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真夜中に連行された27歳の同い年の夫はついに帰って来られなかった

登録:2018-12-27 21:42 修正:2018-12-28 08:46
済州4・3 椿に尋ねる 2部(11) 
97歳のイ・イムギュさんの「短い出会い、永遠の別れ」 
「1年半一緒に暮らして連行されたきり、今も夫を思い出す」 
農作業をしていた夫は、麻浦刑務所で行方不明に 
お腹に残された赤ん坊は、夫が刑務所に行った月に出生 
息子のために連行された姑も4・3事件の犠牲に
済州4・3の時に夫を失ったイ・イムギュさん(97)が今月23日、初めて済州4・3平和公園内の行方不明になった夫の碑石を見つけ撫でている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「友達がたくさんいて良かったですね」

 おばあさんがどっかりと座り込んで夫の碑石を撫でながら言った。もうすぐ100歳になるおばあさんのシワは深く、目じりから涙が一粒こぼれた。23日イ・イムギュさん(97・西帰浦市、南元邑、新礼里)は、娘と孫の助けを借りて済州市(チェジュシ)奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和公園を訪れた。行方不明になった人々の石碑が立てられた後、おばあさんがこちらを訪ねたのはこの日が初めてだった。

 おばあさんは、先に亡くなった夫が一人でさびしくしていないか、いつもそれを気にかけていた。夫の碑石を撫でながらおばあさんは、「友だちがいて良かったですね」という言葉を何度も繰り返した。おばあさんの視線の先には多くの灰色の碑石が列んでいた。おばあさんが娘のチョン・ヨンスンさん(70)に言った。「死んだ人がこんなに多いの?こんなに多くの碑石が」「そうなんです。罪のない人がたくさん死んだので。それでも生きている時に来れて良かった」。娘が答えた。おばあさんは、父親の記憶がない娘に「あんたのお父さんは、背が高くて美男子だった」と話した。27歳で妊娠中に夫を送った女性と、それで遺腹子として生まれた娘の対話は湿っぽかった。

イ・イムギュさんが23日、済州市4・3平和公園内の行方不明者の碑石の前で、娘と一緒に夫の碑石に杯を上げている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

初めて訪ねた夫の碑石…「友達がたくさんいて良かったですね」

 碑石に書かれた名前は「チョン・ウォンジョン」。おばあさんと同い年の夫だ。婚姻届は出していない。1年半一緒に暮らし、27歳の時に「すぐ帰ってくる」と言って家を出た夫は、妻が100歳近くになっても帰っては来なかった。短い出会い、永遠の別れだった。

 歳月が流れて、正確な日付は覚えていないが“その日”の記憶だけは生々しい。「夜に横になってようやく寝つこうとした時、誰かが家の前に来て『ウォンジョン、いるか?」と呼びました。寝つこうとしていた夫が、むくっと起き上がり中庭に出て行って、(私が)『どこへ行くんですか?行かないでください』と言ったのに『行ってくる』と言いました。それですぐに帰ってくると思ったのですが、それきりでした」。

 寒い日だった。1948年陰暦12月のある夜の10時頃のことだ。夫について家の前に出てみましたが、彼はすでに見えなかった。27歳の若い夫は、暗闇の中を連れて行かれた。妻は一睡もできなかった。夫は二度と家に戻ってこれなかった」

 「戻って来ると思ってましたよ、そんな風に捕まえて行ったと思いますか?」 二日が過ぎて、おばあさんは誰かが夫を捕まえて行ったのだと思った。

 当時、新礼里(シルレリ)では畑作が中心だった。その当時、済州島での暮らしがそうであったように、一日一日を生きていくことだけで大変だった。夫とおばあさんも、主に麦や粟を作っていた。

イ・イムギュさんが、孫のヤン・シヨン済州4・3遺族会事務局長と娘のチョン・ヨンスンさんと話している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

農夫だった夫、真夜中に連行され刑務所で行方不明に

 胸が張り裂けそうな時間だった。夫が連れて行かれて数日後、おばあさんは新礼里から近い海辺の村のコンチョン浦で夫を見たという話を住民から伝え聞いた。夫は頭を負傷したのか、タオルを頭に巻いて、服は夜中に家から出て行った時に着ていた服のままだったと言う。討伐隊は、夫と他の住民たちをコンチョン浦に臨時に収容し、西帰浦小学校の横のジャガイモ倉庫の収容所に連れて行った。当時、西帰浦ではジャガイモ倉庫、ボタン工場、澱粉工場が収容所として使われ、過酷な拷問が日常的に行われていた。夫はそこで人を通じて「妻に会いたい」と連絡してきたが、おばあさんは気持ちが折れそうで、行かなかったと話した。「会いたくてもどうすればいいのか。恨まれるかと思って行きませんでした」。

 おばあさんはその後、ジャガイモ倉庫の収容所に行った。少し離れた場所で目を合わせた。27歳の同い年の夫婦は、迫り来る運命が分かったのか、何も話をせずに互いを眺めるのみで別れた。それが最後の夫の姿だった。おばあさんはその後、二度と夫の姿を見ることはできなかった。

 夫は再び済州邑に移送された。当時、済州邑に移送された青年たちは、主に済州の酒精工場に収容され、形式的な裁判を受けて他の地方刑務所に移送された。1999年チュ・ミエ当時新政治国民会議議員が、政府記録保存所(現、国家記録院)から受け取った「受刑人名簿」を見れば、おばあさんの夫は軍法会議で無期刑を宣告され、ソウルの麻浦(マポ)刑務所に収監されたことが確認された。この記録にはまた、夫が無罪を主張したが受け入れられなかったと出ている。

