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「大韓民国万歳」と叫ぶと同時に…銃口が火を噴いた

登録:2019-01-14 23:31 修正:2019-01-15 10:58
済州4・3企画、椿に訪ねる 2部(13) 
 
30年前、国政監査で4・3を初めて述べたイ・サンハ氏 
「逃避者家族」という理由で同じ日の同じ時刻に処刑 
祖父母から甥まで7人が死んで兄は行方不明 
処刑場で助かったイ氏は「天が生かした子ども」

「撃った人は誰ですか?」
「中門支署の警官です」
「家族を撃った人が警官だというのですか?」
「はい」

 1989年9月24日午前5時。13代国会内務委員会の済州(チェジュ)道庁に対する国政監査場で、議員の質問と証人として立ったある済州道民の返答内容だ。家族を撃った人が警察官だったという返答内容を信じられないというような質問だった。

 この日の証人はイ・サンハ氏(84・西帰浦市中文洞)。国政監査の速記録を見れば、イ氏は前日の9月23日に開かれた国政監査場で14時間待ったあげく翌日の午前5時近くになって証人席に立つことができた。20分余り証人席に立つために、14時間を待ったイ氏は、この日ある国会議員が事前に約束した話だけしろと言ったが、「真実を言う」として、4・3当時の家族の被害状況を通じて明らかにした。

 ダブー視されていた済州4・3が被害者の口を通じて初めて国政監査場に伝えられた瞬間だった。この日取材した記者は今月6日、30年ぶりにイ氏に会った。イ氏は、当時を思い起こしながら「事実を言ったのに、ある国会議員は信じなかった。私の話を絶対に信じようとしない。どうしてそんなことがありうるかという表情をしていた」と言いながら笑った。

イ・サンハ氏が済州4・3当時に家族が犠牲になった済州道西帰浦市中文洞回水里の畑を訪れ、当時の状況を説明している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

初めて4・3を話した瞬間…国会議員は信じなかった

 1948年12月17日午前8時頃、中文面(現、西帰浦市中文洞)回水里の郷祠横のイ氏の家では、親戚一同20~30人余りの棺の輿の担ぎ手が集まって朝食を済ませ、祖父と祖母の埋葬地に行く支度をしていた。この日は4日前に警察の犠牲になった祖父(イ・ウォンオク・当時71)と祖母(カン・チュヒャン・当時64)の葬儀を行う日だった。祖父と祖母は村から1.5キロメートルほど離れた現在の中門高等学校近隣で土俗宗教を信じ、近隣地域の住民たちを対象に寺小屋を運営していたが、12月15日に犠牲になった。

済州4・3の時、家族全員を失ったイ・サンハ氏が、当時の経験を涙まじりに話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 中門支署の巡査1人と竹槍を持った学生たちで構成された青年団3~4人が、埋葬地に行く準備に忙しいイ氏の家に押しかけてきた。警察は、イ氏の父親(イ・ドゥヒョン・当時48)と母親(カン・テサ・当時46)に「出て来い」と言った。父親は、家にいた家族にもみんな出て来いと言って一緒に出て行った。13歳だったイ氏と姉(イ・ファソン・当時16)、兄(イ・ギハ・当時25)の息子(イ・キルパル・当時7)と娘(イ・チュンジャ・当時6)の6人が一緒に出て行った。親戚と隣人たちが集まって葬儀の準備で忙しかった家の中庭には、突然緊張が走った。イ氏は「私や姉、甥は連れていかなくても良かったのに、父親がきまじめで全員に出て来るように言った。父親は以前にも何度か支署に呼び出されて行ったことがあったが無事帰されたことがあるので、大丈夫だろうと思ったようだ」と話した。警察は、家の前の小道に出てきたイ氏の家族を畑に行かせ、家にいた残りの人々には見物しろと言った。

