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[書斎の中の古典] ‘白バラ’を記憶したその多くの日本人はどこへ行ったか

登録:2013-09-25 16:40 修正:2013-09-26 07:08
徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大教授

 数日前からミュンヘンに来ている。ヤン・ヘギュさんの招請により、9月13日に当地のハウス・デア・クンスト(芸術の家)で講演するためだ。ハウス・デア・クンストは1933年に政権をとったヒトラーの指示によって建設された、代表的なナチス様式の建築物である。定礎式はヒトラー列席のもと、1933年10月15日に行われた。ここで、1937年、第一回「大ドイツ芸術展」が開催された。つまりこの美術館はナチス・ドイツの芸術的国威発揚の象徴だった。その美術館で、私が「ディアスポラの生」というテーマで、プリーモ・レーヴィ、エドワード・サイード、そして在日朝鮮人について語るわけである。聴衆はどんな反応を見せるだろうか?

『白バラは散らず ドイツの良心 ショル兄妹』インゲ・ショル著 内垣啓一訳(未来社)ソン・ヨング訳(評壇文化社)

ミュンヘン到着の翌日、私はまず、ミュンヘン大学に向かった。

 この都市には今までも何回か訪れたが、最初は1984年だった。30年近く前のことだ。この都市にあるアルテ・ピナコテーク(古典絵画館)でデューラーやクラナッハの名作を見ること、レーエンバッハ美術館でカンディンスキーを見ることが大きな目的だった。この都市近郊のダッハウにはナチスが最初に建設した強制収容所が博物館として保存されていることは意識していたが、正直に告白すると、その時の私は、そんな場所には行きたくなかった。韓国は光州5・18の記憶も生々しいまま依然として軍政の支配下にあったし、私の兄二人は釈放の見込みもないまま獄中にあった。その息苦しい現実から束の間でも外界の空気を吸いたくてはるばるやって来たのに、わざわざ強制収容所を見に行くなんて…。

 美しく整頓されたミュンヘンの市街を散歩していて、大学らしい建物の前を通りがかった。道路標識を見ると、「Geschwister-Scholl-Platz」とあった。「ショル兄妹広場」という意味である。すぐに、それが白バラ抵抗運動の中心メンバーであったハンスとゾフィーのことだと気づいた。その記憶を長くとどめるために、かれらが学んだミュンヘン大学前の広場をそう名付けたのである。「忘れるな、眼をそむけるな」…行きずりの旅人である私にもそう語りかけているようだった。その夜、ミュンヘン中央駅近くの安ホテルで眠れないまま過ごした私は、翌朝、何かに無理やり引きずられるようにしてダッハウに向かったのである。その後の10数年間で私はアウシュヴィッツをはじめ数々の強制収容所跡を訪ね歩いたが、この時がその始まりだった。

 30年前のその記憶をなぞるように、私はまた、今回のミュンヘン滞在をショル兄妹広場から始めることにしたのである。

 白バラ事件はナチス支配下における事件である。白バラに参加した学生はフランス侵攻や東部戦線に従軍したドイツ陸軍の帰還兵であった。彼らはポーランドのユダヤ人居住地区の状況や東部戦線における惨状を目撃して反戦の決意を固め、スターリングラードにおけるドイツ軍敗退によりドイツの敗北を予感した。彼らは1942年から1943年にかけて6種類のビラを作成し、ひそかに配布した。最初のビラはこう書き出されている。

 「何よりも文化民族にふさわしくないことは、抵抗することもなく、無責任で盲目的な衝動に駆りたてられた専制の徒に「統治」を委ねることである。現状はまさに、誠実なドイツ人はみなみずからの政府を恥じているのではないか?」

 最後のものとなったビラは1943年2月14日と16日夜にミュンヘン市内でまかれたが、まだかなり残っていた。そこで、2月18日午前、ショル兄妹は大学へ行き、まだ閉まっている講義室の前と廊下にビラを置き、最後に残ったビラを持って3階に行き、ゾフィーが吹き抜けにばらまいた。この時彼女はナチス党員である大学用務員に発見され拘束された。兄妹はあらかじめ逮捕を覚悟していたように、すこしも騒がず、その場で静かに拘束された。その後白バラのメンバーはゲシュタポに逮捕され、ショル兄妹のほか、クリストフ・プロープスト、ヴィリー・グラーフ、アレクサンダー・シュモレルの3人の学生、およびクルト・フーバー教授ら5名が処刑された。

