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警察特攻隊の拷問で両目の視力が…“強情女”のおかげで村が助かった

登録:2019-01-03 22:58 修正:2019-01-04 10:42
済州4・3 70周年企画、椿に尋ねる 2部(12) 
涯月邑水山里の住民を救った“4・3義人”ヤン・ギョンスクさん 
山に登った住民の名前を言えとの拷問にも「知らない」 
4・3の時に拷問され視力を失い指もよじれた 
二人の弟は行方不明になり誕生日に法事を行う
ヤン・ギョンスクさんが4・3の時に体験したことを涙声で話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「本当の事を言え」と詰問された。1948年12月のある日、涯月面(エウォルミョン)の新厳(シンオム)支署から派遣された警察と特攻隊員が、ヤン・ギョンスクさん(96・当時26)を警察の派遣所として使っているわらぶき家に連行した。水山里(スサンリ)警察派遣所の警察官と警察補助員だった。彼らはヤンさんを小さな箱に上らせた。ヤンさんは、ふところに抱かれて寝ついた5歳の娘(カン・メンス)をそばに寝かせて箱に上がった。特攻隊員がヤンさんの腕を後手に縛り、縄で縛りわらぶきの家の梁から吊した。彼らは箱を蹴飛ばし、腕を後ろ手に縛られたヤンさんのからだが宙に浮いた。

 「家で“会議”をする時、どんなやつらが来ていたのか、正直に言え」、「暴徒らに何を与えたのか」と責め立てながら、あくどい拷問が続いた。宙に吊されたヤンさんの両側から銃口を突きつけ「言わないと死ぬぞ。娘を生かしたかったら正直に言え」と鞭で打ちもした。ヤンさんが気絶すると、手首を縛った縄を解いた。今度はまた別の特攻隊員1人が外に連れ出して、ヤンさんの首に銃を向けながらありとあらゆる脅迫をし、空砲弾を撃ちもした。それでもヤンさんは口を開かなかった。彼らはヤンさんを“強情女”と言いながら解放した。

山に登った住民の名前を言えと拷問…生涯後遺症に苦しんだ

 先月30日、済州市(チェジュシ)涯月邑(エウォルウプ)水山里(スサンリ)で会ったヤンさんは、4・3の話をしながらずっと涙が止まらなかった。横にいた娘のカン・メンスさん(75)は、そんな母親を無念な顔で眺めていた。ヤンさんの両親は「水山里一番の金持ち」だった。カンさんは「村では実家の土地を踏まなければ通えないほどの金持ちだったという。家には母屋、外棟、離れ座敷があって、大きくて村の人々がしょっちゅう遊びに来ていた。当時遊びに来た住民たちがいたが、そのうちの1人が家に人々が集まったと警察に話し、お母さんが捕まったと聞いた」と話した。警察は「人々が山に登る会議をしたのに、なぜ話さないのか」とヤンさんを拷問した。

ヤン・ギョンスクさんが4・3の時に体験したことを話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 討伐隊がしばしば村に入ってくる度に、中山間地域に近い水山里の住民たちは避難しなければならなかった。ヤンさんは、家の中庭に立てかけてあったゴザにくるまって身を隠したり、娘と一緒に漢拏山(ハルラサン)の中腹の洞窟に村の住民たちと一緒に避難し身を守り、何日も食べずに過ごしもした。

 ヤンさんの苦難は、派遣所の拷問で終わりはしなかった。次には警察官が押しかけて来て、家で横になっていたヤンさんの手を後手に縛り、新厳支署に連行した。1949年1月頃のことだ。彼らは「暴徒にコメを送っただろう」、「誰が山にコメを送ったか」として拷問した。派遣所での拷問以上に過酷だった。彼らは向かい合って立ち、ヤンさんに手を出せと言い「正直に言え」と言いながら手の平が千切れて血が流れるまで棒で殴った。手は腫れあがり指は折れた。それでも拷問は止まなかった。その時の怪我で両手の親指のまわりがペコンとへこんでしまった。ヤンさんは「山にあれこれあげたこの女は死ななければならないと言って、手首を完全に捻ってしまいました」と涙まじりに話した。

 「その時が陰暦の師走だった。自分たちも殴り疲れたのか、支署の前の大木に逆さに吊して、足の裏をむやみに殴り、鼻に水を注いだ。そして気を失うと、支署の前に水桶があったが氷が張っていた。警察が氷を割って、気を失った私を掴んでその水桶に押し込んだ。アイゴー、仇のように目が開くんだ。するとまた連れていって、また水拷問して、滅茶苦茶に殴った。その時死んでいたら楽だったはずなのに、なぜか死ねなかった」

1942年1月20日当時、涯月面の神社で帰郷記念に撮った家族写真。夫とヤン・ギョンスクさん、夫の妹、母親と父親だ=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 5日間、毎日飽くことなく拷問が続いた。「正直に言え」という警察の拷問に、ヤンさんは「知りません」、「知らないから話せないんです」と答えた。後ろ手に縛った状態で木に吊され、肩が折れ、手首の骨も飛び出してきた。拷問はヤンさんから視力まで奪った。ヤンさんは「幼い時に村のおばあさんが『ギョンスクは目が良いから、髪にシラミがいるか見てほしい』と言われたのに、その水が目に入ったせいで見えなくなった。水でもきれいな水ならまだ良いが、汚い水が入ったから」と話した。ヤンさんは、人の顔をきちんと識別できないので話声で誰なのかを察する。

