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討伐軍の銃に撃たれ家族5人を失ったチョン家の長孫…彼が生涯民主党に投票した理由は

登録:2018-12-10 21:33 修正:2018-12-11 07:11
済州4・3 椿に尋ねる 2部(9) 
表善面加時里のチョン・ホンギ氏 
自宅の中庭で家族の虐殺現場を目撃 
銃傷を負った祖父は後遺症で翌年死亡 
武装隊に連れていかれた父親は内地の刑務所で行方不明 
11代宗家の子孫だが 
「学校に通えなかったことが恨」…生涯を農作業
済州道西帰浦市表善面加時里出身のチョン・ホンギ氏が4・3の記憶を解きほぐしている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 1948年11月15日午前7時頃、まだ太陽が昇る前だった。南済州郡(ナムチェジュグン)(現、西帰浦市(ソギポシ))表善面(ピョソンミョン)加時里(カシリ)アンジャ洞のチョン・ホンギ氏(76、済州市道南洞)は、自宅から10メートルほど離れた祖父(チョン・ソンドン)の家にいた。祖父がチョン氏の服を着せている時、遠くで銃声が聞こえた。「はやく服を着なさい。お母さんの家に行ってはやくご飯を食べよう」。祖父が孫をせかした。

 しばらくすると鉄兜をかぶった軍人7人が家の中庭に入って来た。母親(キム・ヨンウ、当時23)が末の弟を出産してから5日目の日だった。祖母(オ・ギギョン)は台所で嫁のためにソバ粉でスジェビ(韓国式のすいとん)を作っていた。銃口を突きつけた軍人は、たいまつでわらぶき屋根に火をつけて、出てこいと脅した。軍人たちが足で蹴り、母親が使っていた大かごが中庭に転がった。

祖母、母親と生まれたばかりの弟、叔母といとこが一緒に犠牲に

 祖父と祖母、生後5日の赤ん坊を抱いた母親、実家に来ていた二番目の叔母といとこ(叔母の娘)、そして6歳だったチョン氏とチョン氏の3歳の弟(チョン・ホンテク・73)の8人は、自宅の中庭で恐怖に震えていた。突然軍人たちの銃口が火を噴いた。チョン氏と弟を除く家族5人が一度に殺された。母親は銃に撃たれ倒れ、抱いていた赤ん坊を離した。チョン氏は末の弟の耳から黒い血が“ドクドク”とあふれるのを見た。チョン氏は「大人たちだけを撃って、自分や弟は幼いので撃たなかったようだ。その時の事はとても鮮明に覚えている」と話した。わらぶき屋根が燃える濃い煙と煙たい臭いがアンジャ洞一帯に広がった。加時里本洞から2キロほど離れたアンジャ洞は、人里離れた中山間の村だ。

済州4・3以後、村が復旧して初めて作られた民保団事務室と当時の里長、派遣所職員および地域の有志。民保団事務室は、現在の加時里事務所の場所にあった。「カスルム誌」より//ハンギョレ新聞社

 加時里が出した村誌『カスルム誌』(1988)は、その日の状況をこう説明している。「大々的な共産軍討伐作戦が加時里で広がった。この日未明から銃声が響き、各地で火柱が上がった。避難できなかった一部の住民が討伐隊によって射殺されたり、焼け死ぬ凄惨な光景が広がり、午後になって銃声は止まったが、燃え上がる火と煙は空を覆い、すさまじい泣き声が全村を覆った。凄惨な地獄を連想させた」

 牧畜を主な産業とする加時里は、済州4・3当時に人命被害が多かった村の一つだ。『カスルム誌』には「死亡374人、失踪12人、家屋363戸が放火で消失し、1200人余りの被災者を出した。家畜の被害は、牛1千頭余り、馬600頭余り、豚370頭余り、鶏2千羽余りに達した」と記されている。この日一日で30人以上が犠牲になった。軍人たちは同年12月22日、表善小学校に収容された加時里住民約160人のうち76人を表善里(ピョソンリ)の「ポドゥルモッ」付近で虐殺した。家族構成員のうち一人でもいなければ「逃避者の家族」と見なして銃を撃った。

祖父は腕に銃弾が当たったが孫二人を抱いて逃避

 軍人たちが撤収した後、血まみれの中庭で祖父がふらつきながら立ち上がった。祖父は左腕から血を流していたが、孫二人を抱いて近くの竹林に避難した。竹林の向こう側の石垣のそばにいた軍人が見えなくなると家に戻った。中庭には祖母、母親と末の弟、叔母と叔母の娘の遺体が乱雑に散らばっていた。「祖父は大量に出血していて寒かったようです。焼けたござの火を消して、それを被って少し眠りました」。チョン氏は「一時避難して身を守った隣人たちは生き残ったが、私たちは赤ん坊がいて避難できずに集まっていて抹殺された。父親(チョン・ヨンイク、当時22)は、幸い銃声を聞いて隠れて身を守り助かった」と話した。

昨年10月、加時里の4・3跡を見て巡る「加時里4・3通り」が開通した=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 この日の惨状を知ってか知らずか、太陽の光は終日暖かかった。日差しが照らすと祖父は孫たちと一緒に、焼けてしまった家の裏の椿の下にもたれて座った。祖父は鶏卵を割って銃弾に撃たれて血が出た左腕に塗った後、クワで切り出したヤナギの枝で縛り付けた。太陽が沈む頃、父親が帰ってきた。父親は家の中庭に入るなり、大声で号泣したが遺体を処理する意欲は起きなかった。避難して身を守った親戚たちも、あたりが暗くなるとすぐに帰ってきた。

