済州4・3行方不明者家族「70年以上続いたレッテル、一日も早く剥がしてほしい」
済州(チェジュ)4・3当時、島を離れた人たちは戻ってこなかった。済州に残る家族には緋文字のように“アカのレッテル”が貼られた。当時乳児だった70代半ばの子どもたちと夫を探す100歳のおばあさんが立ち上がった。夫や父親、兄弟はどこにいるのかと、国に向かって問いかけている。
済州地裁第2刑事部(チャン・チャンス裁判長)は今年6月8日、内乱罪や国防警備法第32・33条違反(敵に対する救援通信連絡およびスパイ罪)で収監され、行方不明になった14人に対する初審理を行った。4・3行方不明者に対する再審請求人は計349人にのぼる。国内の再審請求訴訟で類例を見ない規模だ。裁判所は再審請求人数が多いため、比較的明確に証言できる請求人を選別して審理を進めることにしたが、まだ具体的な日程が決まっていない。
■4・3行方不明者とは
4・3当時、済州島の住民は中山間の野原に隠れたり、避難生活を送った後、当局の勧告に従い、帰順した。畑仕事の途中で軍警に連行された人もいた。彼らは集団収容所に収容されてから、1948年12月(第1次)と1949年6~7月(第2次)に開かれた軍事裁判(軍法会議)を受け、内陸の刑務所に移送された。しかし、彼らは自分たちの罪名や形量を知らなかった。裁判の存在すら知らなかった人もいる。
国家記録院が発掘した「受刑者名簿」には第1次871人と第2次1659人の計2530人の身元情報と収監場所などが記されている。軍事裁判で死刑を言い渡され刑が執行された384人を除き、彼らは全国の刑務所に散らばって収監され、朝鮮戦争の勃発とともに不純分子とされて多くが虐殺された。また開放された刑務所から抜け出し、行方不明になった人もいた。父親が行方不明になったキム・ピルムンさん(75)は「3歳だった1948年12月、軍事裁判で懲役15年の刑を言い渡され、大邱刑務所に入った後、消息が途絶えたと母親から聞いたことがある」と話した。
■再審請求訴訟の争点
今回の再審請求訴訟では、行方不明になった当事者が死亡したことを前提にしている。このため、請求人と弁護人側は約70年前に行方不明になった人が死亡したか否かを立証しなければならない。氏名や住所が異なる行方不明者の場合は同一人であることも立証する必要がある。再審請求訴訟を担当するムン・ソンユン弁護士は「刑務所によっては収監者を銃殺したという記録が明確に残っている所もあるが、そうでない所もある。再審に先立ち、福江不明者が死亡したかどうかを証明するのがカギ」だと述べた。弁護側は、韓国政府が2003年に発表した「済州4・3事件真相調査報告書」などにより、大田(テジョン)や大邱(テグ)刑務所の受刑者の死亡を立証することは困難ではないとみている。
ムン弁護士は「具体的な資料のない刑務所に対しては、4・3平和公園に行方不明者の墓碑があり、遺族が数十年間にわたり祭祀を行っているほか、これまで消息を伝えてきたことがないという点などを挙げ、立証に力を注ぐ。また、行方不明者の家族が当時、被害を受けることを恐れて、名前や住所を故意に変えた場合もあり、同一人物であることを立証するのは問題ないだろう」と述べた。建国大学法科大学院のイ・ジェスン教授は「4月3日当時、不法に済州道民を連れて行き、国家施設に収監した。彼らが行方不明になったとすれば、これを立証する責任も国にあるのではないか」と指摘した。
■再審手続きはどのほうに進められるか
昨年1月、いわゆる「受刑生存者」たちが起こした再審請求訴訟で無罪判決に等しい「公訴棄却」の判決を受けたのとは異なり、今回の再審請求には当事者たちの不在で配偶者や直系遺族たちが裁判に参加している。行方不明者の死亡が立証された後にようやく再審開始を決定する手続きに入る。問題は当事者がいないため、行方不明者の状況に関する証言には限界があることにある。死亡が裁判所で認められれば、その後は「受刑生存者」に対する再審と同じ手続きを踏むものとみられる。昨年1月、裁判所は4・3受刑者18人が起こした再審請求訴訟で、無罪趣旨の公訴棄却判決を下した。彼らの犯罪事実を具体的に明らかにせず、裁判にかけたため、公訴提起そのものが無効だという趣旨だった。
■解決策は
