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17カ月の赤ん坊は、銃弾3発に当たっても遺体の間を這いながら生き残った

登録:2018-11-08 23:51 修正:2018-11-09 16:19
済州4.3 70周年企画 椿に尋ねる 2部(5) 
城山浦虐殺の生存者オ・イングォン氏の生涯史 
 
母のふところに抱かれた17カ月の赤ちゃん、三発の銃弾にも生存 
若き日、彷徨の末に自殺未遂、その後「生きることは自分の運命」 
行方不明の父の遺骨を2014年に済州空港で発掘
済州4・3当時、城山浦(ソンサンポ)虐殺現場の唯一の生存者であるオ・イングォン氏(72)が今月5日、遺跡地を訪れ物思いに耽っている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「タタタタンッ」。城山日出峰(ソンサンイルチュルボン)を一望できる済州(チェジュ)城山浦(ソンサンポ)で人々が倒れた。悲鳴は波の音に埋もれた。赤ちゃんを抱いた母親が砂浜に倒れた。25歳の母親(ヒョン・ジョンセン)の懐から抜け出した赤ちゃんは、血まみれで死体の間を泣きながら這っていた。警察が「赤ん坊を生かしてはおけない」と引き金を引いたが、赤ちゃんは3発の銃弾に当たっても虐殺現場で生き残った。奇跡だった。

 オ・イングォン氏(72・済州市禾北)は、当時生後17カ月だった。1949年2月1日、彼は城山浦虐殺現場の唯一の生存者になった。今月5日、城山浦の「済州4・3良民集団虐殺跡石碑」をオ氏と共に訪れた。城山浦は、4・3当時多くの民間人が軍人と警察の犠牲になった遺跡地だ。秀麗な景色を誇る城山浦は、済州オルレ(小道)1コースのグァンチギ海岸にあり、徒歩旅行客が頻繁に訪れる所だ。石碑に手を載せたオ氏は黙って城山日出峰を眺めていた。

3発の銃弾に当たっても奇蹟のように生き残った

 オ氏は、城山浦から遠くない蘭山里(ナンサルリ)の出身だ。「城山浦では虐殺現場から生き返った子どもとして、誰もが私を知っていました」。彼は「育ててくれた養母と祖母、そして地域のお年寄りから、奇蹟のように生き返った話を詳しく聞いた」と話した。養母は虐殺現場を直接目撃していた。

オ・イングォンさんの母、故ヒョン・ジョンセン氏=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 同じ村に住んでいた母方の祖父は、虐殺の次の日に娘の死体を探しに虐殺地に行った。彼は「祖父は、母親の遺体を見つけ畑に埋めて碑石も立てた。娘を自分の手で埋めなければならなかった祖父の心情は、言葉では表現できなかっただろう」と言い、語尾を濁した。

 オ氏は、両腕と胸の3カ所を銃で負傷した。銃傷が深かった左腕には、今でも深い傷跡が残り、手の甲をちゃんと広げることができない。冬には症状が悪化して、関節を動かすのもつらい。

 「死なない運命だったようです。射撃の実力が低くて弾丸がかすめて行ったのではないかとも思います。何度銃を撃っても死なないので、「こいつは殺してはならない」といって警察官が城山浦警察署の前に暮らしていたおばさん(養母)に『こいつを引き取って育てて、後で親が現れたら返してやれ』と言って任せたというのです」。警察は薬と食べ物を持ってきたという。養母は、オ氏を治療して育てた命の恩人だ。オ氏は中学を卒業するまで養母を「お母さん」と呼んでいた。オ氏を実の息子のように可愛がってくれた養母は、20年ほど前に亡くなった。

生後17カ月で銃で撃たれたオ・イングォン氏の左腕には今も深い傷跡が残っている=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 長男だった父(オ・ミョンオン)は、18歳だった1941年にソウルに勉強に行き、レストランを営む叔父の家で働き、解放の頃に故郷に戻った。祖母から父親は警察官だったという話を聞いたオ氏は、警察に父の在職の有無を問い合わせた。オ氏が受け取った経歴証明書には、父が1946年11月20日、済州監察庁(済州警察庁の前身)第1区警察署(済州警察署の前身)に巡査として入り、翌年3月12日までの100日程度勤務していたことになっていて、3月13日以後は「未詳」と出ている。オ氏は「祖母から父親が当時、城山浦支署に勤めていたという話を聞いた。記録上では勤務地が1区警察署になっているが、城山浦支署で勤めていたことは確実だ」と話した。父親のその後の行方は分からない。祖父は遺体のない息子の「虚墓」(仮墓)を作り碑石を立てて、誕生日に法事を行った。

