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牛追いに出かけて砲弾の破片に当たった12歳の少女…「今も死の恐怖が」

登録:2018-12-20 21:34 修正:2018-12-22 14:51
済州4・3 椿に尋ねる 2部(10) 
4・3の後遺障害者キム・スンヘさん 1948年の“あの日” 
12歳の時に受けた爆弾の破片 
48年間、体内に抱えて生きる 
農作業をしていた上の兄さんは 
軍人に連行され銃殺 
一緒に連行された下の兄さんは 
祖母の哀願のおかげで帰宅
キム・スンヘさんの右の太ももには、12歳の時に砲弾の破片に当たった深い傷跡が残っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 キム・スンヘさん(82・済州市(チェジュシ)ヨン洞)は48年間、砲弾の破片2個を体内に抱えて生きている4・3後遺障害者だ。キムさんの右太ももと背中には、くっきり残る深い傷跡がある。70年の歳月が流れ、傷は癒えたがくっきり残った傷跡は“あの日”の苦痛を訴えている。

 今月17日午後、キムさんとともに彼女が暮らしていた当時の済州邑吾羅(オラ)2区のソックリンジルを訪れた。都市開発などであの日の面影はなかったが、記憶は鮮明だった。路肩に立ったキムさんが、杖を持ってあちこちを指し示しながら記憶を解きほぐした。

済州4・3後遺障害者のキム・スンヘさんが、12歳の時に砲弾が落ちた大きな岩があった場所を指して当時の状況を説明している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

牛追いに出かけて砲弾の破片に当たった12歳の少女

 1947年11月上旬、日が暮れるとすぐに弟(キム・サンソク・80)と一緒に畑に放していた牛を追いに家の西側の畑に行った。キムさんの家族は牛を5頭を飼っていた。キムさんは「弟に下へ行って道を塞がせ、自分は上へ行って牛を追うと言って牛がいる畑に向かった時だった」と話した。そこへ道の下の方から青年二人があたふたと駆け付ける姿が見えた。キムさんは心の中で「駆けっこをしているようだ」と思ったそのとき、何か「シュィシュィ」と飛んでくる音が聞こえた。正体不明の物体が「ブスブスッ」と体に当たり、そこで記憶が途切れた。この日は、討伐隊がヨン洞里(現在の新済州)に火を放った日だった。9連隊の軍人たちが、トリョンモル(現在の新済州入口交差点)から直線距離で1キロ余り離れたところにいた青年たちを発見し落とした砲弾が、道路脇の大きな岩に落ち、その破片がキムさんの体にめりこんだ。当時、キムさんは12歳だった。2歳年下の弟(キム・ムンソク)が家に走って行きこの事実を知らせたが、恐怖にかられた兄たちは家から外に出て来れなかった。隣の住民が畑に行って来て「このうちの娘が道端で死んでいた」と家に伝えた。

済州4・3後遺障害者のキム・スンヘさんが、12歳だった1948年11月に砲弾の破片に当たって這って行き、もたれて座った所を指している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 気を失ったが、しばらくして意識が戻ったキムさんは、道の西側の畑の排水路に這って行き、もたれて座った。ゴムひもの入ったもんぺに触れてみると、ズボンの右裾が血だらけだった。背中がひやりとして手で触ると、指先が中にめり込んだ。その時、初めて何かに当たったことが分かった。砲弾の破片が12歳の少女の右太ももと背中に食い込んでいた。

 暗くなると上の兄さん(キム・トゥソク・当時24)が、妹を探しに出た。上の兄は駆け付けると「痛いのはどこだ」と尋ね、キムさんは言った。「どこが痛いかわかりません。脚は血だらけで、背中からも血があふれています」。上の兄さんは泣きながら妹を背負い家に走った。午後7~8時頃のことだった。

 娘を見た母親は「目が見えなくて一人娘に頼って生きているのに、死んでしまったらどうすればいいのか」と身もだえした。当時、母の目は失明に近い状態だった。父親の友人2人が、木の枝とかますで担架を作り、キムさんを歩いて1時間ほどかかる済州道立医院に運んだ。母も担架を担いで夜道を歩いた。吾羅里を過ぎて、城郭を警備していた軍人たちに拝むように頼んで通過した。父親と兄は、軍人に捕まるのが怖くて、道に出ようとしなかった。済州道立医院の門が閉まっていたので、近隣の十字医院を訪ねて翌日に手術を受けた。完治はできなかったけれど、21日間そこにいて父と兄のために家に戻った。

キム・スンヘさんが4・3時の経験を話している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

祖父の誕生日に連行された上の兄が犠牲に

 16日は上の兄の70回目の法事だった。上の兄は、ヨン洞に家を用意して結婚の日取りも決まっていたが、“あの日”麦の種まきに出て行ったきり帰ってこなかった。

 1948年12月11日は祖父の誕生日だった。この日の朝、祖父は家族たちと一緒に“誕生祝いのご飯”を食べた後、上の兄と下の兄(キム・イルソク・当時17)に麦の種まきをさせた。家の下側に“チュグルワッ”という畑があった。その時ちょうど銃声が聞こえ、軍人たちが村に押し寄せてきた。彼らはヨン洞から吾羅側に走ってゆく“暴徒”2人を見たと言った。軍人たちは、麦の種まきをしに行って帰宅する兄を発見すると、家の横の畑に引き立てた。そして「暴徒を捕まえたので全員表に出て見ろ」と言い、住民たちを呼び集めた。父と母も現場にいたが、前に出て行けなかった。キムさんは「息子だと言えば、家族全員が殺されると思い、父は何も言えなかった」と話した。軍人たちは空砲を撃って「暴徒かどうか、正直に言え」と急き立てた。