今回の再審請求訴訟で勝訴すれば、別の行方不明者遺族による再審請求訴訟につながる可能性がある。今年6月に開かれた初審理で、裁判所は弁護人に対し、「4・3特別法の国会処理はどうなっているのか」と尋ねるほどだった。国会立法の必要性を意味するものと解釈される。
共に民主党所属で済州に選挙区を持つオ・ヨンフン議員やウィ・ソンゴン議員、ソン・ジェホ議員は先月27日、犠牲者への補償と軍事裁判の無効化などを盛り込んだ済州4・3特別法改正案を共同発議した。第20代国会で自動的に廃棄された改正案が、今国会で可決されるかどうかに注目が集まっている。済州4・3行方不明者遺族協議会のキム・グァンウ会長は「今回の再審請求訴訟が円滑に行われ、遺族たちの無念を晴らしてほしい」と述べた。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2020-08-07 07:31http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/956827.html 訳H.J
文大統領「済州4・3、その虐殺の現場を一つ残らず明らかにすべき」
文在寅(ムン・ジェイン)大統領は3日、第72周年4・3犠牲者追悼式で「不当に犠牲になった国民に対する救済は国家の存在理由を問う本質的な問題」だとし、国会に4・3特別法改正案の可決を要請した。
文大統領はこの日、済州4・3平和公園で開かれた追悼式で「済州4・3という原点に立ち返り、あの日、あの虐殺の現場で何が捏造され、何が我々を縛りつけ、また何が済州を死に至らしめたのか、一つ一つ明らかにしなければならない」とし「政界と国会に4・3特別法改正に対する特別な関心と支援を呼びかける」と述べた。集団虐殺の遺棄地点の調査と遺体発掘▽虐殺事件の真相究明調査▽犠牲者と遺族に対する賠償や補償▽被害者の名誉回復▽4・3トラウマ治癒センターの設立、などを盛り込んだ4・3特別法改正案は、国会行政安全委員会で止まっている状態で、第20代国会の任期が終われば自動廃棄される状況だ。1947~48年の4・3事件の際、討伐隊は「済州の海岸から5キロ以上離れた地域の通行を禁止し、違反すれば理由のいかんを問わず銃殺に処する」という布告文を発表し、住民を犠牲にした。
文大統領は「遅すぎた正義は拒否された正義」という米国のマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉に触れ、犠牲者と遺族に対する国家レベルでの早急な賠償・補償が実現するよう努力すると語った。そして「法による(被害者に対する)賠償・補償は依然として行われていない」とし「進まぬ足取りに大統領として心が重い。国はまだ最も重要な生存犠牲者と遺族に対して国の道理と責任を果たしていない」と述べた。続いて「被害者と遺族が生存しているうちに、実質的な賠償・補償が実現するよう努力していく」と付け加えた。
文大統領は「4・3の解決は決して政治や理念の問題ではない」とし「命と人権をじゅうりんした誤った過去を清算し、癒していく正義と和解の道だ」と述べた。そして「真実という土台の上で4・3被害者と遺族の痛みを慰め、暮らしと名誉を回復させることは国家の責務」とし「4・3は、より良い世の中を目指す未来世代にとっての、人権と生命、平和と統合の羅針盤となってくれるだろう」と述べた。
文大統領は追悼式後、済州市涯月邑(エウォルウプ)にある英募園(ヨンモウォン)を参拝した。英募園は4・3事件の軍警と民間人の犠牲者の慰霊碑が両方ある所で、済州下貴里(ハグィリ)の住民が募金により独自に作った場所だ。文大統領は「遺族や生存犠牲者と昼食でも共にできれば良いのだが、今選挙を控えた時期なので、またまかり間違えれば誤解もあり得るので、今日は追悼式だけ行って、参拝することで日程を終えようと思う」と述べた。文大統領が済州4・3犠牲者追悼式を訪れたのは2年ぶりだ。4・3は2014年に国家記念日に定められた。追悼式は新型コロナ事態を考慮して簡素に行われた。2年前の追悼式には1万5千人あまりが参加したが、この日の行事は100分の1の150人ほど。出席者の席は屋外に設置され、互いに2メートル以上の距離が取られた。
ソン・ヨンチョル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2020-04-03 10:30http://www.hani.co.kr/arti/politics/bluehouse/935518.html 訳D.K
