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「不幸を乗り越えたキム・ボクトンさんの人生、同情ではなく『旗』に」

登録:2019-08-10 08:20 修正:2019-08-10 10:09
映画『キム・ボクトン』舞台あいさつ現場 
キム・ボクトンさん、遺言のように「私は希望をつかんで生きる」と残し 
ピョン・ヨンジュ監督「“良い消費”のような概念で映画を消費しないで」
8日夕方、ソウル三成洞のメガボックスCOEX店で開かれた映画『キム・ボクトン』舞台あいさつ現場の様子=at9フィルム提供//ハンギョレ新聞社

 「思い出せない。忘れ薬を飲んだのかな…。どうなってしまったんだろう、すっかり分からない」

 わずか数カ月前まで自分と同じ家に住んでいた「相棒」がもう思い出せないという。「すっかり分からない」というキル・ウォンオク(90)さんの言葉を最後に、画面は暗くなった。歌手ユン・ミレが歌った献呈曲「花」をバックにエンディングクレジットが上がると、映画館のあちこちで涙をぬぐいながらすすり泣く観客の声が聞こえた。

 今年1月、日本政府の謝罪を受けられないままついに亡くなった日本軍性奴隷制(「慰安婦」)被害者であり平和運動家のキム・ボクトンさんの人生を記録した映画『キム・ボクトン』が8日公開された。この日の夕方、ソウル三成洞(サムソンドン)のメガボックスCOEX店には、200人あまりの観客が参加した中、映画を制作したソン・ウォングン監督と「ひとりメディア」のメディアモング(キム・ジョンファン)、尹美香(ユン・ミヒャン)正義記憶連帯(正義連)理事長、ピョン・ヨンジュ監督などが観客と対話する舞台挨拶(GV)行事が開かれた。

 映画『キム・ボクトン』は、8年間キム・ボクトンさんの生前の姿を撮影してきたメディアモングの映像に、1992年にキムさんが被害証言をはじめてからこれまで正義連が保管してきた音声録音、ビデオテープの映像などの記録物をもとに作られた。公開日が8日に決められたのは、14日の慰安婦メモリアルデーと15日の光復節を控え、一週間キムさんの姿と生前の活動を観客たちに知らせるためという制作スタッフの意図だった。

 映画制作は、メディアモングの提案で推進された。2011年12月、水曜集会1000回を控え、キムさんと縁ができたというメディアモングは「そばにいると普段のハルモニ(おばあさん)の日常的な姿をそのまま撮るようになり、そのようにして撮影した映像が数年間蓄積されて重要な記録物になった」と話した。演出を担当したソン監督は、映画を作る決心をすることになったきっかけについて「この27年間の慰安婦被害者の闘争過程で、キム・ボクトンという人物が韓国と日本の政府、国連の立場と変化によってどんなことをしたのか、歴史の中でキムさんが歩んできた道を探ってみたかった」とし、「キムさんが歩んできた道は、私たちが未来のために残しておかなければならない公的価値がある歴史だから」と説明した。

8日に公開された映画『キム・ボクトン』スチール写真=at9フィルム提供//ハンギョレ新聞社

 生前のキムさんに関する思い出話も紹介された。メディアモングは2015年12月28日、韓日政府の「慰安婦合意」が発表された当日、落ち着いてはいたが強いショックを受けたキムさんの様子について触れ「その日、ハルモニに『生まれ変わったら何になりたいか』と尋ねてみたら、『お母さんになりたい』という答えが返ってきた。ハルモニと一緒に過ごした8年間で最も忘れられない瞬間だった」と話した。尹理事長は「ハルモニが最後の病床で遺言のように『私は希望をつかんで生きる』という言葉を残されたが、それは人に対する希望であり、活動家に対する信頼だったと思う」とし、「キム・ボクトンさんは亡くなったが、今回の映画を通じて、慰安婦被害女性たちが亡くなっても私たちは慰安婦問題の解決に向けてともにするという希望を与えることができれば」という願いを伝えた。1995年に慰安婦被害者を素材にしたドキュメンタリー『ナヌムの家』(原題:『低い声』)を制作したピョン・ヨンジュ監督は「キムさんは『ナヌムの家』にも“端役”で出演した。もともと本当にもの静かで、全てを片付けて故郷の釜山へ帰られた後にまた戻ってくるまでは、先頭に立って闘った方でもなかった。そんな方が数年前『キム・ボクトン平和賞』を作って授賞するというのでびっくりした。もともと闘士だったのではなく、慰安婦問題の解決に向けて闘っていたため他の人たちの痛みを知るようになり、その過程で人権運動家として進化された」と、自身の記憶にあるキムさんの変化について説明した。