済州空港遺体発掘で行方不明になった父親の遺骨を確認

 夢の中ででも会いたかった父に奇蹟のように会ったのは、2014年の夏が終わろうとしていた頃だった。オ氏は、4・3当時集団虐殺の埋葬地だった済州空港で遺体発掘がなされた2009年、行方不明者の遺族たちを対象にした遺伝子検査に参加した。2014年のある日、済州4・3平和財団から発掘された遺骨の中に父親の遺骨があったという通知を受けた。「とうてい信じられなかったが、専門家の説明を聞いて理解できました。何といえばいいか分かりません。懐かしい父を見つけたが、心はずたずたに裂けたと言いましょうか…」。彼の声が細く震えた。

オ・イングォン氏が、城山浦の集団虐殺跡の石碑の前で銃弾がかすめた跡が残る右腕を上げて見せた=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「当初は済州4・3平和公園遺骨奉安館に安置すれば、財団でうまく管理してくれるだろうと思いました。でも、子孫たちだっておじいさんのことを知らなければならないと思い、家族の墓地に移しました。遺骨が発掘された後、仮墓はなくして碑石は埋めました」

 オ氏の祖母は、オ氏が5歳だった1951年12月に噂をたよりに捜した結果、孫を見つけて連れて行った。祖父母の下で農作業をして育ったオ氏は、暮らしが厳しく、中学校を終えると勉強を中断せざるをえなかった。オ氏は彷徨した。

 「思春期の時、学校には行きたいが行ける状態ではなく、たくさんさまよいました。18歳の時、これ以上生きたい意欲もなくて、島を飛びだしたくて死ぬつもりで釜山に行きました。世間に対する恨みも強かった時でした。薬局を巡って睡眠薬18錠を集めて龍頭山(ヨンドゥサン)公園で一気に飲みました。目覚めると釜山市立病院の収容所でした」

思春期の自殺未遂、肺結核を乗り越え“勇敢に生きる”

 オ氏は靴もなく裸足で船にこっそりと乗り、済州港まで来て家に連絡した。オ氏は「両親のいる子どもを見るととてもうらやましかった。そんな痛みは経験してみなければ分からない」と言って涙ぐんだ。釜山で自ら命を絶とうとまでしたオ氏は「運命というものは変えられないと感じ、その後はとても勇敢に生きた」と回顧した。

 30歳の時、今の妻キム・ヨンスクさん(65)に会い、済州市に居を移した。やらない仕事はないほどに、どんな仕事でも手当たり次第にした。オ氏は、隣に座った妻を指して「この人がいなかったら、とっくに死んでいただろう」と言いながら、珍しく笑ってみせた。看護師だったキムさんは「夫が肺結核にかかって生死の境を何度も越えた。長男を産んだ時は、媒酌した人が訪ねてきて、これ以上遅くなる前に離婚しろと言ったけど、実母が人は生かさなきゃならないと言った。自分の手で注射して治療した」と振りかえった。

 オ氏は幼い時から体が虚弱だった。周辺では「幼い時に血をたくさん流したからだろう」と言った。オ氏は「成長過程で精神的に途方もないストレスを受けたし、十分に食べることもできなくて重病にかかったようだが、妻が私を生かしてくれた」と話した。

オ・イングォン氏が済州4・3の時に体験したことを話している=ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 虐殺現場から城山日出峰を眺めていたオ氏の表情が暗くなった。「ここに来れば知らぬ間に涙が出てきます。他の人といる時は別だが、今も一人で焼酎を飲むと思い切り泣きます。『胸にしまって生きろ』と言いますが、その時の事を思い出せば涙があふれてしまいます」

 虐殺現場跡の道端には、犠牲者を悼む椿の花のイメージが刻まれている。そのそばに城山邑(ソンサンウプ)遺族会が2012年に立てた案内板がある。「ここ城山浦虐殺現場跡の海岸一帯は、1948年済州4・3事件当時、この地域の罪のない良民が軍人と警察に連れて来られて無惨に虐殺されたところです。母の背中に負われた乳飲み子から80を超した老人に至るまで、銃、剣、竹槍で横死を遂げたところです。父が息子を、息子が両親を、妻が夫を、夫が妻を、乳飲み子が母親を探した泣き叫ぶ声が今も耳に残っています。ここを訪れた人々が追悼の意味で捧げる花びらをこの石に刻み、400の英霊が安らかに永眠されることを祈ります」

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/869336.html韓国語原文入力:2018-11-08 10:01
訳J.S

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