1925年、全羅南道潭陽(タミャン)で、女の子が生まれた。二男三女のうちの三女。
女の子は育ち、日本の暴圧も次第に激しくなった。日本軍の“乙女供出”を避けるために親は彼女を結婚させたが、そこも安全ではなかった。結婚後100日足らずで、“乙女供出”に行くことになった義姉の代わりに、嫁ぎ先が嫁を送ろうとしたのだ。実家に身を隠したものの、それも長く続かなかった。
1944年の春、村の女性5人と裏山で山菜を採っていた朝、事件は起きた。日本人の巡査に力づくで連行された彼女は、列車に乗って中国に連れて行かれた。その列車には女性6~7人が乗っていた。
そうして連れて行かれた場所、「慰安所」で朝鮮女性は「慰安婦」になった。24の部屋に分かれた2階建ての家。朝鮮人も、中国人も、日本人もいたが、みな着物を着せられた。一人で外出することは許されず、管理人の同意を得て2、3人が同行して慰安所の外に出ることができた。
1日に3回の点呼があり、常に監視されていた。祖国解放によって地獄のようなその期間が1年半で終わったことを、幸いだと言えるだろうか。
解放後、彼女は故国に帰ることを望んだが、帰郷は容易ではなかった。彼女を連れて行く時には一糸乱れず作動していた日本軍のシステムは止まった。中国語があまりできなかった彼女は、解放後、故郷を尋ねる中国の官吏に「光州、テミョン(潭陽)」と答えたが、官吏がこれを中国広東省の広州と聞き違えたため、帰国できず、中国をさまよった。乞食として命をつないだ彼女は、安徽省の宿州市に行き着いてやっと定着した。
中国で60年近く暮らしながらも朝鮮の国籍を手離さなかった彼女が、2004年、文化放送の番組「感嘆符」のチームに出会ったのは、奇跡のような幸運だった。その後、放送局と韓国挺身隊研究所のサポートで2004年に国籍を回復した彼女は故国に帰り、家族と劇的に再会した。
しかし、彼女が帰ってきた故郷に両親はいなかった。娘を奪われた悲しみに耐えきれなかった父親はその翌年死亡し、母親も亡くなった後だった。両親は臨終の時も失った娘を忘れることができなかったと、家族は伝えた。
祖国は半世紀が経ってやっと彼女を受け入れ、私たちは彼女のしわだらけ顔だけを記憶するが、彼女にも心を焦がす思いで娘を待っていた両親がおり、春の日に山菜を採っていた美しい青春の時代があった。
日本軍「慰安婦」被害者クァク・イェナムさん。彼女の苦痛に満ちた人生に終止符が打たれた。享年94歳。1月28日のキム・ボクトンさんの死去に続き、今年3人目の日本軍「慰安婦」被害者の訃報だ。被害生存者の数は22人に減った。
3月2日土曜日の午前に亡くなった彼女の安置所は全州病院の葬儀場に設けられ、出棺は4日に行われる。
クァク・イェナムさん、苦しい人生を終え、どうか安らかにお眠りください。