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新軍部が88人に達するとした「光州カービン小銃の犠牲者」は1人だけだった

登録:2019-05-17 08:48 修正:2019-05-20 15:32
ムン・ヒョンベ元圓光大学教授が初めて証言 
「市民軍の誤認射撃・北朝鮮の介入説」に反論 
 
「505保安隊が暴徒・非暴徒を分類」 
カービン犠牲者28~88人まで増やし 
市民虐殺の責任を縮小するため捏造した疑惑も
ムン・ヒョンベ圓光大学教授//ハンギョレ新聞社

 5・18民主化運動当時、カービン小銃に撃たれて死亡した市民犠牲者は1人だけだったという死体検案医師の証言が初めて出た。当時、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部が戒厳軍の虐殺に対する責任を縮小するため、死亡者のうち相当数を市民軍が使ったカービン小銃による死亡者に捏造したという疑惑を裏付ける証言だ。これまで軍部政権関係者は市民の死亡者のうち、カービン小銃の犠牲者が28~88人に達するとし、これが市民軍間の誤認射撃や北朝鮮軍介入の結果だと主張してきた。

 ムン・ヒョンベ元圓光大学医学部教授は16日、ハンギョレとのインタビューで、「当時の民間人犠牲者164人の中で、最初の検案所見書にカービン小銃銃傷死亡者は1人だけだった」と話した。全南大学病院の医師だった彼は5・18当時、各界の有識者11人で構成された死体検案委員会に所属した医師2人のうち1人だ。共に参加したパク・ギュホ朝鮮大学医学部教授が死去したため、パク教授は生存する唯一の遺体検案委の医師だ。死体検案委員会の委員らは、検察や警察、医師など49人が参加した遺体検死官たちが1次で作成した所見をもとに、遺体検案書を作成した。

 死体検案に参加した医師は、銃弾が体内に入った「射入口」と、体を突き抜いて出た「射出口」の外形的な状態だけを記録した。普通M16小銃は射入口より射出口の方が大きく、カービン小銃は射入口と射出口の大きさにあまり差がない。ムン元教授は「実際に弾丸を確認するまで正確な分類は不可能だ。ただ、カービン小銃死亡者を1人と記憶しているのは、当時の警察官たちが死亡過程について比較的正確な情報を提供したため」だと述べた。

 1980年8月19日、光州地検が分類した民間人犠牲者は164人で、銃傷死亡者は135人、このうちカービン小銃による死亡者は28人だ。その後、カービン小銃の死亡者は増え続けた。1985年10月の首相の国会答弁では37人に増えたが、1988年2月のソ・ジニョル元戦闘教育司令部司令官の答弁ではさらに88人に増えた。チョン・スマン元5・18遺族会長は「5月21日、戒厳軍の集団発砲後、市民がカービン小銃で武装したため、カービン小銃の犠牲者を増やし、市民軍間の誤認射撃などで犠牲になったように捏造した可能性が高い」と指摘した。

1980年8月19日、光州地検が分類した民間人犠牲者164人で重傷、死亡者は135人で、このうちカービン小銃の犠牲者は28人だ//ハンギョレ新聞社

 ムン元教授によると、最初保安司令部505保安隊で、いわゆる「暴徒」を選別する過程で、カービン小銃の犠牲者にすりかえられた死体が初めて出た。彼は「検案書を発付した件について、505保安隊で(暴徒-非暴徒の)分類作業をした」とし、「当時、いわゆる『暴徒』(M16小銃の犠牲者)を『非暴徒』(カービン小銃の犠牲者)に分類するために努力したのは事実」だと話した。死亡者の中で戒厳軍が使用したM16小銃に撃たれた場合は、暴徒(市民軍)に分類され、葬儀費などの支援を受けることができなかった。したがって、暴徒という汚名を返上するため、あるいは葬儀費の支援などを受けるために、カービン小銃の犠牲者が増えた可能性もある。このような死は、市民軍の責任に転嫁された。

1980年5・18当時、銃撃を受けて倒れた光州瑞石高校生徒のチョン・ヒョンムン君が病院に運ばれている=ハンギョレ>資料写真//ハンギョレ新聞社
チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/894244.html韓国語原文入力:2019-05-16 21:26
訳H.J

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