「逃避者家族」という理由で一家が全滅

 冬だったが寒くはない晴れ渡った日だった。イ氏の家族は、家の前の丘を下って畑に行った。中山間の村である回水里は、畑作を主にしていた。イ氏の家族も、さつまいも、粟、蕎麦を作っていた。警察は、イ氏の家族に背を向けて座れと言った。死を予感したのか父親は孫を抱き、祖母は孫娘を抱いてためらいながら座った。姉と中門国民学校(小学校)5年生だったイ氏も一緒に座った。親戚と隣人たちは、その姿を黙って見守っていた。処刑の瞬間が近づいた。父親は警察に「大韓民国万歳」を呼ぶと話した。ひょっとして助けてもらえるかもと思いそう言ったのだろうとイ氏は話した。しかし「大韓民国万歳」の声と同時に背中から99式日帝小銃の銃声がとどろき倒れた。イ氏は、本能的にうつ伏せになった。イ氏は「日帝時代に国民学校に通っていた時『空襲警報』と叫んで鐘が打たれると、走って行ってうつ伏せになる練習をたくさんした。それで自然にうつ伏せになったようだ」と話した。

済州道で開かれた国会内務委1班の国政監査場で証人席に立ったイ・サンハ氏の事情を報道した1989年9月25日付「済州新聞」の記事=資料画像//ハンギョレ新聞社

 警察は路肩から畑にいたイ氏家族に銃を撃ち、再び近寄って倒れたイ氏の家族を確認し射殺した。イ氏の頭を狙った弾丸は首をかすめた。弾丸が地面に食い込み土がはねて口の中に入ってきた。イ氏は「銃を撃ったからと即死するわけではないので、近寄って確認して撃ったが、幸い私は当たらなかった。弾丸が地面に食い込み土が口に入って、何も言わずにじっとしていて助かった。祖父が抱いていた兄の息子は、太ももに銃弾が当たったが現場で死にはしなかった。その人(巡査)も怖くなったのか、甥が泣いていたのに黙って立ち去った。村の雑用をしていた小使いの老人がしっかりした人だった。その人が私を毛布でくるんで親族の家に連れて行ってくれたのだろう。甥も連れて行ったが、甥はその日の夜中に泣きながら死んだ」

父親は「大韓民国万歳」と叫んだ

 祖父と祖母に続き、父と母、花盛りの16歳だった姉、7歳と6歳の幼い甥と姪の5人が同じ日の同じ時刻に犠牲になった。イ氏の家族の犠牲は、兄が4・3の後に山に逃避した「逃避者家族」という理由のためだった。この日は、中文面管内の回水里と中文里の神社の場所などでいわゆる逃避者家族数十人が討伐隊により集団虐殺された日だった。討伐隊は、逃避者家族という理由だけで家にいた人々を虐殺した。

 1948年10月17日、済州島討伐に出動した9連隊が、海岸線から5キロメートル以上離れた内陸地域を「敵性地域」と見なし、11月17日には済州島全域に戒厳令が宣言され、済州島は虐殺の島に変わった。11月5日、中文面事務所と支署が武装隊の襲撃を受け、西北青年らで構成された9連隊の特別中隊が中門国民学校に駐留し、中門支署には済州出身の警察官以外に他の地方から来た警察官が補強された。

1948年11月17日の「済州道地区戒厳宣言に関する件」文書=資料画像//ハンギョレ新聞社

 中文面事務所と支署が武装隊の襲撃を受けた後、イ氏の家族は支署に召喚され行っていたが、イ氏と姉は当日帰ってきたし、父と母は翌日に帰ってきた。父はそんな事情から何事もなく済むと考えて、虐殺を避けられなかった。支署が襲撃を受けた後、西帰浦から中文里に徒歩で出動した9連隊の軍人が、回水里に立ち寄った。軍人はどこで聞いたのか「逃避者家族」の家だとして兄が暮らしていた離れに手榴弾を投げ込んだ。ちょうど秋に収穫した粟を板の間に積んでいたおかげで、手榴弾の上に粟の茎がおおいかぶさり火事にはならなかった。翌日、父は誤解を受けるかと思い、自分の手で家を燃やしてしまった。イ氏は「そこまですれば、助けてもらえるのではないかと考えたようだ」と回顧した。