[インタビュー]「国家暴力の麗順事件被害者たち、恨みを秘めた証言のたびに号泣」
「国家暴力による無念の死、その後遺族が負った傷と苦痛を、歴史に一行でも残さなければならないと思います」
順天大学麗順研究所長のチェ・ヒョンジュ教授(53・国語教育学科)は、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件(麗順事件)71周年を二日後に控えた17日、複雑な心境で口を開いた。麗順研究所は2014年にセンターとしてスタートし、昨年研究所として正式に発足した。彼は所長についてから2年間、麗順抗争の証言を採録して発行する作業を率いている。5月に遺族14人の口述を収録した初の証言集『おれは罪がないから大丈夫だよ』が出た。まずは1000部の非売品として発刊した。さらに、来年初めに発刊する2冊目の証言集を準備している。
昨年から麗水・順天の遺族らと会い 初の証言集『おれは罪がないから大丈夫だよ』 「70年余り強要された『沈黙』、聞くだけでも治癒に」 軍警の遺族、目撃者、公務員なども採録 「事件の実態」に接近…歴史的記録が「重要」 「特別法の制定を急ぎ、国が担うべき」
「麗順抗争はいまだに『反乱』という烙印を押されたままです。公式の歴史もそうですが、国民の視線も同じです。遺族は今まで心の傷を表に出すことができないまま、息を殺して生きてきました。長い間大学の垣根の中で地域住民の苦痛に背を向けてきたのではないか、という自責の念と反省から採録を始めました」
チェ教授は昨年から研究員7人と共に録音と映像、写真などで採録をしている。講義と研究を並行し、遺族130人余りの口述を記録した。これをまとめた報告書を出し、大衆が共感できる内容を選んで2冊目の証言集に入れる予定だ。被害地域があまりにも広く、遺族の証言を採録するだけで4~5年はさらにかかるものと予想される。
「遺族は恨みを秘めた証言をしながら涙を流すのが常で、採録者も一緒に泣くことが多いです。口述を終えた遺族たちは、沈黙を強要されてきた人生の経歴がようやく少しは認められたようだと言って感謝してくれます。そのため、採録は個人史を公式の歴史に編入させる過程であり、遺族の痛みと傷を癒す過程だと思います」
チェ教授は、3歳の時に両親がいずれも虐殺された後に生きのびた歳月があまりに辛酸に満ちていて「戻れといわれたら絶対に戻れない」という遺族のイ・スクチャさん、25歳の父親が妻に「冷えるから早く帰りな。おれは罪がないから大丈夫だよ」という最後の言葉を残して連行されて戻って来なかったという遺族チョ・ソンジャさんの事例を紹介し、「痛みのないストーリーは一つもない」と話した。
「まず麗水と順天の遺族会員を中心に採録中です。今年からは村の里長に紹介してもらい対象を選んでいます。被害者だけでなく、軍人や警察の遺族、目撃者や公務員なども採録し、『事件』の実体に一歩近づこうと思います」
チェ教授は70年以上麗順抗争に理念の束縛がかけられたために証言の採録作業も遅れたとし、焦る思いをのぞかせた。彼は「麗水の地域社会研究所が1990年代後半、順天の全南東部社会研究所が2000年代に入って採録に乗り出した。しかし予算・人材の限界のため中断し、その成果も出版までには至らなかった」と伝えた。
チェ教授は国家レベルの証言採録が必要だとし、このための特別法制定を求めた。同じ国家暴力被害事件である「済州4・3」や「光州5・18」は特別法が制定されたとし、麗水・順天事件の特別法案を先送りしている政界に矛先を向けた。「採録事業は政府が法律的根拠、人材と予算を持って進めなければならないのに(やらないがために)地域の大学や市民団体が乗り出さなければならなくなっている」と吐露した。
「権力者たちはまだ国家の主が国民であることを悟っていないようです。もっと遅くなる前に遺族の涙を拭わなければなりません。遺族も亡くなってしまったら、もう採録も治癒も不可能になりますから」
彼は、政府と国会が目をつむっているために麗順研究所がやらねばならないことが山積みだとも話した。彼は現代史研究を通じて国民の共感を得て、遺族の痛みを治癒する事業に力を注ぐと誓った。すぐには真相解明は難しいとしても、被害者の犠牲と不幸を癒し補償することをこれ以上先送りにはできないと強調した。
