22日の金泳三(キム・ヨンサム)元大統領の逝去は、韓国で「両金氏」と呼ばれた大衆政治家の時代がついに歴史の裏に消えたことを意味する。
韓国野党の歴史は、1955年9月に発足した民主党から出発する。民主党には、韓民党と民国党出身の「旧派」と新たに結成に加わった「新派」がいた。金泳三元大統領は旧派、金大中(キム・デジュン)元大統領が新派だった。
2人は1970年に新民党の大統領候補予備選挙で「40代旗手論」で前面に登場して以来、30年間、韓国の政治の主役として活躍した。 1970年代には大統領選挙候補や野党総裁、在野政治家として、身分を変えながら共に反独裁闘争を繰り広げた。2人の闘いは朴正煕(パク・チョンヒ)政権の没落を加速させた。
1980年の新軍部クーデターと全斗煥(チョン・ドゥファン)政権発足後、2人はそれぞれ米国と国内で民主化のために戦った。一人は命をかけたハンストを、もう一人は命をかけた帰国を敢行した。そして1987年6月抗争と大統領直接選挙制度への改憲という結実をもたらした。二度の軍事クーデターで汚点を残した韓国の憲政史が民主化の道に入ることができたのには、両金氏の役割が絶対的だったと評価できる。
2人が長い間、民主化の牽引車の役割を果たせた力の源泉は、何といっても大衆の愛と支持があったからだった。軍エリート出身でクーデターを起こし政権を握った朴正煕と全斗煥、盧泰愚(ノ・テゥ)元大統領とは異なり、2人は国会議員を務め、政党の中で力を付けてきた。権力は選挙によって創出されるという民主主義の基本原理を体得しており、民心の流れに非常に詳しかった。
さらに、それぞれ釜山(プサン)・慶尚南道と湖南(全羅南道と全羅北道)という地域的な基盤もあった。大衆の支持と地域基盤という政治的資産は、2人をそれぞれ1992年と1997年に大統領の座に押し上げた。
しかし、「両金時代」は、光が煌びやかだっただけに、漆黒の影を落とした。独裁権力と闘いながら、両金氏は少しずつ独裁権力に似て行った。2人は公認と政治資金を片手で操る“帝王的総裁”だった。大統領になってからも、政権与党総裁を務め、公認と結党に介入した。
牽制されない絶対権力からは必ず綻びが出る。2人とも、任期末に子息らが拘束される場面を見守らなければならなかった。支持率は急落し、自分が作った政党からも離党を余儀なくされた。
両金時代は、金大中元大統領が退任した2003年2月24日、事実上終わったと言える。金泳三元大統領は、そのずっと前に、すでに政治的な影響力を失ったからだ。しかし、両金氏が残した政治的遺産は今まで、韓国の政治に非常に否定的な影響を及ぼしている。
まず、地域間の対立だ。両金氏による1987年の分裂と1990年3党合党で激化した慶尚道と全羅道の地域間対立は、現在に至るまでほとんど解消されていない。選挙のたびに激しい票の偏り現象が生じている。李明博(イ・ミョンバク)政権に続いて朴槿恵(パク・クネ)政権も権力機関長を慶尚道出身が独占している。
第二に、リーダーシップの空白の後遺症だ。帝王的総裁が消えたにもかかわらず、多くの国民が両金時代のリーダーシップとカリスマを大統領に求めている。もちろんこれに対する責任を両金氏に負わせるわけにはいかない。盧武鉉(ノ・ムヒョン)、李明博、朴槿恵など後任者が新しい時代の状況にふさわしい新たなリーダーシップを示せなかったことが問題だろう。
韓国語原文入力: 2015-11-22 21:15