ハルモニ、体に気を付けてくださいね!」と叫んだ。
「私は今日の集会が第1400回だから特別だとは思いません。毎週来ていたところに、今日もまた来ただけです。望みは早く謝罪してもらい、この問題が解決されることだけです」。キルさんは、「私にとって水曜集会とは○○です」というプラカードに言葉を書き込んでほしいというハンギョレの要請に、しばらく空欄を眺めながら黙ったまま、何も話せなかった。
■市民を変えた「水曜集会」…「正義の実現」、「希望」、「平和の原点」
市民たちは、キルさんの長い沈黙を自分たちのメッセージで埋めた。10歳の娘と一緒に来たキム・ヒョンスクさん(42)は「私にとって水曜集会とは『申し訳ない気持ち』だ」と話した。キムさんは「普段社会問題に関心があったが、水曜集会が1400回も開かれる間、一度も参加しなかった。水曜集会は申し訳ない気持ちそのものだ」とし、「これからこういう現場に出て、ハルモニたちを後押ししたい」と語った。慰安婦少女が描かれたバッチをカバンにつけてきたキム・ミジョンさん(21)は「水曜集会とは『正義の実現』」だと答えた。キムさんは「水曜集会に参加した後、ナヌムの家のボランティア活動や慰安婦関連の講演などに関心を持つようになった。こうした行動が積み重なって日本に謝罪を促す正義の実現が可能になると思う」と話した。
同日の水曜集会で、慰安婦被害者ハルモニのためにポップソングの替え歌を謳った仁川の仁明女子高校の生徒、イ・ジニョンさん(17)は「水曜集会とは『'希望』」だと話した。イさんは「今日、水曜集会に参加した市民たちが本当に多かった。慰安婦問題を忘れずに集まった市民たちがこんなに多いのを見て、希望を感じた」とし、「水曜集会は日本の謝罪と法的賠償など、問題解決に向けた希望の歩みだと思う」と語った。
2005年から水曜集会ボランティア活動をしたイム・ゲジェさん(66)にとって、水曜集会とは「感謝」だった。イムさんは「水曜集会を通じて私が社会への借りを少しでも返せた」とし、「水曜集会に500回以上参加し、豚の貯金箱を持ってハルモニたちのために後援金を集めてきた。以前、キム・ボクトンさんが私を『ブタのお母さん』と呼んだこともある」と話しながら涙を浮かべた。
日本の埼玉県から来たという高校の社会科担当教師のフジワラ・サトシさん(59)は「私にとって水曜集会とは『平和の原点』」だと答えた。これまで水曜集会に10回ほど参加したというフジワラさんは「戦争において最も弱い者、被害者だったハルモニたちを思って、その方たちの暮らしを振り返るのが平和の出発点だと思う」としたうえで、「韓日関係がよくない状況だが、実際に来てみると、韓日市民たちが同じ目標を目指しているという気がした。変わらない日本政府が腹立たしく、日本政府を変えたいと思っている」と述べた。
希望と正義が共存し、世界に平和のメッセージを拡散させる水曜集会だが、市民たちはいつか集会が幕を下ろさなければならないと口をそろえた。キム・フンヨルさん(53)は「デモが1400回まで来るとは夢にも思わなかった。問題解決にこんなに時間がかかるとは思わなかったからだ」とし、「日本は犯した過ちに対して早く謝罪し、この問題を最大限早く解決しなければならないと思う」と述べた。挺対協設立メンバーであり、第1回水曜集会の時から現場を守ってきたキム・ヘウォンさん(84)も「日本の真心からの謝罪によって水曜集会が幕を閉じてほしい」と話した。キムさんは「私にとって水曜集会とは、私の闘いの核心だ。27年が経ったが、問題解決はむしろ後退する中、慰安婦被害者1世代たちが亡くなっていっており心配が多かった」とし、「最初、水曜集会は孤独な運動だったが、今日こんなに多くの若い世代が参加してくれたのを見て心強く思い、大きな拍手を送りたい」と話した。
同日の集会は、日本政府に7つの要求事項をスローガンにして叫ぶことで締めくくられた。「戦争犯罪を認めよ」、「真相を解明せよ」、「正式に謝罪せよ」 、「法的賠償せよ」、「戦犯者を処罰せよ」、「歴史的事実を記録して教育せよ」、「平和碑と史料館を建設せよ」。1400回目の叫びだ。