19日に71周年を迎えた麗順抗争について、彼は「解放直後、民族的な階級的矛盾が衝突して発生した悲劇。他の事件より重層的な構造と多様な言説が存在する。民衆生存権、外勢干渉、左右衝突、南北統一など朝鮮半島を縛り付けている矛盾が解決される日、『麗順』は抗争や蜂起、統一運動の起源として再評価されるだろう」と述べた。
チェ教授は、全南大学で博士号を取り、2004年から順天大学に在職している。地域研究に焦点を合わせた順天大学智異山圏文化研究院長を務め、現在、全国教授労組の光州全南支部長として活動している。
アン・グァノク記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-10-24 02:04http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/914364.html 訳C.M
[ルポ]70年ぶりに抱きしめた父親の骨箱…済州4・3遺骨の身元確認
白いふろしきに包まれた骨箱を抱きしめた。こらえていた涙がながれ、やがて嗚咽に変わった。「うれしくもあり、悲しくもあり、死なずに生きてきたから、こんなふうに会える日もあるんだね」
コ・ヨンジャさん(79・西帰浦市大静邑)は約70年ぶりに会った父親(コ・ワンヘン)の骨箱を抱いてしばらく号泣した。今はこの世を去った4歳上の姉が、以前嫁ぎ先の無事のため5日間お祓いをしたことがあった。お祓いが終わる頃、姉は4・3の際に連れていかれ、生きているのか、死んだのかも知らない父親の魂を慰めるために、ジルチキ(魂を安らかにあの世に送る儀礼)の日付を決めた。
その夜、一度も姿を現さなかった父親がコ・ヨンジャさんの夢枕に立ち、「服を一着作ってほしい」と頼んだ。姉妹は夢に現れた父親に言われた通り、服を作ってクッをしながら燃やした。30年以上も前のことだ。
22日午前、済州市奉蓋洞(ボンゲドン)の済州4・3平和教育センターで開かれた4・3遺骨の元確認報告会に出席した遺族たちは、あちこちで号泣していた。済州4・3平和財団は、済州空港で発掘された4・3犠牲者の遺骨を対象に昨年の遺伝子鑑識を行い、行方不明の犠牲者12人の身元を確認して、遺族らに報告すると共に、4・3平和公園内の遺骨奉安館に安置した。
10日前、コさんは済州4・3平和財団から一通の電話を受けた。済州空港で発掘された4・3犠牲者の遺骨の中から父親の遺骨を確認したという連絡だった。「雷に打たれたように、驚きました。何度も『本当なのか』と聞き返しました。電話を切って一人で泣き崩れました」
コさんは「姉と私が幼い時、父親が私たちをとても可愛がって、ひと時も手放そうとしなかったことが忘れられない」としながら、涙を流した。コさんの父親は朝鮮戦争直後、予備検束により済州空港で犠牲になった。
1949年軍法会議で死刑を言い渡された父親(ヒョン・チュンゴン)の遺骨が見つかったヒョン・ヨンジャさん(78・西帰浦市上孝洞)は立っていることすら辛い様子だった。討伐隊の放火で家が全焼し、ヒョンさんの家族は近隣の親戚の家に避難した。
ある日の朝、当時7歳だったヒョンさんは父親のひざに座ってご飯を食べていた。誰か訪ねてきて父親を探し、その足で父親は出て行った。それが父親の最後の姿だった。やっとのことで椅子に腰を下ろしたヒョンさんは「アイゴ、お父さん」と何度も呼び、「もう死んでも思い残すことはない」としながら号泣した。
今回、1949年軍法会議で犠牲になった父親(ヤン・ジホン)の遺骨が見つかったヤン・チュンジャさん(75・西歸浦市南元邑)は「半月ほど前、済州4・3平和財団から父親の遺骨を見つけたという電話をもらって、驚いて心臓がバクバクした」と語った。「他の所で暮らなければ長生きできない」という祖母の言い伝えを守り、済州市朝天邑新村小学校で教鞭を取っていた父親は、突然連れていかれて犠牲になった。ヤンさんは法事の度、学校を訪れ、父親の写真を借りる。
ヤンさんは「済州空港で犠牲になった遺族から連絡が来て、遺骨を見つかったから遺伝子検査をした方がいいと言われた。期待せず検査を受けたが、今回(父親の遺骨が)見つかった。本当にありがたく思っている」と涙声で話した。兄(キム・ヨンハ)の遺骨が見つかったキム・ヨンウさん(西帰浦市吐坪洞)は「1950年の予備検束の際、19歳の若さで無念の死を遂げた兄のことを想うと、悔やんでも悔やみきれない。肉親の遺骨もちゃんと供養できず、70年余りの歳月を罪人になったつもりで生きてきた。これまでの無念が少しは晴れたような気がする」と述べた。
