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[私の書斎の中の古典] 知識人たちよ、アマチュアに立ち返れ

登録:2014-06-16 08:55 修正:2014-06-17 06:31
徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大学教授
絵:キム・ビョンホ画伯

エドワード.W.サイード『知識人とは何か』
(大橋洋一訳、平凡社1995年)

 今から1年とすこし前、この連載コラムの第一回で私は、「サイードについて書きたいことは多い。おそらくこの欄で再びとりあげることになるだろう」と述べた。いま、その約束を果たしておこうと思う。

 サイードが2003年9月25日に世を去ったすぐあと、日本のある雑誌の依頼を受けて、私は短い追悼文を寄せた。それは次のように始まる。「エドワード・サイードという人物に、自分はどれほど多くを負っていたのだろう。…いま振り返って、90年代にもし自分がサイードを読まないままだったなら、と空想してみることがある。少なくとも私の精神的彷徨は現在よりもはるかに寄る辺なく、はるかに混沌としたものであったに違いない。」

 ここで、「90年代」と強調しているのには幾つかの理由がある。私的なことからいうと、90年代になって、すでに40歳に近い年齢になっていた私は、それまでまったく予想していなかったことだが、大学の教壇に立つことになった。専門的研究者や教育者としての訓練を受けたこともない私が、大半がマジョリティ(日本国民)である専門家たちの中に投げ込まれたのである。その際に私が念頭に置いたのが、サイードが本書『知識人とは何か』で与えてくれた指針である。彼は本書で、歴史叙述や文学において、支配層の物語(master narrative)に被支配者側の対抗的な物語(counter narrative)を対置させることが、明日の人類の「新しい普遍性」を構築するためにも重要であると強調している。私は、日本社会にあって、支配層の物語に対し、在日朝鮮人というマイノリティの立場から対抗的物語を提示していくことが自らの役割だと肝に銘じた。

 90年代というと、冷戦と東西対立以後の時代である。世界は(社会主義大国であった中国まで含めて)市場経済至上主義に席巻され、それに抵抗する人々は拠点や指針を失って漂流し始めた。昨日まで熱烈な社会主義者だったはずの者たちが一瞬のうちに手のひらを返して国粋主義者やにわか財閥になるのを目の当たりにした。いわゆる先進国でエセ「ポスト・モダニズム」が知的流行(消費物)となり、言論や学術の世界でも相対主義や不可知論が蔓延して、「道徳」、「正義」「真実」などという言葉は、ほとんど冷笑の対象と化してしまった。そんな中で、屈することなく植民地主義を告発し、解放闘争の大義を説き続けていたのがサイードであった。

 彼は死を前にして執筆した「『オリエンタリズム』新版序文」にこう書いている。「わたしは自分が試みていることを『人文主義(ヒューマニズム)』と呼んできた。この言葉を洗練されたポストモダン批評家たちはばかにして退けるが、わたしは頑固に使いつづけてきた。」

 欧米の知識人の多くがすでに失ったか放棄してしまった、この頑固なまでの「人文主義」精神から、私は、「最後の勝利の必然性」のたぐいを説くどんな演説にもまして、大きな励ましを汲み取ってきた。「最後の勝利の必然性」など語りえなくなった時代に、それでも闘い続けるほかない者たちにとって、サイードという存在は大きな励ましだったのだ。

 2001年にいわゆる「9・11事件」が起こった直後、アメリカのテレビ局は事件の報に歓声をあげるパレスチナ民衆の映像を流した。それを見ながら反射的にサイードはどうしているだろう、いま彼なら何を言うだろう、と想った。事件後一週間ほどのうちに、サイードは新聞雑誌を通じて、愛国主義的で好戦的な集団的熱狂に身を任せてはならない、「イスラーム」対「西欧」という単純化された対立構図に陥ってはならない、テロ防止に必要なものは軍事力ではなく「忍耐と教育」への投資である、と説いた(「集団的情熱」)。

 しかし、世界は「戦争」という最も単純で出口のない対立構図へとなだれ込んでしまった。最強の金持ち国アメリカがイギリスや日本など同盟国と一体となって最貧国アフガニスタンに爆弾の雨を降らせた。一般民衆の犠牲が相次ぎ、数十万の難民が生み出された。米大統領ジョージ・W・ブッシュはイラクへの侵攻作戦を声高に唱えた。その理由とされたのは、フセイン政権とアルカイダとの間に強いつながりがある、イラクは大量破壊兵器を隠している、というものだった。イラクという一つの国が徹底的に破壊され、数万ないし数十万の市民の命が奪われた後に、いずれも根拠のない言いがかりだったことが明らかになったが、誰もこの大義なき破壊の責任を問われていない。