 「上の兄さんはやや齢を取っていたので黙っていたが、下の兄はまだ幼くて、ひどく震えながら『おばあちゃん、助けて』と言って泣いて暴れていた。それでもパンパンと銃を撃ち、暴徒は殺すと言いながら兄弟を連行していきました。お父さんは、青ざめた顔で見ているばかりで、自分の息子だとは言えませんでした」。

キム・スンヘさんの右の太ももには、12歳の時に砲弾の破片に当たった深い傷跡が残っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

祖母の絶叫「暴徒なんかじゃありません」

 祖母が孫の手を後手に握って、連行していく軍人たちを追いかけて行き、「暴徒なんかじゃありません。私が育てている孫です。麦の種まきに行った帰りに(あなた方が)捕まえたんです」と食い下がった。ヨン洞に行った軍人たちは、ヨンミ村に入ったところで、祖母に下の兄を帰してやるから追いかけてこないでくれと言った。祖母は下の兄だけを連れて家に帰ってきた。「上の孫は連れて行くが、これ1人だけは助けてやると言うので連れて来た。帰らなければ2人とも殺してしまうというので、しかたなく連れてきた」半分魂が抜けた状態だった祖母は、少しして「上の孫を連れて行ったところに行ってみなければならない」と言って再び出かけていった。

 上の兄が連行されて行ったところは、ヨン洞の公会堂のそばのサジャンバッだった。祖母が着いた時には、上の兄はすでに亡くなった後だった。祖母は、チマ(スカート)を脱いで、孫の顔にかけて、地面に転がったり立ったりを繰り返した。祖母はまともな精神状態ではなかった。家に帰ってからも、しばらく床を這いながら泣き叫んでいた。「殺した。銃で撃って殺した。どうすればいい?」。キムさんは「祖母は今にも死にそうに悲しんでいた」と話した。

 雪が降りしきる寒い日だった。上の兄さんを連行していった軍人たちは、公会堂でも住民たちを呼び集めたという。上の兄さんは当時あごにコブができていて、くつわをはめるように白い布切れで顔を括っていた。軍人が、日本軍が使っていた革の腰ベルトで上の兄さんの腕を後手にして首と一緒に縛ると、顔が真っ黒に変わり息をすることもできなかったという。軍人たちに蹴られては倒れることを何回も繰り返し、上の兄さんが動かなくなると銃で撃ったと言った。祖母は、ヨン洞村(ヨンドンマウル)の住民たちからこの話を聞いた。後日、キムさんの夫になったヤン・チブ(故人)もこの日の目撃者の1人だった。キムさんの舅も4・3の時に木浦(モクポ)の刑務所で犠牲になった。

 軍人たちが撤収すると、町内の住民たちが上の兄の遺体を家の横の空いていた畑に運んできて、チュグルワッに安置した。下の兄さんたちに背負われて山の中に避難していた末の弟(キム・ムンソク・当時7)も、牛に踏まれて翌年亡くなった。

キム・スンヘさん=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

48年ぶりに肺から砲弾の破片を除去「生きようと思ったから生きられました」

 キムさんは、23歳の時に夫に出会いヨン洞に嫁に来るまでは、痛みを感じなかった。4・3が終わり、農作業ができなくなると炭焼きをして市内に売りに行った。背負子(しょいこ)一杯の炭を売れば、大麦一升になった。それを臼で挽いて、ごった煮を作った。夫とは働きずくめで暮らした。しかし、息子と娘を6人産んでから、原因不明の胸の痛みが始まった。眠れない日が多くなった。

 病院に行っても風邪の症状だと言って、風邪薬の処方だけだったので、きっとそうなのだろうと思っていた。薬を飲めば痛みは収まったが、薬効が切れればまた痛くなった。治病のお祓いも何度かしたが、効果はなかった。1994年に済州市内の病院でレントゲンを撮ってみると、肺に異物が見つかった。病院では癌だろうと言った。絶望的な思いで他の病院を訪れた。「癌ではない」という診断結果が出た。かすかな希望を抱いてソウルのある大学病院に行った。診察した医者が背中の傷について尋ねた。キムさんは「12歳の時、砲弾の破片に当たったことがある」と答えた。砲弾の破片だと結論を下した医師が手術をした。1995年10月だった。肺に刺さっていた親指大の破片2個を取り出した。医師は「どうして48年間も破片を体内に抱えていたのか」と言った。

 幼時の恐怖は生涯キムさんに付いて回った。キムさんは「夫が外出から帰ってくる度に驚いて飛び上がっていた。人の気配をさせながら帰ってきてくれと言うほどだった。恐怖をずっと抱いて生きてきた」と話した。

 「あの事態に私は死ぬとばかり思いました。こんな風に生きられるとは思ってもみませんでした。人は、生きようとすれば案外丈夫なんです。生きようと思ったから生きられました」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/875125.html韓国語原文入力:2018-12-20 11:50
訳J.S

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