ヤン・ジョフン済州4・3平和財団理事長は「遺骨が発掘された済州4・3犠牲者の身元確認率が33%に達する。国防部の身元の確認率は2%にも満たない。済州4・3犠牲者たちの身元確認率は国内で記録すべき成果だ。しかし、北部予備検束の遺族など、依然として遺骨がまだ見つかっていない遺族が多い」と話した。ソン・スンムン済州4・3遺族会長は「70年以上、悔しさと無念、怒りを胸に抱いて生きてきた。政府はこれまで発掘された遺骨の身元を確認できるよう支援してほしい」と訴えた。
済州4・3犠牲者と関連し、済州空港(2007~2009年)で387柱など、2006年から2018年まで計405柱の遺骨が発掘されており、今回確認された12人の犠牲者を含め、遺伝子検査などを通じて身元が確認された犠牲者は133人だ。
ホ・ホジュン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2020-01-22 15:17http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/925397.html 訳H.J
済州・沖縄・台湾が手をむすび島の連帯展示
戦争や虐殺が影を落とす東アジアの3つの島が、平和を語る場が設けられる。
済州、沖縄、台湾という3つの島の連帯を基盤とする東アジア平和芸術プロジェクト組職委員会は、済州4・3平和記念館展示場とポジション・ミンにおいて来る18日から来年1月31日まで『島の唄』と題した展示会を開く。
同組織委が初めて行うこのプロジェクトは、東アジア地域にあった過去の帝国主義による侵略や植民地支配、国家暴力などの暗い歴史を省察し、これを平和の議題に発展させるために企画された芸術プロジェクトだ。今回のテーマ企画展のタイトルは、東アジア3島の連帯らしく、日本のロックバンドTHE BOOMの歌「島唄」から取った。この曲は、グループのボーカルの宮沢和史が沖縄でひめゆり学徒隊の生き残りであるおばあさんに出会い、作詞作曲した歌だ。組織委は、島の傷と痛みを平和のメッセージとして伝えるこの歌のタイトルを、済州や台湾と結ぶ「島の連帯」を通じて東アジアの平和の羽根へと発展させるという意志を明らかにした。
今回の展示会の芸術監督は美術評論家のキム・ジュンギさんが務め、共同キュレーターとしてキム・ジョンヨン、ウダクォ、豊見山和美、アライ=ヒロユキ、岡本有佳が参加した。出品する作家は済州17人と韓国本土11人、沖縄4人、日本本土1人、台湾7人、香港2人、ベトナム2人。
今回の展示会では「表現の不自由展@済州」と「2019麗順(ヨスン)平和芸術祭:指の銃」の済州巡回展の性格を帯びた「指の銃@済州」が同時に開かれる。「表現の不自由展」は、今年あいちトリエンナーレのセクションとして開かれた「表現の不自由展・その後」を済州島に招き、表現の自由に対する日本社会の苦悩と葛藤を共有する巡回展だ。検閲で論議を呼んだ「平和の少女像」にも会える。指の銃展では、今年順天(スンチョン)で開かれた麗順平和芸術祭の作品を展示する。
昨年11月に発足した同組織委は、「芸術活動を通じて東アジア地域の平和を探る人々のネットワークである。戦争の脅威に立ち向かい、反戦と平和のメッセージを込め、相互に共有する芸術活動を行う」という。組織委はまた、「組織委の芸術活動は過去にとどまらず現在と未来に進むだろう。展示場のような制度空間にとどまらず、路上や広場、暮らしの場、闘争の現場へと出てゆくだろう」と付け加えた。彼らは今後、展示会やカンファレンス、定期刊行物発行などの活動を展開する計画だ。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-12-17 15:23http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/921145.html 訳D.K
「在日70年は“4・3への痛恨”胸に秘めて生きてきた抵抗の歳月だった」
