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青年団に拷問された私は十八歳の妊婦だった

登録:2018-11-21 23:08 修正:2018-11-22 07:42
済州4・3 椿に尋ねる 2部(6) 
「姑-嫁-孫」一家三代の4・3受難史 
姑は3人の息子を失い行政のミスで10カ月間の受刑生活 
嫁は妊娠した体で拷問され、収容所で息子を産む 
孫は行方不明の父親の遺骸を探して遺族会活動
済州4・3当時、新婚1年余りで夫を失い、収容所で赤ん坊を産んだムン・スンソンさん//ハンギョレ新聞社

 残暑も終わりかけの初秋だった。1949年9月のある日、18歳の新妻は姑(当時41歳)とともに済州邑(チェジュウプ)の淵味村(ヨンミマウル)公会堂に引きずられて行った。二人を連れて行った大同青年団(大青)の団員は、新妻を公会堂の片側に積み上げた工事用材木の山に押し倒した。彼らは新妻のからだの上に角材2本を載せて、両端を踏んで「亭主はどこへ行った」と追及した。当時新妻は妊娠初期だった。妊娠した嫁の身を案じて姑が涙で訴えた。しかし大青団員は姑の頬を殴りつけ、惨い行為を続けた。

妊婦に加えられた惨い苛酷行為

 今月16日に会った「その日の新妻」ムン・スンソンさん(88・済州市蓮洞)は、当時のことを生々しく覚えていた。一家三代の4・3受難史はその日に始まった。淵味村で生まれたムンさんは17歳だった1947年の暮れ、村から800メートルほど離れたオウヌル村に嫁入りし、そこに暮らしていた。一つ家に姑(コ・ナンヒャン・故人)は母屋に、夫(ソン・テウ・当時19)とムン・スンソンさんは離れに暮らしていた。ソン氏夫婦は農作業をするだけで、他のことは何も知らなかった。

 「明け方でまだ暗かった。東側の畑から銃声が聞こえ、薄赤い炎が上がった。人々が泣く声も聞こえた。姑が離れに飛んで来て、私たちに竹藪に隠れろと言った。家の周辺は竹藪だった。夫はそちらに行って隠れ、私は台所の横の小部屋に隠れた。姑が小部屋は見つからないと言って、そこに隠れろと言った」

済州4・3当時、新婚1年あまりで夫を失い、収容所で赤ん坊を産んだムン・スンソンさんが当時の経験を話している//ハンギョレ新聞社

 しばらくすると大青団員らの声が聞こえた。彼らは家をひっかき散らし、姑に「亭主はどこへ行った」、「山に逃がしたか」と脅した。姑は「日本に行って2年になった。村中の人が知っている」と言うと、大青団員らは「暴徒が何しに日本に行くのか」と言いながら姑を何度も殴った。舅は、4・3が起きる前に息子と嫁の結婚式の服地を買うと言って、日帝強制占領期間に暮らした大阪に行っていて不在だった。家の外に出て行った彼らは、また戻って来て小部屋の戸を開けて、銃であちこちをつついた。捕まったムン・スンソンは、「ごめんなさい、助けてください」と哀願した。彼らは姑とムンさんを淵味公会堂に引きずって行った。そこで妊娠していたムンさんに加えられたひどい拷問は、警官3~4人が来てようやく止まった。

 吾羅洞(オラドン)は、1948年5月に米軍が撮影した「済州島のメーデー」(Mayday on Chejudo)が撮影されたところで、4・3が本格化する前から大小の事件がしばしば起きていた。

米軍が1948年5月に撮影した「済州島のメーデー」の一場面。後方に見えるオルム(小さな山)がムン・スンソンさんが暮らしていたオウヌル村近隣のミンオルム(はげ山)だ//ハンギョレ新聞社

 「うつ伏せにさせられたおばあさんの上に、おじいさんを乗せ這い回らせた」

 そこで目撃した大青団員らの非人間的な行為は、今も忘れることはできない。「その時、公会堂の中庭に入って見た。おばあさんをうつ伏せにさせ、その上におじいさんを馬乗りにさせ、中庭をぐるぐる這って回らせた。それが人間のすることか?」。その日の場面は、当時公会堂に捕らえられて来た住民たちの脳裏に深く刻まれた。

 警察は、ムンさんなど女2人と男2人の手を縛り、第1区警察署(済州警察署)に連行した。警察はムンさんに「どうして来たのか」、「会議を見に行ったり、路上でビラを拾ったことがあるか」と尋ねると、ムンさんは「寝ていたところを捕えられて来た。会議やビラは聞いたことも見たこともない」と答えた。

 警察署に連行されてから5日後に解放され、オウヌルの婚家に戻ったが、恐くて家に留まることはできなかった。しばらくして警察と大青団員らが村に火を放った。1948年12月頃だったと思う。家が燃えると姑とその子供、ムンさんとその夫は、菜園や川辺を転々として、烈雁地山(ヨルアンジサン)に身を隠した。討伐隊が登ってきて、一緒に隠れて過ごした人々が殺されていった。姑は長男(ムン・スンソンの夫)に「私たちを連れていれば、お前まで死ぬ。どこかに行って隠れて生きろ」と言った。夫の顔を見たのはそれが最後だった。後日、夫が1949年10月トラックに載せられ済州飛行場に連行される姿を見たという消息を聞いた。夫は今も行方不明のままだ。若い新妻ムン・スンソンさんは、19歳で未亡人になった。夫と共に過ごした期間は1年あまりだった。