 米国政府がイラク進攻計画を強引に推し進め、米国内と世界の世論が追従していた2003年初めのこと、サイードと直接会って対談するチャンスが私に訪れた。日本NHK放送の鎌倉英也ディレクターらが、パレスチナの人権弁護士ラジ・スラーニ、サイード、そして私という3者の鼎談を企画したのである。サイードの多忙と健康状態に配慮して、場所は最初、ニューヨークと計画された。だが、米政府がスラーニにヴィザを発給しなかったので、この計画は流れた。次のチャンスはエジプトだった。サイードはこの年3月にカイロとアレキサンドリアで講演する予定があった。エジプトなら、もちろんたいへんな苦労をしてのことだが、スラーニも駆けつけることができる。だが、この時は私が都合をつけることができなかった。番組はやむなく、スラーニとサイードの対談というかたちになった。その番組の撮影中に米英軍のイラク進攻作戦が始まったのである。それから半年後、サイードはミューヨークで世を去った。サイードとの鼎談が実現しなかった代わりに、彼の死後、ラジ・スラーニが来日し、沖縄で私と対談する番組がつくられた。ラジを仲介者に置いて、間接的にサイードと対話したわけである。

 思えば私は20年以上にわたってサイードの著書に親しんできたが、中でも本書は私にとっての入門書であったといえる。「はじめに」の数頁を読んだだけで、この本の独特な成り立ちの面白さがわかる。本書はイギリスBBC放送ラジオで行った講演の記録である。こうした講演を制作放送したBBCの見識と度量にも感服する。たった1回の断片化された情報番組ではなく、6回の連続講座である。こうでなければ本当の教養など伝わらない。この連続講座(リース講演)は1948年のバートランド・ラッセル以来、イギリスとアメリカ合衆国の錚々たる知識人たちが講師を務めてきた。そこに「まだアラブ世界に暮らす思春期の少年の頃」からこの番組を聴いていたサイードが出演したということ自体、いわば「ポストコロニアル」な事件だと言えよう。案の定、彼の出演は、「パレスチナ人」に貼り付けられた「暴力、狂信、ユダヤ人殺し」といった紋切り型のイメージによる非難を浴びることになった。しかも、サイードは、この講演で「知識人の公的役割を、アウトサイダーであり、『アマチュア』であり、現状の攪乱者である」と主張したのである。

 日本では「知識人」という言葉は長い間ほとんど死語である。大学教授や言論人など、知的職業に携わる者の多くは「知識人」と呼ばれると、「いいえ、私なんか…」と身をよじって否定するのが常だ。それは謙遜な態度ともいえるが、反面、「知識人」としての責任を回避しようとする無責任な自己保身ともいえる。韓国ではどうであろうか? 私の印象をいえば、韓国では「知識人」という言葉だけはまだ生きている。ただし、「私は知識人だ」と胸を張っている人々が、その責任を果たしているかとなると別問題だ。

 サイードは本書で、今日、知識人のありようを脅かすのはアカデミーでもジャーナリズムや出版社の商業主義でもなく、「専門主義(プロフェッショナリズム)」だと断言する。「現在の教育制度では教育レヴェルが高くなればなるほど、そのぶん教育を受ける者は、狭い知の領域に閉じ込められる。」専門分化(specialization)された者は「ただただ従順な存在」になる。「あなた自身の感動とか発見の感覚は、人が知識人となるときには絶対に必要な感覚なのに、専門知識人になると、すべて圧し殺されてしまう。」その結果、「自発性の喪失」がおこる。そういうエセ「知識人」たちが政府や企業の周りに集められる。その複合体を形成する無数の細胞のような個々人は一見すると価値中立的な専門家たちだが、全体としてみると、無慈悲なまでに冷酷に権力行使(しばしば戦争までも!)や利潤追求を行うのである。こうした「軍産学複合体」の問題はすでに1960年代のベトナム戦争時代から指摘されてきたが、ますます悪化して現在に至っていることは、近い過去の福島原発事故と日本の「原子力ムラ」(韓国の「核マフィア」)を見るだけでも明らかだ。

 現在、日本の安倍政権は「戦後レジームからの脱却」を唱えて、平和主義を放棄し戦争をできる国への転換を推し進めている。その際の典型的な手法が「有識者会議」というものだ。大学教授などの肩書をもつ「有識者」、実は安倍政権に近いエセ「知識人」たちに「諮問」し、その「答申」を受けて、一般人からの批判を「素人っぽい」ものとして封じつつ、恣意的な政策決定を行うのである。サイードが批判した「専門家」たちが、遺憾なく活用されている。そこにある思想はシニカルなまでの愚民観である。

 サイードはこうした専門主義に抵抗するために「アマチュアリズム」に立脚すべきだと主張している。「アマチュアリズムとは、利益とか利害に、もしくは狭量な専門的観点に縛られることなく、憂慮とか愛着によって動機づけられる活動のことである。現代の知識人はアマチュアたるべきである。アマチュアというのは社会の中で思考し憂慮する人間のことである。」

 私は日本と韓国の(本人がどう自称するにせよ)「知識人」たちに呼びかけたい。アマチュアにかえれ、そして、世界と人類に対する責任を果たせ、と。

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/642446.html 韓国語原文入力:2014/06/15 21:18
訳J.S(4207字)

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