 日帝強制占領期間に村の区長(現在の里長)をしていた舅は、ソウルまで行って夫に面会した。しかし朝鮮戦争が起きて、2回目の面会に行った時には夫は行方不明になっていた。死んだという噂はたくさん聞いた。おばあさんは、夫の誕生日に合わせて家族と共に法事を行っている。

イ・イムギュさんの夫、故チョン・ウォンジョン氏=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

おばあさんと一緒に連れて行かれた姑も犠牲に

 夫が連行された翌年の1949年1月27日には、おばあさんが姑(キム・ニョユン・当時48)とともに家の中庭でジャガイモの穴を掘っていると、3~4人の青年が手に竹槍を持って押しかけて来た。彼らは学連(全国統一学生総連盟)所属の学生たちだったと推定される。彼らは「逃避者の家族」と言いながら、おばあさん、5歳になった長女、姑の3人をコンチョン浦の海辺の小さな家に連れて行った。

 青年たちは、一部屋におばあさんと長女を、別の部屋には姑を監禁した。2月5日、彼らは姑に部屋から出て東に向かう道を歩かせた。おばあさんは「どうしてお母さんを捕まえて行くのか」とすがりついたが、効果はなかった。姑は自身の最期を予感したように、嫁に向かって「お前だけでも生きなくちゃ。あの赤ん坊を育てて良い暮らしをして」と言って家を出た。当時、おばあさんは号泣したがなすすべがなかった。しばらくして青年たちは道端で姑を殺害し遺体をかますで覆った。家族が出て行き遺体を収容した。おばあさんは「姑はとても良い人だったのに無残に殺された」と回顧した。

 1960年4・19革命の直後、国会次元の良民虐殺事件調査を控えて届け出られた「国会良民虐殺事件真相調査報告書」によれば、おばあさんの義理の弟(チョン・ペンジョン氏)は、自身の母親と兄を虐殺した執行者に対する厳重処断と無罪糾明、補償金請求を要求した。

イ・イムギュさんが済州4・3にまつわる家族史を語っているチョン・ウォンジョン氏=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

妻が妊娠していたことも知らずに連行された夫

 おばあさんの夫は、妻が妊娠していた事実も知らずに連行された。おばあさんは堕胎を試みたが果たせなかった。「娘が父親もいなくてどうして生きていけますか。松の花粉を釜で煮詰めて、どんぶり半分ほどの水で練って食べれば、直ぐに流産するという話を聞きました。それで一緒に暮らしていた人々が皆出かけると、誰にも知られないように他人の松畑に行き松の花粉を採取して急いで煮詰めて飲み、わらぶき屋根の上から飛び降りたけれど流産はしませんでした」

 隣にいた娘のチョンさんが、お母さんの話を聞いて笑った。お母さんが消せなかった娘は、父親が麻浦刑務所に移送されたその月に生まれた。父親は4・3の時に亡くなったという話を聞いただけで、4・3の話を口にし始めたのは2008年に済州4・3平和公園が作られてからだ。チョンさんは「お父さんがいないので、一部屋だけを間借りして暮らし、お母さんと本当にたくさん苦労した」と回顧した。小学生の時は、お母さんと一緒に山から薪を取ってきて、翌日の明け方にこれを細かくして西帰浦(ソギポ)の松山まで担いで売りに通った。「私も苦労をたくさんして、お母さんも苦労をたくさんされたので、今更きれいな服を着ろと言われても、苦労して生きてきたので古い服を捨てることもできません。根っからの性格になりました。毎日がケンカです」。娘が言った。

イ・イムギュさんが23日、曾孫、嫁、娘と一緒に済州4・3平和公園を見て回っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

遺腹子として生まれた娘、まだ父親の戸籍には載っていない

 チョンさんは、戸籍上は伯父の娘になっている。母親と父親の婚姻届の記録がないためだ。「お父さんが4・3の時に亡くなっても、私は遺族になれませんでした。戸籍の発給を受けてもいないので分からなかったんです」。チョンさんが話した。数十年の歳月が流れ、お母さんが養子をとるために戸籍を作ったが、法的手続きが難しく依然としてチョンさんは伯父の娘のまま残っている。「だから情けないんですが、私は本当にお父さんの娘なのに、今公園にこうして来ても遺族の扱いを受けられないんですから、本当にあきれてしまいます」

 チョンさんの息子のヤン・シヨン氏(47)は、3年前に済州4・3遺族会事務局長になり、活動の中で我が家の4・3の経緯を確認しつつある。ヤン局長は「お母さんがおじいさんの子供だということを立証するために、おばあさんとお母さんの遺伝子検査をできるようにしなければならないのに、未だできていなくて本当に申し訳なく思っています」と話した。

 「『お父さん』と一度呼んでみたいし、顔も一度見たいです。それが願いです。そう思いながらも、ひょっとしてどこかで生きているのではと思ったりもします」。チョンさんが話した。娘の話を聴いていたおばあさんが、ぼそっと話した。「毎日のように考えます。生きているのなら、仕事でもして一緒に通ったりもできるのに、ああ死んでしまうとは」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/875913.html韓国語原文入力:2018-12-27 11:11
訳J.S

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