「私の日本での“在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」
昨年2月に心不全症で入院した後、体がかなり衰弱したが、詩人の眼光は鋭く、その言葉に聴衆たちは息を殺して耳を傾けた。先月31日、済州西帰浦市(ソグィポシ)済州国際コンベンションセンターで開かれた「第14回済州(チェジュ)フォーラム」の「4・3と境界」のセッションで、「境界は内部と外部の代名詞」という基調講演を行った在日朝鮮人詩人の金時鐘先生(90)に会った。
釜山出身で、母親の故郷済州で“光復”迎える 抗争の発端となった「1947年3・1発砲」に決起 生き延びるため1949年6月日本へ密航 「遺体の惨憺たる姿、腐敗臭が忘れられない」 コリア国際学園で“越境人”を養成 16日、大阪大学で「生誕90周年」記念シンポジウム開かれる
釜山で生まれ、20歳だった1949年6月、日本に渡って今年「在日70年」を迎えた金時鐘氏は、その年月を「抵抗の70年」と呼んだ。大阪を経て奈良県生駒市で暮らしている彼は、詩集『地平線』や『猪飼野詩集』、『光州詩片』、『「在日」のはざまで』、『失くした季節』などを出版し、毎日出版文化賞、大佛次郎賞、高見順賞など、様々な文学賞を受賞した。彼の文学世界は日本人学者の研究対象だ。同日、主題発表を行った京都大学の細見和之教授は、金時鐘氏の表現を「世界文学」として評価した。「金先生は渡日後、日本語を生活言語としている在日の同世代、さらには若い世代にむけて、ふたたび日本語での表現を目指した。そのことによって、日本語をつうじた日本語への“報復”が金時鐘先生にとっての生涯の課題となった」と述べた。
実際に南と北、どこにも属さず生きてきた金時鐘氏は、「境界人」であり、絶えず境界を越える。
「望んだこともない青天の霹靂の“解放”に出会って、自分の感性の泉でもあった、取って置きの言葉の日本語から、私はいきおい隔絶されてしまった者になってしまいました…たしかに私は植民地統治の頸木から70数年前に解放されはしました。これは明白な歴史的事実です。しかし自己の意識の下地を成している日本語にまで、訣別を遂げたわけではありません。それどころか生きる手立てにその日本語を使って、あの日本で暮らしています。当然その日本語は検証されなくてはならない、私の存在証明の目盛りともなるものです」
金時鐘氏が主導して約10年前に設立されたコリア国際学園も、いわゆる「越境人」の育成を建学精神としている。金時鐘氏は「詩を書く私には行き来をさえぎっているものはすべて、立ちはだかっている壁の境(さかい)です。人種差別や地域差別、身障者や女性が享受すべき当然の権利、人間としての尊厳に対する無理解と無関心。その多くが個々人の心の内に根づいて、自らが壁の境界を作り上げてしまっているものです」と述べた。
しかし、彼の今日を作ったのは「済州4・3」だ。4・3抗争に直接関与したことで、生き残るため日本へ密航せざるを得なかったからだ。金時鐘氏は「4・3での境界には様々なイメージがある。海岸村に石垣を巡らせ、外部と遮断したことも境界であり、海岸線から5キロ以上の内陸地域を『敵性地域』に分類したのも、海岸の境界と言える」と述べた。
「4・3犠牲者という時、『犠牲者』という表現は“崇高な死”のような心情を抱かせます。しかし、4・3による死の実情は、崇高さとは程遠いです。心臓が凍りつく恐怖と目を開いたまま死ぬしかなかった人々の果てしない無念、捨てられたり、放置された死体を忘れてはなりません。死んで放置された人ほど醜いものはありません。埋めるため投げ捨てられた80体を超える遺体を、この目で見ました。今でも私の心に刻まれています。あの腐った遺体を触ると、臭いがなかなか消えません。私たちが崇高な心情を語るのに、犠牲者の醜さや怒り、耐え難い死が目の前にあったという事実を、忘れてはなりません」
金時鐘氏は4・3セッションが終わり、最後の挨拶をする際、「罪悪感」について言及した。「4・3の残酷な事態を起こした一人という罪悪感が、心の中深く募っています。そんな私がどうすれば、済州に近づき、再び済州が私の心で蘇るか、考えています」。そして、彼は「4・3に対する誤解を招きかねない話だが」とし、慎重に話を続けた。「(4・3武装蜂起には)時代的、民族的正当性がある。我が国の分断が目の前にあることに耐え切れず、民間人6人が死亡した1947年3・1発砲事件を見過ごせなかったため決起したが、それによる惨憺たる結果に罪悪感を持っている」と語った。
