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[コラム] 金泳三元大統領が信じた夜明けは来たのか

登録:2015-11-23 23:00 修正:2015-11-24 06:08
チョン・ソック編集人 //ハンギョレ新聞社

 人の一生を一言で評価するのは容易でない。 人の生き方自体があまりにも多層的なので、どの側面を見るかにより評価が180度変わることもある。 だが、誰しも生涯を貫く人生の原則と真髄はあるはずだ。

 数日前に逝去した金泳三(キム・ヨンサム)元大統領を考えれば、先ず思い浮かぶ単語は“民主化”だ。 “民主主義”ではなく“民主化”が最初に思い浮かぶのには理由がある。 それは彼が民主主義者として生きたというより、韓国の民主主義が進展する過程(民主化)で非常に核心的な役割をしてきたということを示している。 韓国の未成熟な民主主義が、それさえも窒息する危機に処する度に彼は劇的な反転を通じて民主化のとうとうたる流れを絶やさず続かせた。

 永遠と思われた維新独裁政権を終息させるのに決定的な役割を果たしたのも彼だった。 彼は絶対的な力を振り回し極に達した維新政権に正面から対抗した。 その報復として1979年10月に国会議員職を剥奪されると、釜山・馬山(マサン)で大規模な反政府デモが起きた。 これを巡る維新政権内部の葛藤により政権は1カ月も経たずに終末をむかえた。

 維新独裁の終末後、キラリと輝いた韓国の民主主義は、5・18光州(クァンジュ)虐殺を通じて政権を掌握した全斗煥(チョン・ドファン)軍事独裁によって再び暗黒の中に沈んだ。 金泳三元大統領は1983年5月18日、民主回復など「民主化5項目」を掲げ命を賭けた23日間の断食を行った。 彼の断食により静まっていた民主化の火が再び蘇り、1987年の6月抗争につながり全斗煥軍事政権は結局降服した。

 3党合党により韓国政治史に拭えない汚点を残したが、彼は1992年大統領に当選したことによって文民時代を開いた。 大統領になった後も軍隊の私的組織であるハナ会の清算、金融実名制実施など民主化の道を歩んた。 金泳三政権を経ることで“民主化”という単語は現実政治でその意味を失った。 困難だった民主化過程が終わり民主主義の時代が開かれたようだった。 彼の名言として広く知られる「鶏の首を折っても夜明けは来る」というその“夜明け”が目の前に近づいたかに見えた。

 果たしてその夜明けは来たのか。 そして韓国の民主主義が明るい日差しを浴びてパッと花を咲かせているだろうか。 その質問を投じることさえきまり悪い程、現在の韓国の現実はあまりにも絶望的だ。 しばし夜明けが来たかと思ったが、再び暗黒の闇の中に後退している。

 李明博(イ・ミョンバク)政権になって民主主義は新しい方式で窒息させられ始めた。 暴圧的な軍事独裁の代わりに、合法の仮面をかぶった検察や警察を動員した文民弾圧が強化され、国と国土は少数の執権勢力の利益追求対象に転落した。 李明博執権から2年も経たず検察の“標的捜査”に苛まれた前職大統領が自殺するという前代未聞の事態が起きた。 金大中(キム・デジュン)元大統領は民主主義の退行に怒り「集会に出るなり、インターネットに文でも書くなり、それもダメなら塀に向かって悪口でも言いなさい」と訴えた。

 朴槿恵(パク・クネ)政権になり「非正常の正常化」という美名の下に民主主義の退行が全方向で広がっている。 公安勢力が大統領府をはじめとする主要権力機関を掌握し、自身の国政方向に反対する人々には“従北”のレッテルを貼って公安政局を作ろうとしている。 最近では激しい反対にもかかわらず歴史教科書の国定化を強行している。 朴大統領が想定する正常な社会とは、彼女の父親が執権した維新独裁体制であるようだ。 そうでなければ現在起きている反民主的で異常な動きを理解することはできない。

 金泳三元大統領は自身がやり終えたと考えた民主化が、自身の政敵だった朴正煕の娘によって踏みにじられるのを見ていたことだろう。 さらには民主主義退行の先頭に立っているのが彼の“政治的子息”を自認する金武星(キム・ムソン)セヌリ党代表だ。 彼が命を賭けて切り拓いた民主主義の夜明けが「救国の決断」と言った3党合党にそのルーツを置く李明博・朴槿恵政権によって再び濃い闇の中に沈んでいる。 まさに歴史のアイロニーだ。 民主化の大きな山だった彼を見送る心情は息苦しい。

チョン・ソック編集人 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/718669.html 韓国語原文入力:2015-11-23 18:50
訳J.S(1874字)

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