 「村に祖父の2番目の兄弟の家があったが、そこは火に焼けず皆がそちらに集まりました。朝から何も食べられず隠れていたのでお腹がすきました。ちょうど祖父が育てていた豚が焼け死んだので、その豚を運んできたことを思い出します」。自宅の中庭で犠牲になった家族の遺体は、その場で臨時に土で覆った。生き残った家族は、真夜中に村から6キロほど離れた南元面(ナムウォンミョン)新興(シンフン)2里の外家(母方の家)に向かった。

 この日は陰暦の10月15日だった。十五夜の月が明るく大地を照らしていた。「下の叔母の夫が私を負ぶって、父親は3歳の弟を負ぶって山道を歩き、新興2里の下の叔母の家を訪ねました。銃が当たって腕をひどく負傷した祖父も一緒に行きました。月が明るい夜でしたが誰も話をしないで歩きました」。

父親を最後に見た日、行かないでくれと言ったけど

 父親は亡くなった家族を仮埋葬するために、新興里とアンジャ洞を行き来した。父親が二回目にアンジャ洞に行った日、チョン氏は父親を頑として離さなかった。「行かないでと泣いて追いかけて行きましたが、それが父親の顔を見た最後でした」。

チョン・ホンギ氏が4・3の経験を話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 アンジャ洞に行った父親は、山から降りてきた武装隊と遭った。武装隊に連れていかれた父親は、後になって帰順したか討伐隊に捕まったものと見られる。チョン氏は、父親の便りをしばらく後になって聞いた。当時の「軍法会議受刑人名簿」などによれば、チョン氏の父親は1949年7月2日、軍法会議で懲役15年を宣告され大邱(テグ)刑務所に行き、1950年1月20日に釜山刑務所に移監された後、消息が途絶えた。行方不明になった父親の名前は、済州市奉蓋洞(ポンゲドン)の済州4・3平和公園内の行方不明者の石碑に刻まれている。実家に一緒に行った祖父は、銃傷の後遺症で翌年の6月25日(陰暦5月29日)に亡くなった。

 チョン氏は、新興2里でも4・3の影響で何回も引越ししながら暮らした。そんな風に3年を暮らしたチョン氏は、9歳の時に加時里に戻った。家の11代目の宗家の子孫だったチョン氏は「親戚たちが会議をして『兄弟を外家にだけ任せて良いか。宗家の子孫だけでも加時里に連れて来なければならない』ということになって、祖父の2番目の兄弟の家に来たが、弟は外家に留まった」と話した。

 加時里に戻ったチョン氏は、加時里本洞の“ソンアン”で暮らした。軍警は、武装隊の襲撃を防ぐために表善面の住民を動員して村を巡回して石垣を積ませた。住民たちはその中で、小さな石垣を取り巻くようにすすきで覆った掘っ立て小屋で集団生活を強いられた。住民たちは、1955年3月になって以前に住んでいた家の跡地に戻ることができた。故郷に帰ったものの、学校に通える状態ではなかった。同じ年頃の子どもたちが学校に通うのを見てうらやましく、自身の境遇がとても恨めしかった。

学校に通えなかったことが悔しい…4・3の時期がくれば胸が騒ぐ

 「15歳の頃から冬になれば山に行って炭焼きや牛の餌やりの仕事をしました。その時から山に行って炭を焼いていましたから。友達が中学校に通う時、私は炭を焼いて戻ってくればすすきでかますを作り、炭を入れて背負えるだけ背負って表善里まで売りに通い、夏になれば畑に通ってばかりいました」。表善里は村から10キロほど離れている。

チョン・ホンギ氏と妻のキム・ヨンジャさん=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 隣にいた妻のキム・ヨンジャさん(77)さんが話に加わった。「頑なに長男としての役割をさせずにいれば、夫は外家で暮らしたはずなのに、学校にも通えなかったから学ぶこともできず生きてきました。学校にでも行っていたら少しは教養もつけたでしょうに。それが一番悔しいことです」。

 チョン氏は20歳の時、キムさん(当時21歳)に会い、アンジャ洞の古い家を修繕して暮らした。キムさんの話が続いた。「宗家の子孫なので祭祀ごと食事をつくるのがとにかく多かった。正月ひと月は名節を含めて3回、8月にも名節を含めて3回、そして毎月祭祀を行って、そのようにしてきました」。

 チョン氏は生涯を“民主党”支持者として生きてきた。政治哲学があったわけではない。単に、民主党が“4・3問題”を解決できると信じたためだ。李明博(イ・ミョンバク)政府時期「4.3委員会廃止」が議論された時は、「人間としてどうしてあんなことができるのか」と怒った。

 「政府が4・3問題を解決すると言っても、その時に亡くなった人たちの恨をすっかり解くことはできないが、100分の1でも補償しなければなりません。何の罪もない人々を殺した以上は補償しなくては」。

 妻のキムさんが「4月3日になれば平和公園に行かなければと胸が騒ぐ。義父の顔も知らないけれど、それでも行ってくれば気持ちが安らぐ」と言うと、チョン氏も「私もそうだ。今でも両親のことをしばしば思い出す」と話した。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/873743.html韓国語原文入力:2018-12-10 14:34
訳J.S

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