金時鐘氏は「4・3は済州だけの特別な惨劇ではない。第2次世界大戦が終わって、米国との直接関係の中で発生したのだ。これは絶対、動かざる事実だ。冷戦の幕開けとなる初めての事件が4・3だ」と付け加えた。
済州出身の金時鐘氏の母親の命日も4月3日だ。「どうして母の命日まで同じ日になったか、分かりません。私に4・3は70年も経ったが、過ぎ去ったことではありません。“在日”の私は依然として4・3を抱いて背負って生きていかなければならない人です」
金時鐘氏は昨年から日本の藤原書店で『金時鐘コレクション』(全12巻)を発行している。今月16日には、大阪大学大学院文学研究科越境文化研究イニシアティブの主催で、金時鐘氏の生誕90年と渡日70年を記念する「越境する言葉」国際シンポジウムが開かれる。生存している詩人の生誕を記念するシンポジウムが行われるのは異例のことだ。
ホ・ホジュン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2019-06-06 00:02http://www.hani.co.kr/arti/culture/book/896845.html 訳H.J
[ルポ]70余年前に失われた済州の村、さらに50カ所以上あった
済州4・3が72周年をむかえた。毎年椿は決まって咲いたが、変わったことは何もない。4・3受刑人に対する軍事裁判の無効化などを内容とする4・3特別法は、第20代国会で結局通過できなかった。再び選挙の季節、誰が4・3の真相を明らかにし、遺族の痛恨を解くと断言できるだろうか。72年が過ぎても解決されなかった真相究明と失踪者の賠補償問題などを、3回に分けて掲載する。
新済州と旧済州を結ぶ主要道路の済州市蓮北路の吾羅洞(オラドン)境界には、新しく建てられた建物が立ち並んでいる。済州4・3当時、蓮北路を挟んで「オウヌル」と「ヘサニ」という自然村があったが、討伐隊の放火で今はその痕跡すら見当たらない。“失われた村”という標石だけが、ここに村があったという事実を証言している。
済州では、4・3当時に村が焼かれてなくなったり、疎開した住民が後に復帰しなかったために廃虚になった村を“失われた村”と呼ぶ。最近、こういう“失われたマウル”が計134カ所(66カ里)に達することが明らかになった。政府が2003年に出した『済州4・3事件真相調査報告書』に出した84カ所より50カ所も増えており、済州4・3平和財団が2012年5月から村別の被害実態を全数調査した結果だ。
財団が最近発刊した『済州4・3事件追加真相調査報告書1』は、4・3当時に済州島内の12カ邑・面、165カ里について村別、犠牲者類型別、集団虐殺事件などの被害実態が総合的に載せられた。犠牲者数も2003年の1万4028人から追加犠牲者および遺族の申告を受けて2019年には1万4442人に増えた。
毎年必ず4・3追悼式に参加するYさん(75・済州市我羅洞)は、「平和公園に来るたびに、いつも悔しく思うことがある。父と母が婚姻届を出さずに暮らしていて4・3の時に犠牲になったが、父と母の本籍地が違うために位牌奉安室の両親の位牌が互いに離れていて、一緒に祀られずにいる」と話した。4・3当時、結婚、移住、婚姻未申告などの理由で、犠牲者が暮らしていた村と本籍地が異なるケースが多いのに、犠牲者を本籍地基準で分類してきたためだ。そのために財団が出した追加調査報告書では、4・3当時の島内の村の全体的被害実態を把握するために、犠牲者の居住地を基準に村別の被害実態調査を行った。
調査の結果、100人以上が犠牲になった村(里)は、島内165カ所のうち49カ所あることがわかった。特に、30人以上の犠牲者が発生した村に拡大すれば、道内の村の78%に当たる129カ所に達することが明らかになった。報告書の作成を担当したヤン・ジョンシム財団調査研究室長は「10カ所の村のうち8カ所近い村で30人以上が亡くなったという話だ」として「すべての済州島民が被害者という証拠」と話した。当時の行政区域基準で、済州邑老衡里(ノヒョンニ、538人)の犠牲者が最も多く、次いで北村里(プクチョンリ、446人)、加時里(カシリ、421人)、華北里(ファブクリ、361人)、梨湖里(イホリ、355人)、道頭里(トドゥリ、304人)の順であった。邑・面別の犠牲者は、済州邑(4119人)が最も多く、朝天面(チョチョンミョン、1940人)、涯月面(エウォルミョン、1555人)、翰林面(ハンリムミョン、1037人)の順であった。