 日帝強制占領期間に国民学校を卒業し徴兵された兄は「青年の中でも有名だった」だったとイ氏は覚えている。日帝強制占領期間時は、村対抗の体育大会で体格の良かった兄は競走と相撲の選手として町内で名をはせた。山に逃避した兄は、翌年の1949年3月頃「自首すれば助けてやる」というビラを見て、回水里に降りてきた。兄は回水里の住民に「弟をよく見てやってほしい」と話し、西帰浦警察署に行ったと伝えられる。同じ年の8月、済州飛行場で死んだといううわさと共に兄は行方不明になった。

天が生かした子ども

 家族全員が皆殺しされた状況で奇跡的に助かったイ氏を、一手に引き受けることになった親族は不安だった。10日ほど過ぎて、親族は知人を通じて当時支署の責任者だった軍の将校(少尉)に「子どもが生きていたが、どうすれば良いか」と意見を聴いた。少尉はイ氏を連れてくるように言った。

イ・サンハ氏=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「私は自分で支署に行った。行くとその少尉が言った言葉は「この子は天が生かした子どもだから、軍隊に連れて行く」だった。親戚たちがその話を聞いて「許可さえしてくれれば私たちが面倒を見る」と頼み、親族の家で暮らすことになった」

 当時の記憶をたどったイ氏の目から涙がこぼれた。親族の家で暮らしたイ氏は、しばらくして親戚の叔母さんと一緒に昔の自宅に移った。4・3が起きる前に婚家にとついだ姉(当時22)が、戦争が勃発した後に姉の夫が軍隊に徴集されると家に来て2年間一緒に暮らした。

 家族の法事はその時から行ってきた。イ氏は「初めは姉さんが法事を行った。当時、一日三食を祭床に上げたが、すべて上げれば名節でも同じだった。そのご飯をすべて食べなければならず、熱いご飯は食べられなかった」と話した。

 孤児になった後も中学校に通った。済州市で商業高校を卒業し、大学に入学した。1957年頃、大学の一学期を通った後、2学期は授業料が払えずに東京で暮らしていた親戚を頼って密航を試みた。長崎県のある島で捕まって、佐世保刑務所で8カ月、大村収容所で1年4カ月過ごして故郷に帰った。満3年の軍隊生活をして、1962年に除隊して故郷の回水里から近隣の中文里に移った。1970年には東京で暮らし、1年間ミカンの栽培技術を習い、ミカン栽培の先駆者になった。当時、養豚技術も習った。

 幼時に家族の処刑を目撃し体験した彼にとって、4・3の記憶はトラウマとして遺った。「一人でいるといろいろ考えてしまう。毎日空想ばかりで集中できず、勉強に手が付かなかった。国民学校の時はそろばんも得意だったし計算もよくできたのに、4・3以後は数字の感覚が鈍くなった。ミミズが切られても動いているように、人も銃で撃たれると息が詰まってできなくなる。それを目撃したせいです」

 1989年国政監査場で国会議員が「社会に対する願望はないか」と質問して、彼はこう答えた。「私はそのような時代に生まれた私の運命だと思って生きています。だから国家に対していかなる感情や願望はありません」。今でもその考えに変わりはない。彼は「4・3を考えれば生きていられない。私の運命と思って生きている」と話した。しかし、賠償や補償は必要だと話した。「賠償や補償のない名誉回復はありません。交通事故が起きても賠償や補償をするのに、人を殺しておいて大統領の謝罪だけでは済みません。いくらであろうが賠償や補償はするべきです」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/878245.html韓国語原文入力:2019-01-14 10:52
訳J.S

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