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[現地ルポ] 独島から見た光復(解放)70年

登録:2015-08-03 00:11 修正:2015-08-03 08:09
夜明け前、独島に日本の巡視船が接近した
光復(解放)70周年を迎える今年、6月11日慶尚北道鬱陵郡鬱陵邑の独島東島から眺めた西島の後に太陽が沈んでいる=独島/キム・ジョンヒョ記者//ハンギョレ新聞社

 独島(ドクト)の波は荒かった。真っ白い大波が東島の船着き場の向こう側に荒々しくたたきつけている。「今日は船は入れそうもない」と、K2小銃を持ち東南側の海を監視していた警備隊員が話した。いつもどおりの表情と口調だった。 波が荒れれば1週間、2週間閉じ込められることが珍しくない独島の天気を日常的に体験して身についた平常心だろう。

 実際、鬱陵島(ウルルンド)と独島を往来する船はこの日、着岸できずに独島を一周して鬱陵島に戻った。 6月12日、さらに一日、空しく島に留まらなければならなかった。

週2回、独島を一周する日本の巡視船
その度に韓国海洋警察の警備艇は
追い出し対峙で防御

1951年サンフランシスコ条約後
日本は執拗に「領有権主張」

 翌日も厚い雲は明け方に水平線の上に昇る太陽を見せなかった。もしやと思って東の空を見上げた瞬間にも、独島警備隊の2階状況室には緊張した時間が流れていたことを後になって伝え聞いた。午前5時頃、日本の海上保安庁巡視船が独島東側の領海線に向かって接近してきた。 独島東島の頂上98.6メートル地点に設置されたレーダーがそれを捕捉した。 レーダー兵は日本語と英語で船が韓国の領海に接近していることを知らせ、領海線を越えないよう警告した。 当直官は直ちに海洋警察の警備艇5001艦と海軍・空軍部隊に状況を伝えた。 24時間、独島周辺を巡っている海洋警察の警備艇が直ちに日本の巡視船側に移動を始めた。日本巡視船はいつものように、12海里の領海線を越えず反時計回りに独島周辺を一周して鬱陵島と独島の間の公海に抜け出た。日本巡視船は週2回程度、独島に接近する。「その度に海洋警察の警備艇が領海線の内側で押し出し対峙でついて周回する」と、ソン・ジウォン独島駐留警察警備隊地域隊長(警監)が話した。

 日本巡視船の独島接近は長期にわたり執拗に続いている。 1945年、第2次世界大戦敗戦後、米軍布告により日本船舶はしばらく独島海域に接近できなかった。 だが、1951年に韓国を除いて連合国と日本の間にサンフランシスコ講和条約が締結されたことを契機に、日本は独島領有権主張を具体的に実行に移し始めた。 朝鮮戦争の末期である1953年5月からは、本格的に日本の巡視船が独島に出現した。1953~54年、日本は韓国の領土標識を2回除去し、4回も日本領標識を立てた。 韓国もその度にそれを剥ぎ取った。53年7月12日には鬱陵島警察署独島巡回査察班が領海を侵して逃げる日本巡視船に向かって軽機関銃で威嚇射撃も行った(チョン・ビョンジュン『独島1947』)。 朝鮮戦争の一方で、かつての植民強制占領国日本と新生大韓民国との間で独島を巡るもう一つの戦争が起こっていたことになる。

 独島は小さくて寂しげだろうという先入観に反して、すっくと聳え立っていた。鬱陵島から海を船で2時間程度走れば、垂直に聳え立つ西島が先に目に飛び込んでくる。海抜168.5メートルだが、海上に突出しているため一層雄壮だった。 乗客が「ワーッ」という歓声を上げた。西島に対して東島は151メートルの距離で密着している。「国土の高柱大門」(イ・グンベ『独島万歳』)という詩人の描写は的確に見えた。

 日本は大韓帝国の領土のうち最も最初に独島を強制占領した。海の中に聳え立つ独島の軍事的価値に注目したためだ。 1894年、日清戦争で勝利したがロシアの妨害により朝鮮半島から退かなければならなかった日本は、10年後の1904年2月に大韓帝国に再び軍隊を進駐させ、露日戦争を始めた。1905年1月2日には旅順要塞を陥落させ、ロシア極東艦隊(第1太平洋艦隊)に壊滅的打撃を与えた。その直後の1月28日、日本は閣議決定で独島を島根県に属させる。バルト海の基地を出発し東海に向かったロシア最強の第2太平洋艦隊を監視する望楼を独島に立てるためだった。当時、内務省では「現在の局面で韓国の領地と考えられる荒漠たる一介の不毛の岩島を接収すれば、諸外国に日本が韓国併合の野心があるという疑いを持たれる」として反対した。 だが、山座円次郎・日本外務省政務局長は「このような時こそ領土編入を急いでしなければならず、望楼を建設し無線や海底電信を設置するならば敵艦の監視が大きく改善できる」と一蹴した(和田春樹『独島の歴史的意味と解決法』)。

日本“前哨基地”の戦略性・重要性知り
執拗な領有権主張
防衛白書、独島に“赤丸”