最後のビラがまかれた広いホールに入ってみると、そこでは生物学関係の国際学会が開かれていて、学生や若い研究者が活発に行き交っていた。その場所のどこかにゾフィー・ショルを記念する彫刻があるはずなのだが、すぐにはその位置がわからなかった。通りがかった人の良さそうな人物に尋ねると、彼は「自分にはわからない」と申し訳なさそうに英語で答えた。「自分はイギリスから来たから」と。それから数分後、その好人物は人混みを掻き分けて戻って来て、「あっちだ、あっちだ」とわざわざ教えてくれた。彼の指差した一角の壁にゾフィー・ショルの胸像があり、その角を曲がった裏には展示室もあった。彼らはまだ、「忘れるな、眼をそむけるな」と語りかけ続けている。

 『白バラは散らず』は、戦後まで生き延びたショル兄妹の姉インゲが綴った回想記である。ドイツ文学者の内垣啓一(うちがきけいいち)が1953年、偶然ドイツで原書を手にし、帰国後すすんで翻訳したものである。1955年に初版が、1964年に改訂版が刊行された。白バラ抵抗運動について日本では今日まで数多くの文献が刊行されたが、本書がその最初のものである。戦後に日本において、民主主義と平和を志向する若者たちの必読書となった。

 私の手もとにあるのは改訂版第9刷で、1971年刊である。それは私が大学3年生になった年、兄たちが韓国で逮捕・投獄された年だ。当時、私は祖国の獄中にある兄たちやその他無数の政治犯たちを反ナチ抵抗運動に参与して犠牲となったドイツの学生たちに重ねて想像していた。

ショル兄妹とプロープストはローラント・フライスラーが裁判長を務める民族裁判所で裁かれた。それをあえて「裁き」と呼ぶならば。

 ゾフィーは取り調べの後もぐっすり眠り、民族裁判所では参審員に向かって「私たちの頭はきょう落ちますが、あなたがたのも後から続いて落ちますよ」と言った。兄ハンスは傍聴に駆けつけた弟の肩に手を置いて「しっかりしろ、一歩も譲らなかったぞ」と語りかけた。彼らの父は反ヒトラー的な言動を職場の女事務員に密告されて懲役4か月を宣告された人物である。その父は傍聴席から叫んだ。「まだ別の正義があるぞ!」

 ショル兄妹とプロープストに死刑判決が下された。「被告はビラの中で、戦時において武器生産のサボタージュを呼びかけ、わが民族の国家社会主義的生活を打倒し、敗北主義を宣伝し、われらの総統を口汚く罵り、国家の敵に利する行いをし、我々の防衛力を弱めんとした。それゆえに死刑に処せられる。」

3人は即日、斬首された。処刑を前にしてゾフィーは同房の女性にこう語った。

「私は死ぬことなんてなんでもないわ。私たちの行動が何千人もの心を揺すぶり覚ますんですもの。きっと学生の間で反乱が起こるわ。」

 同房の女性は続けてこう回想している。「おおゾフィー、あなたはまだ知らないのだ。人間がどれほど臆病な家畜であるかを。」事実、学生の反乱は起こらなかった。それどころか、3人の処刑3日後、大学講堂に集まった学生中隊は「白バラ」を罵倒する学生指導者の演説に歓声をあげ、ショル兄妹をゲシュタポに引き渡した用務員を賞賛したのである。

日本の自民党は現在、憲法の改定を進めようとしている。その草案骨子は自衛隊を国防軍に改め、国民の基本的人権を抑圧し、外国人の人権を明確に否定する内容である。現行憲法の「拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」という条文から「絶対に」を削除していることが、この改憲案の本質を露骨に物語っている。

徐京植(ソ・ギョンシク)東京経済大教授

 副総理兼財務大臣である麻生太郎は先ごろの講演で、「ナチスの手口」に学んで憲法を改定しようと語った。聴衆席の政治家や財界人たちはゲラゲラと笑ってこの発言を迎えた。この野卑さと軽薄さこそが耐えがたい。これこそがファシズムの温床である。だが、日本社会で麻生発言を追及する声は弱々しい。「きっと、こうだったのだろうな」と私は思う。白バラの学生たちが生きた時代、彼らを「きわみない孤独」へと追いやった空気も、きっとこうだったのだろう。

「いつになったら、いったいいつ国家は、その最高の務めがただ何百万という無名の人たちのわずかな幸福にあることを認めるのであろう? そしていつ国家は、平和へのぜんぜん目立たないが苦労の多い歩みこそ、個人にとってもまた諸民族にとっても戦場での大勝利よりもはるかに偉大であることを見抜くのだろう?」『白バラは散らず』の一節である。ほんとうに、いったいいつ?

https://www.hani.co.kr/arti/culture/book/604090.html 韓国語原文入力:2013/09/22 19:23
(3723字)

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