 映画は、慰安婦被害者に対する“お涙もの”の要素を最大限排除した。映画は歴史的悲劇が生んだ「被害者」ではなく、2012年に「ナビ(蝶)基金」を作った前後、人権運動家として活動してきたキム・ボクトンさんの人生に照明を当てる。尹理事長は「慰安婦問題は長い期間『女性問題』または『民族問題』とだけみなされ、政府や市民社会の関心を引くことができなかった。しかし、キムさんはそんな孤独で孤立した状況で、全世界の政治家たちに会い、特有のカリスマと筋道の通った記憶によって日本軍性奴隷制問題解決のために強靭に闘ってきた方だ」と話した。尹理事長はさらに「映画ではキムさんがとても強く闘う姿が中心となっているが、東日本大震災で被害を被った日本の人たちを助けるために寄付したほど、苦しみを負った人々に対する共感が非常に高かった方」と評価した。ピョン監督も「1991年に初めて被害を証言した故・金学順(キム・ハクスン)さん、1990年代の慰安婦被害の惨状を絵を描くことで知らせた故・姜徳景(カン・ドクキョン)さんとともに、キム・ボクトンさんは慰安婦問題運動の『旗』になってくれた方」と話し、「1998年にすべてのものを片付けて釜山に帰り、2010年になってまた運動をはじめたキムさんは、その頃慣性的に続いてきた慰安婦問題の解決運動に再び火をつけた方だ」と話した。

ソウル龍山区の映画館で8日に公開された映画『キム・ボクトン』の広報画面の前を観客が通り過ぎている。この映画は1992年から今年1月に亡くなるまでの27年間、日本軍「慰安婦」被害者キム・ボクトンさんが歩んできた足跡をたどる作品だ=カン・チャングァン記者//ハンギョレ新聞社

 この日の行事では、最近の韓日関係の状況の中で“良い消費”という概念で映画『キム・ボクトン』を消費しないでほしいというお願いも出た。ピョン監督は『キム・ボクトン』がいわゆる“気持ち贈り”'(実際には映画は見ずチケットだけ買うこと)運動の対象とされることに関して「慰安婦被害女性を扱った映画が公開されると、ハルモニたちをかわいそうに思う“惻隠の情”のためか、『映画を見に行く時間がなければチケットを買ってお金でも出そう』という意見が出る」とし、「そのようなやり方のチケット購入はやめてほしいと申し上げたい。キム・ボクトンさんは被害としての不幸を乗り越え、人権問題のために闘った方だ。そのような人生を生きたハルモニに同情するのでなく『旗』としてともに作るように観覧してほしい」と明らかにした。

 映画を見る間中ずっと涙を流していた会社員のJさん(35)は「昨年『関釜裁判』(1992~1998年に金学順さんなどが日本政府を相手に自分たちが受けた被害に対する公式謝罪を要求した裁判)を素材にした映画『ハーストーリー』を見て、慰安婦被害者の問題に関心を持つようになった」とし、「映画を見に来る前に数枚チケットを購入し、ハルモニたちの助けになればいいと思ったが、ピョン監督の言葉を聞いて考えが変わった。映画を通して『人権運動家キム・ボクトン』の人生をより理解できるようになった」と語り、涙を浮かべた。観客のパク・チャンフンさん(25)も「普段、歴史関連の本やニュースだけで見ていた慰安婦被害者のハルモニたちの日常に映画で接し、その方々の人生を身近に感じることができて意味深かった」と話した。

 では、キル・ウォンオクさんが登場する最後の場面の意味は何だろうか。ソン監督はハンギョレの取材に応じてこのように述べた。

 「30年近くハルモニたちをお世話し、日本政府を相手に闘ってきたのは、政府ではなく正義連など民間団体でした。映画の最後のシーンにキル・ウォンオクさんがキムさんを思い出せない場面を出したのも、生存しているハルモニたちの時間が残り少ない状況で、これからは政府が乗り出してこの問題を解決しなければならないというメッセージを伝えたかったからです」

ソン・ダムン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/905202.html韓国語原文入力:2019-08-09 19:37
訳M.C

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