手で菩提樹の枝を握って力いっぱい引っ張ると、真っ赤に熟した一握りの実が落ちてきた。少年はその実を口の中に入れると、再び茂みの中へ走った。1949年1~2月、雪がたくさん降った漢拏山(ハルラサン)には、菩提樹の樹々に真っ赤な実がたわわに実っていた。雪に覆われた真冬の漢拏山で、腹がへった住民たちにはその実が“生命の糧”だった。少年はあれほど多くの実がなった季節を二度と体験することはなかった。
私の目の前で銃殺された父と祖父と祖母
1948年11月7日午前、ポンチョをかぶった軍人3人が、中山間の村である南済州郡南元面(現、西帰浦市(ソギポシ)南元邑(ナムォンウプ))衣貴里(イグィリ)の11歳の少年コ・ギジョンさん(81)の家に押しかけた。風が吹く寒い日だった。真っ黒い煙が風に乗ってコさんの家に押し寄せた。母屋にいたコさんの家族は、祖父と祖母が暮らす離れに集まり震えていた。祖父(コ・グァンホ・77)と祖母(キム・グァンイル・78)、父(コ・ヨンピョン・47)と母(キム・ヨンハ・43)、二番目の姉(18)と妹が二人いた。「罪人が隠れるものだろう、なぜ隠れる必要があるのか」。祖父は頑強に逃げることを拒否した。父親は重ねて説得した。「それでも退避しないといけません。あそこを見てください。煙が上がって銃声が聞こえるのに、仕方ないでしょう」。それでも効果はなかった。
“GMC”(軍用トラック)に乗って来た9連隊の軍人が、村を回って家々に火をつけ始めた。わらぶき屋根の「焦げた葦」や「古い葦」の焼ける臭いが全村にたちこめた。この日は「軍・警合同作戦」が展開され、午前には水望里(スマンニ)と衣貴里を、午後には漢南里(ハンナムニ)が焼かれた。本格的な焦土化作戦が始まる前だった。一周道路の周辺は警察が、衣貴里などの中山間の村は軍が火をつけた。
家の中庭に押しかけた軍人が「アカども、出て来い」と大声を張り上げた。父親が出て行くなり銃口が火を噴いた。理由も言わなかった。父の次には祖母、祖父の順だった。一度に三人が中庭に倒れた。銃を撃った軍人は、コさん一家が暮らしていたわらぶきの家3軒に火を放った。火は風にあおられ脱穀のために積んであった中庭の陸稲に燃え移った。祖父、祖母のからだにも火がついた。コさんとその家族は、台所でその光景を見ていた。この日、衣貴里の300世帯あまりのうち20世帯あまりを除いてはすべて燃やされた。
祖父・祖母・父が家の中庭で銃殺され
監視を逃れて漢拏山の城板岳付近で避身生活
菩提樹の実で命をつないだその冬…真っ赤な便が出てきた
軍人が帰り銃声が聞こえなくなると、叔父と村の人々が集まってきた。その日の夕方、3人の遺体を収拾して隣の畑に臨時に埋めると、すぐそばの叔母の家に行った。そこで10日あまりを過ごし、衣貴里・水望里・漢南里の住民たちと共に漢拏山側に10キロほど離れたマフニオルムの西側の“チョジンネ”という所に身を隠した。漢拏山側の密林地帯は安全と考えた。コさんは「村の長老たちが一週間も経てば静かになるだろうと言って、その期間だけ隠れていれば良いと言った。私たちも農作物を片付けに通い、銃声が聞こえれば隠れる生活をして身を守った。水車で粟を引いて一週間分の糧食を作り牛の背にのせて行った」と話した。来月に結婚を控えていた二番目の姉も身を隠しについて行った。
隠れ場所が発覚し、住民はちりぢりに
隠れ場所には60~70世帯が集まっていた。それぞれが丈の低い石垣を積み、ススキで覆い日々を耐えた。一週間で終わると思った隠れ家での生活は、いつ終わるとも知れなかった。12月20日頃、隠れ場所が討伐隊に発覚した。小さな村の規模まで大きくなった隠れ場所の住民たちが、食糧が不足するとさつまいもを掘ったり食べ物を取りに村を行き来して、雪の上に足跡が残ってしまったのだ。討伐隊の銃声が聞こえると、すぐに住民たちは散った。挙動が不自由な老弱者と赤ん坊を産んだ妊婦は銃口から逃れられなかった。隠れ場所で亡くなった住民は20人を超えたと推定される。討伐隊は、釜と器を破壊し、食料や石垣の上に乱雑にかぶせられていたススキに火をつけた。母親は朝早く近所で逃避生活をしている祖母に会いに行って軍・警討伐隊に捕まった。チョジンネが燃えた後、コさん一家は祖母と一緒にいた。コさんは「表善(ピョソン)支署に連行された母親は小便をすると言って出てきて、支署の垣根を乗り越えた。そして外に積まれていた垣根も越えて雪道についた足跡に沿って祖母のいる所まで真夜中にたどり着いた」と話した。母親とともに支署に連行された住民30人あまりはほとんどが表善の白い砂浜で銃殺された。