韓国戦争の渦中にも
独島巡り韓日衝突の記録も

 独島を我が物とした日本は、220日間にわたり地球の4分の3である2万9000キロメートルの航海に疲れたロシア艦隊を対馬海峡で大破した。さらに逃げるロシア艦船を鬱陵島東南側の独島近隣海域まで追撃して降服させた。 ロシアに勝った日本は、米国が仲裁したポーツマス講和条約で朝鮮半島に対する支配権をロシアから認められることになる。 日本はまもなく乙巳保護条約で大韓帝国を保護国にし、5年後の1910年には朝鮮半島全体を強制併合する。独島を失った大韓帝国は国まで奪われた。第2次大戦の敗戦で朝鮮半島から退いても、最後まで独島領有権だけは放棄しないという日本の欲望が不吉な所以だ。

 独島を日本領として軍事的前哨基地にしなければならないという主張は、44年後に米国によって復活する。 サンフランシスコ講和条約の準備過程で、米国は序盤には独島を韓国領として認定する草案を作成し続けた。だが、1949年11月に駐日米政治顧問室のウィリアム・シーボルド政治顧問が「リアンクール岩礁(独島の西欧名)に対する再考を要請する。これらの島に対する日本の(領有権)主張は有効と見られる。 安保的考慮でそちらに気象およびレーダー基地を想定できる」という意見書を出す。 独島を不安定な韓国より与しやすい日本の領土にして、対ソ連の前哨基地として容易に活用しようという主張だ。これを契機に米国は独島が日本領という側に180度立場を変えてしまう。以後、日本が何度も「米国も独島が日本領土であることを認めた」として、独島の紛争地域化に乗り出すようにさせた背景として評価されている。

 日本の露骨な策動にもかかわらず、独島は堂々と韓国領土として立っている。第一に、韓国が実効的支配の意志を明確にしたためだ。 第二には、日本の「戦後平和憲法体制」が作動したためだ。 1947年に施行された日本の憲法第9条は「国際紛争を解決する手段としては、戦争および武力の行使を永久に放棄する」と規定した。 1953年の独島衝突の時、日本も武力を使わなければならないという主張が日本の中で強く起こった。 だが、当時の外務省条約局長は“憲法禁止事項”として可能性を否認した。

 しかし、この平和憲法体制はひどく揺れ動いている。米中の覇権争いの可能性が浮上する中で、安倍晋三首相の信念により日本は「戦争できる国」に変貌しつつある。米国は浮上する中国を牽制するために日本の再武装を煽り、米日軍事一体化の道を疾走している。 中国もまた、これに対抗して“大国崛起”の中国の夢を見て急速に軍事力を膨張させている。 韓国の唯一の同盟国である米国が米日同盟の拡張版として韓米日三角共助構築に韓国の参加を強く圧迫しているのは、急変する朝鮮半島を巡る情勢の複雑性を倍加している。

 同時に日本の独島領有権主張はますます露骨化している。 7月20日には11年連続で「防衛白書」に「独島は日本の領土」と記載した。 韓中日防空識別区域表示地図には“竹島”に領有権を意味する赤丸をつけた。歴史逆行の中で領土野心は暴走する様相だ。

 その結果が110年ぶりに再び東アジア地政学の“熱点”として独島が浮上する現局面だ。 当初、独島は460万年前に地殻の隙間を突き抜けてマグマが噴出する地質学的熱点の生成物として生まれた。 国家間の力と意志が衝突する熱点の運命が、今一度独島、ひいては朝鮮半島を襲わないとは断定し難い。

 光復(解放)・分断70周年を迎え、「懲ヒ」(ヒ=比の下に必)の意味を“独島”から真っ先に思い起こす。 柳成龍(リュ・ソンニュン)は、壬辰倭乱という残酷な戦乱を体験し、二度と戦乱を繰り返さないために「警戒し慎む記録」という『懲ヒ録』を残した。 光復70周年、旧韓末の荒波の影が再びちらついているという警戒の声が出ている。韓国と日本、米国、ヨーロッパの知識人500人余は7月29日、「世界知識人共同声明」を通じて「東アジアの過去を巡る衝突が、民族主義の衝突につながり領土紛争に拡大している。このような過去への回帰は戦争の危機と安保不安に拡大し、各国の民主主義は後退することになる」と警告した。 韓国が亡国のその時より強く頑丈な国に成長したことは明らかだ。 だが、分断という難題を今も抱えている上に、列強間の争いの破裂音も高まっている。古くからの課題と新たな挑戦が同時に迫っている。

 柳成龍は、変化をあらかじめ読むことも、自強することもできない朝鮮の悲劇を懲ヒした。『懲ヒ録』研究書を書いたソン・ボク延世大名誉教授は「壬辰倭乱の惨い経験をしても“懲ヒ”しない我々に歴史は慈悲深くなかった。自ら強くならなければ統一された未来も私たちのものにはならない」(『柳成龍、国を再び作る時になりました』)と述べた。 私たちはどのように地政学の荒波に勝ち抜くのだろうか? 光復70周年の年に、独島の船着き場で揺れる海を見ながら東アジアの激動を解決する大胆な想像力を問う。 13日午前10時30分、波が少し収まった合間を利用して接岸した鬱陵行き旅客船に乗り込んだ。独島には住民2人と灯台員3人、警備隊員45人、そして無数のカモメが残った。

独島/ソン・ウォンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/702780.html 韓国語原文入力:2015-08-02 19:46
訳J.S(4288字)

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