数日前、私は次のようなニュースを聞いてびっくりした。先月22日に(韓国の)全国歴史団体協議会が「共に民主党」の中央選挙対策委員会の職能本部と政策協約式を行ったという。一見すると驚くべきことでもなさそうに見えるかもしれない。「歴史団体協議会」のような名称はやや中立的に見えるためだ。だが、その協議会の所属団体の一つ一つを調べると、彼らは大概が歴史研究者というよりは研究者たちを苦しめながら歴史の事実と関係のない「代案的過去」を構築してきた人々だ。この協議会の所属団体の中には、例えばここ数年間「全羅道千年史」という大規模な歴史書の編著者たちを「植民史観の所有者」と攻撃してきた人々がいる。その理由は、いわゆる「任那日本府」という日本植民地主義の学説の根拠を提供した「日本書紀」(720年)に登場するいくつかの地名を本書で引用したからだ。
歴史専攻者なら、こうした非難には根拠がないことがすぐに分かるだろう。日本書紀の編纂者たちの皇国史観が、日帝の官学者たちによって捏造された任那日本府説の背景になったのは事実だが、だからといって日本書紀が価値のない本では決してない。歴史団体協議会の所属団体が問題視した地名である「己汶国」(全羅北道南原と推定)や「伴跛国」(慶尚北道高霊郡ないし全羅北道長水郡と推定)が登場する日本書紀の記事は、百済系列の史料に基づいたものと解釈される。すなわち、たとえ編纂者によって多少潤色はされただろうが、そこに出てくる地名や事実が参考になることは通説だ。さらに、若干異なる漢字で表記された叛波は中国の史料である「梁職貢圖」(6世紀初め)にも登場し、蟾津江(ソムジンガン)と解釈される基汶河はまた別の中国資料である「翰苑」(660年)にも出てくる。すなわち、全羅道千年史の編著者の日本書紀活用は世界史学界で通用する範囲内で行われただけであり、任那日本府説などと何の関係もなかった。それなら、全羅道千年史の編著者たちはなぜ数年間、この「在野史学」団体の攻撃に苦しまなければならなかったのか。
問題は、すでに日本の学者たちさえも大半が廃棄処分した任那日本府説でもなく、すでに1960~70年代に韓国史学界が克服した植民史観でもない。問題は「在野」ないし「民族史観」の団体が持っている根本的な朝鮮半島の歴史像だ。この歴史像は歴史の事実とも無関係だが、韓国がいま目指すべき方向とも正面から背馳されるということだ。
全羅道千年史が責められた根拠の一つは、まさにその本の編著者たちが言及した栄山江(ヨンサンガン)流域の長鼓墳(前方後円墳)のような一部遺跡と、そこから発掘された出土品が日本国内の古墳やそこから出土した考古学的資料と類似しているという事実を言及したためだ。実際、韓国の歴史教科書でも取り上げられているように、古代に朝鮮半島出身の渡来人が日本列島に進出していたら、こんにちの国民国家のような国境線とビザ手続きがなかった古代世界では、日本列島の住民の朝鮮半島への移住も当然不可能ではなかっただろう。ところが、常に交じりあって行われてきた交流と混種化の歴史的事実は、「単一民族」神話に慣れている人々には非常に不都合だったのだ。彼らが望む歴史像とは、まさに「ウリ(私たち)」と「他人」が完璧に遮断されている、「ウリ」だけの排他的歴史だ。そのため、彼らのもう一つの攻撃の焦点は、漢の楽浪郡の中心が現在の平壌にあったというなど、漢四郡が一時朝鮮半島の一部の領土にあったという事実に向かっている。茶山・丁若鏞(チョン・ヤギョン)も楽浪郡が平安・黄海道と見ており、数多くの出土品などから見ても間違いない事実だが、他者が「ウリの土地」に住んでいたということを極端な民族主義者たちはどこでも受け入れられずにいる。
彼らは日帝の官学者たちの植民史観に反対する意見だと主張しているが、実際は彼らの史観こそ日帝の自国本位の誇大妄想的な御用史観を受け継いでいるように強く感じられる。日帝の御用史観が作り出した任那日本府などのデマは、大和政権をあたかも「帝国」のように描写し、古代朝鮮半島を一種の「植民地」にしたが、韓国の「在野」「民族」史観を主張する団体もまた古朝鮮をはじめ朝鮮半島の古代国家を広大な領土を治めた「帝国」であるとし、史料とは関係なく叙述する。彼らが望む朝鮮半島の歴史像は、他者との境界線が確実な、富国強兵の「大国」だ。そうして歴史事実が歪曲されるのも問題だが、果たして、これが未来に向けた歴史観と言えるだろうか。
万が一、十分な数の移民者が流入しなければ、こんにちの韓国の総人口は2100年頃になると現在の半分になるだろう。超少子化で人口減少の時代、移民者を受け入れて統合させることは、韓国としては死活がかかった問題だ。このような状況で、ありもしない「古朝鮮大帝国」を無理に想像するよりは、実際に韓国の歴史全般を貫いてきた移住、交流、混合の歴史を事実通り究明し、今日の多民族・多文化社会成立の一つの歴史的モデルとすることの方がはるかに生産的だろう。日本列島出身がたびたび馬韓に移住して暮らしたとすれば、それだけ繁盛した馬韓の小国が移住者にとって魅力があったということであり、それをむしろ誇りに思うのが正しいのではないか。朝鮮半島の史料ではその痕跡も見当たらないが、日本に渡って聖徳太子の師匠となった高句麗の僧侶、慧慈(えじ)や、日本の仏画の先駆者となった曇徴(どんちょう、579~631)に対する記憶を含んだ日本書紀を、むしろ朝鮮半島の過去を明らかにできる貴重な資料として扱う必要があるのではないだろうか。越境する人口と文化が絶対的に重要な時代に、越境の歴史を重視することは未来志向的な態度だ。
票田を調べ票を意識するのが政治家だ。単一民族のような過去の神話にとらわれている一部の有権者にとっては、全国歴史団体協議会のような国粋主義的論理が訴求力を持ちうるため、大統領選挙を控えた時期に民主党は彼らに手を差し伸べた。理解はできるが、それこそ小貪大失(小さなものを貪ることで大きなものを失う)の典型的事例だ。当面の政治的利害得失より未来の多民族社会への道を、先見の明ある経世家たちはまず考慮しなければならない。亜流の帝国主義的欲望と種族的排他主義は、決して私たちの未来ではない。