 拷問を受ける間、ヤンさんは食事は一食もとれなかった。ヤンさんのお母さんは、泣きじゃくる孫娘(ヤンさんの娘)を負ぶって支署に食事の仕度をして運んだ。娘に食べさせる食事ではなく、拷問する警察に「うちの娘を助けて欲しい」と哀願するためのご飯だった。ヤンさんの前に捕まって収監された別の村の住民たちは銃殺された。「今度は私なんだな」と思いながら過ごしたヤンさんは、そんな風に拷問を受けて解放された。ヤンさんは「お母さんがお金を与えて解放されたようだ。お母さんがいなかったら私は生きてはいられなかっただろう」と、込み上げたように泣いた。

娘のカン・メンスさんが涙まじりに自身の4・3体験を話すお母さんを無念そうな表情で眺めている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

住民たちを救うために、むごい拷問に耐え抜いた

 警察の拷問にもヤンさんは口を開かなかった。山に身を避けて守ったり、コメや品物を山の上に送った人々の名前を言えとの警察の拷問にも口を堅く閉ざした。言えば村の人々が皆殺されるかもしれないからだ。

 「支署で山に登った人の名前を言えという時、決して言いませんでした。その人たちの名前を全部言って、殺されてしまったら私が生きていて何になりますか。誰が何を言っても自分だけで死のうとしました。私が口を割ったら、多くの人が死んだでしょう。ずっと「知りません」と答えました。その名前を全部言ったら、水山里はなくなっていたでしょう」

 ヤンさんが拷問を受けても堅く口を閉ざしたおかげで、村の住民たちは助かった。幼い時からお母さんに4・3の話を聞いて育った娘のカンさんは「3年前でも村のおじいさんが私を見るたびに『あんたのお母さんのおかげで生きられた』と言われた。お母さんが一人だけ助かろうと名前をすべて話していたら、村中がほとんど喪家になるところだったという」と付け加えた。

 ヤンさんは「家に戻ってくると村の人たちが訪ねてきて『名前を言わないでくれてありがとう』と言った」と話した。村の住民たちが石垣を積む時も、出て来なくていいから健康管理をするように言われた。しかし、ヤンさんはその後生涯拷問の後遺症に苦しんでいる。

1945年、東京の中央大学商業学校に通っていた当時のヤンさんの弟ヤン・チャンヒ氏(左)。ヤン氏は1948年10月に行方不明になった=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

前途有望だった二人の弟は行方不明に

 1948年9月27日は叔父の法事であり、下の弟が連行された日だ。警察が村に派遣されて歩き回ると、ヤンさんのお母さんは暗くなる前に早々に法事を終わらせようとし、日が沈む頃に法事を終えた。ちょうどその瞬間、警察が押しかけて来て下の弟(ヤン・チャンボム・当時20)を捕まえて行った。弟はその後は帰って来なかった。下貴(ハグィ)中学院に通っていた下の弟を、警察が下貴に連れて行き拷問したといううわさだけを聞いた。5日ほど過ぎた10月の初め、弟の噂を聞いた上の弟(ヤン・チャンヒ・当時23)が家に帰ってくると友達の家に行ってくると言って出て行ったが、その後音信が途絶えた。4・3は、二人の弟を連れていった。ヤンさんのお母さんは、二人の息子を失い、娘が拷問された後、鬱火病を病み55歳で亡くなった。

 ヤンさんの二人の弟は、日帝強制占領期間に近隣の村に留学に行き、部屋を借りて暮らしながら小学校に通った。ヤンさんは、お母さんと一緒にコメを担いでいき、弟の部屋を訪ねて食事の世話をしたりした。畑を売って勉強させた上の弟は、東京とソウルに留学したインテリだった。解放当時には水山里の青年たちを集めてハングルを教えもした。

 「弟のことを思うと、横になっても涙が出る、弟が一人でも生きていたらよかったのに、私が無事にこんなに生きてしまって」。ヤンさんはまた泣いた。ヤンさんは、解放前(太平洋戦争中)に日本で3年暮らした。夫(カン・ジェイク)が東京で職場に通っていたおかげで安定した生活を送った。解放されるとすぐに東京に住んでいたヤン氏夫婦は生後8カ月の娘を抱いて、しばらく故郷に戻ってくるために帰国船に乗り込んだ。故郷に戻ってきた夫が一足先に日本に行った後、航路が途絶えた。ヤンさんはまた夫に会えなくなった。

ヤン・ギョンスクさん=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

「4・3は私ばかりに襲ってきた」

 ヤンさんは毎年4月3日には済州4・3平和公園を訪ねる。娘のカンさんは「目もよく見えないお母さんが、公園に行くと行方不明になった弟の碑石がある所へ向かうが、その歩き方の速いことといったら。私も追いつけないほど、碑石まで行くのを見れば本当に速い」と話した。ヤンさんは、昨年4月3日の70周年4・3追悼式では、文在寅(ムン・ジェイン)大統領の夫人キム・ジョンスク女史の隣に座った。今度の4月3日にも4・3平和公園に行くという。

 むごい拷問にもかかわらず、住民たちを救うために口を開かなかった体の小さいヤンさんは“4・3義人”だ。「それが人の生きる世の中ですか。ちょっと間違えば死んでいました。4・3はみんな私に襲ってきて、これほど大変だったと誰が分かるでしょうか」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/876796.html韓国語原文入力:2019-01-03 11:30
訳J.S

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