コさんの家と叔父の家族は、隠れ場所近隣の洞窟と茂みの中に隠れて過ごした。一カ所に長く留まることはできず、討伐を避けて移動する日々が繰り返された。水望里や衣貴里まで降りて行き持ってきた腐ったさつまいもを茹でて、それもなくなれば食べずに我慢した。
城板岳(ソンパンアク)まで逃げて身を隠していた家族が討伐隊に捕まる
飢えと寒さに疲れた彼らにとって菩提樹の実は最高の食料だった。コさんは「種までそっくり食べて、大便をすれば赤いのが出てきた。もし菩提樹の実がなかったら、飢えて死ぬ人も大勢出ただろう。その当時、菩提樹の実が大切な食糧だった」と話した。
討伐隊の銃声が聞こえれば、海抜600~800メートルにある日帝強制占領期間に日本軍の兵たん道路だった“鉢巻道路”を越えて、漢拏山の城板岳側に身を隠し降りてきたりもした。コさんは「銃声や人の気配でも感じられれば、反対側に逃げるしかなかった」と話した。母親はその冬に末っ子の妹を背負い隠れ場所を尋ね歩いた。寒さが厳しい時は発覚の危険を押して火を焚きもした。
コさんの家族は、城板岳といくらも離れていないクェペニオルム(海抜792メートル)付近まで行って身を隠した。討伐隊は山中に隠れられるところをなくそうと、手当たり次第に火をつけた。寒さがゆるみ雪が溶ける頃、山頂の方でホイッスルの音が鳴り響いた。朝天面(チョチョンミョン)橋来里(キョレリ)に駐留していた2連隊の2個中隊兵力が城板岳から下方に“ウサギ追い”でもするように討伐作戦を行った。火に焼けた山中で隠れる所を見つけられなかった叔父といとこの姉(当時13)、母親と二番目の姉、妹が討伐隊に捕まった。彼らは橋来里に行って済州市の酒精工場に収容された。コさんと従兄(当時17)は軍人が近づくと反対方向に逃れ、山で会った住民たちと隠れ家生活をつづけた。履物はごちゃごちゃと編んで作ったわらじしかなかった。凍傷にかかった住民たちの足からは膿が流れた。
「11歳で山に登り、12歳で下りてきた…その時期のことを誰が理解しようか」
1949年の春になると、帰順を勧告するビラが飛行機からまかれた。菩提樹の実もない山には食べものがなかった。「帰順したい者は白旗を掲げろ」というビラの指示に従ってコさんと従兄は白い布切れを棒に付けて山の下に下って来た。森の中に隠れて暮らしていて、討伐隊が燃やし視界が開けた野原を見ると、別世界のようだった。
「山から下りて洞窟で一晩寝て、衣貴小学校を経て南元支署に帰順した。軍人が1カ月半程駐留した学校の運動場は、白い牛骨だらけだった。牛は住民たちが畑を耕す際に欠かせない財産だったが、軍人たちがすべて取って食べてしまった。死ぬまいと11歳で登った山を12歳で下りてきた」。コさんの話だ。
帰順したコさんは、収容所に使われていた西帰浦のボタン工場で14日過ごして故郷に戻った。年上の従兄は1カ月さらに過ごした。ボタン工場に関する記憶は強烈だった。「人が住む所ではなかった。数百人が収容されていたようだが、私がいる間にも毎日人が死んでいたようだった。取り調べが厳しくて、取り調べを受けに行ってくれば息も絶え絶えの人がいて、ある人は一緒に取り調べを受けた人々が支えて座らせることもあった」。
軍・警は、衣貴里を巡回し、石垣を積ませ、その中に衣貴里・水望里・漢南里の住民たちを暮らすようにした。酒精工場に収容された母親と二番目の姉、妹は2カ月余りそこで過ごして故郷に戻った。ソンアンで暮らしていた母親は翌年の1950年8月に亡くなり、末の妹はそれから1年も経たずに栄養失調で亡くなった。一緒に行った叔父は、大田(テジョン)刑務所に行った後行方不明になった。ボタン工場から帰ってきたコさんは、ソンアンに暮らし、水望里と漢南里と近隣の新興里(シヌンニ)の石垣積みに動員された。
「めちゃくちゃだった。私の目の前で何も言えずに父親と祖父、祖母が一度に亡くなった。山の中に逃げて身を隠している時に討伐隊が襲撃してきて人々が死んでいったことを思い出せば眠れない。私たちは犬や豚にも劣る扱いを受けた。この頃の若い人々に話しても信じられないだろう。この世でそんなことがどうして起きたのかって」