ムン・スンソンさんが姑と一緒に連れて来られた当時の公会堂の場所(現在は淵味村会館)//ハンギョレ新聞社

「お母さんだけで行ってください」…帰順した男たちを裸にして殴打

 漢拏山(ハルラサン)に雪が降った。「討伐隊が包囲した」という声が聞こえ無我夢中で逃げた。姑は嫁に「家族のことは心配するな、お前だけでも生きなければ」と言った。姑は4歳の義理の弟を背負った。6歳の義理の妹は雪の積もった山道をこれ以上歩けないと言って「お母さんだけで行ってください。私はここで寝ています」と言った。ムンさんは身重の体でそう言う義理の妹を背負い、7歳の義理の弟の手を引いて山に登った。討伐隊が近づけば、薮の中にうずくまって危機を逃れた。食べるものがなく幾日も食べていなかったが、恐怖のために空腹も感じられなかった。

 山中で二十日を過ごした。帰順すれば助けるという噂が広がった。姑とムンさんは「殺されるにしても下に降りよう。これ以上は続けられない」として“帰順”した。1949年の1月頃だった。ムンさんたちが最初に行った所は、済州邑西門通りの学校の建物だった。「大青団員らが、男たちを呼び出して服をすべて脱がせ、手を挙げて歩かせながら、棍棒で激しく打った。うめき声が絶えず、殺されると思った。その人々は『降りて来れば助ける』という話を信じて降りてきた人々だった。私たちもあのようにされるかと思って震えていたが、そうはならなかった」。

済州4・3当時「失われた村」の石碑が立てられた済州市吾羅洞のオウヌル村跡//ハンギョレ新聞社

酒精工場の狭い収容室で赤ん坊を産む

 半月あまり学校の建物に監禁された姑とムンさんは、済州市健入洞(コニプトン)の酒精工場に移された。酒精工場は収容所だった。帰順した住民たちは、ここで釈放されたり、他の地方刑務所に移送されたりした。酒精工場では「どのように暮らしていたか」という調査を受けただけで、厳しい取り調べはなかった。しかし、小さな一部屋に数十人、数百人を押し込んだ収容所の環境は劣悪だった。昼は密着して座って過ごし、寝る時も足を伸ばせなかった。

 そんな環境でムン・スンソンは1949年6月6日ソン・スンムンさん(69)を産んだ。真夜中に妊婦が赤ん坊を産んだというのに、部屋にいたほとんどの収容者は知らなかった。「姑が同じ部屋にいた知り合いのおばさんを近くに呼んだ。そのおばさんが、私の腰を“ギュッ”と抱え込むと赤ん坊が出てきた。長く痛がったら同じ部屋の人々はみな目を覚ましただろうに幸いだった」。赤ん坊が生まれると姑は履いていたもんぺを脱いで、妊婦と赤ん坊を包んだ。ミヨックッ(ワカメスープ)どころか、水一杯飲むことも難しかった。門番の男でさえ「どうやって気づかれずに赤ん坊を産めたのか。起きていたのに赤ん坊が生まれたことを知らなかった」と言った。

名前の間違いで行った全州(チョンジュ)刑務所

 酒精工場で収容生活をして1カ月余りが過ぎたころとんでもないことが起きた。同じ年の7月上旬、収容所の関係者が「コ・ナンヒャン」と姑の名前を呼んだ。「はい」と答えて走って行くと、「おばさんは内地に行くことになった」と言われた。姑は驚愕した。「何をしたと言って私を内地に行かせるのか」と訴えたが、効果はなかった。姑は一緒に過ごした6歳の義理の妹と7歳の義理の弟を親戚の家に預けて、4歳の義理の弟を連れて全州刑務所に行った。国家記録院に補完されていた姑、コ・ナンヒャンの軍法会議判決日は7月7日になっていた。

 しばらくして刑務所長が姑を呼びだし「名前の間違いでここに来た。3年刑くらい受けていたら矯正済みで釈放するが、10カ月しか受けていないからここで修養でもして行け」と言って釈放しなかった。姑はそこで4歳の義理の弟をはしかで失った。釈放された姑はムンさんに「名前が間違って連れてこられたと聞いて『六身が奪われた』と茫然自失した」と言ったという。吾羅洞の親戚の家に預けた7歳の義理の弟は、ヨモギをとりに行って近所の川で水浴びをしていて亡くなった。

ソン・スンムン氏//ハンギョレ新聞社

 ムンさんは、姑が内地の刑務所に移された後、酒精工場で産まれたばかりの赤ん坊を抱いて故郷に戻ったが、故郷の家は廃虚になっていた。吾羅洞の母方の叔父の自宅を間借りして暮らした。故郷に戻った姑は、長男と7歳の息子が死んだ事実を知った。次男は市内の親戚の家に住んでいて災難を免れた。息子4人のうちの3人を失った姑とムンさんは懸命に働いた。村から何キロも離れたところで焚き物を集め市内で売った。お金を貯めて畑を買い家を建てた。

父親の遺体を探す息子

 夫との縁は酒精工場で産んだ息子のソン・スンムンさんだった。2007年、済州空港で4・3当時に埋められた遺体の発掘作業が進行された。ソンさんは、もしかして父親の遺骨が見つかるかと気をもんだが、父親はついに発見されなかった。「連座制のためにしっかりした職場に一度も通えなかった」というソンさんだが、一度も父親を恨んだことはない。彼は「父の遺体を探して、見つかれば祀るのが子どもの務め」だと言った。

 「当時の時局を恨んで何になる?そんな世の中がまた来ることのないように、二度とそんな時局が来なくしなければ」。新婚1年で夫を送ったムン・スンソンさんの言葉だ。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/871095.html韓国語原文入力:2018-11-21 07:55
訳J.S

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