また「失われた村」134カ所のうち、武装隊の放火によりなくなった3カ所を除く残り131カ所はすべて討伐隊の放火や疎開で廃村になった。大部分の被害は大韓民国の軍警によって発生したのだ。これらの村の世帯数は、通常5~130世帯だった。
ヤン室長は「これまで本籍地別に犠牲者の実態を分類してきたせいで、4・3当時の被害実態がよく見えない面があった。今回の追加真相調査を通じて、済州島全体の村別被害実態がはっきりあらわれたという点で、4・3の真相にさらに一歩近づいたことに意味がある」と話した。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2020-04-02 16:10http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/935311.html 訳J.S
生涯苦痛の中で生きてきた済州4・3事件の被害者たちを「後遺障害者」に認定
昨年、済州4・3追悼式場で全国民の涙を誘った4・3事件のエピソードの主人公、キム・ヨノクさん(79)の祖父母、両親、兄と弟の6人は、1949年1月22日に西帰浦市の正房滝付近で兵士たちに集団虐殺された。最後に引きずられて行った父親が目の前で足で踏まれ、棒で殴られる姿を見た当時8歳のキムさんを誰かが捕まえ、キムさんは石垣に頭をぶつけて気絶した。
孤児になったキムさんは息を吹き返したが、一生鎮痛剤を手放せない体となった。「今も痛みで眠れない日には、目の前で引っ張られていった父の姿が鮮明に思い出される」というキムさんの頭には、赤ちゃんのこぶしほどの大きさの、ぼこっとへこんだ傷がそのまま残っている。
東京都荒川区に住むキム・ジョンアさん(75)は、4・3事件の頃の1948年11月、済州市涯月邑(エウォルウプ)古内里(コネリ)の自宅に侵入した武装隊によって父親と母親が犠牲になった。2歳を過ぎたばかりのキムさんは、腕と胸、耳にひどいけがを負った。当時けがをした跡が全身に残っているキムさんは何度も手術を受けたが、右耳は音が聞こえない。
彼らは済州4・3中央委員会(委員長チョン・セギュン首相)が27日、済州4・3犠牲者および遺族決定案を最終審議して可決した7696人(犠牲者90人、遺族7606人)の一人となった。今回犠牲者に認定された90人のうち、後遺障害者31人と受刑者1人の32人は「生存犠牲者」と確認された。済州4・3特別法には「4・3によって死亡したり行方不明になった人、後遺障害が残ったり受刑者」となった人を犠牲者に含めている。
彼らが犠牲者として認められたのは、済州4・3平和財団調査研究室のチョ・ジョンヒ研究員の役割が大きかった。チョ研究員は、遺族申告のために道庁を訪れたキム・ジョンアさんに、直接相談で後遺障害者申請を勧めた。キム・ヨノクさんも4・3行事の会場で出会い、キムさんの被害調査で数回会って後遺障害者申請を支援した。
今回の生存犠牲者には、軍事裁判を受け刑務所で1年間受刑生活を送ったキム・ジョンチュさん(90、釜山在住)と、当時小学校校長だった父親が犠牲になる場面を目撃したほか、重度の外傷後ストレス障害(PTSD))に苦しんできたソン・ジョンスンさん(90)も含まれている。
後遺障害者や受刑者などが生存犠牲者と認定されれば、地方自治体予算から生活補助費(月70万ウォン、約6万2千円)や医療費などの支援を受けることになる。
今回の済州4・3中央委員会の犠牲者および遺族審議・決定により、2002年11月の初めての犠牲者認定から現在までの認定犠牲者は1万4532人(死亡1万422人、行方不明3631人、後遺障害195人、受刑者284人)、遺族は8万451人となった。
ホ・ホジュン記者 tigera@donga.com
韓国語原文入力:2020-03-30 22:33http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/934810.html 訳C.M
「愛しい兄さん、どうしてまだ帰って来ないのですか?」
「どんな過ちを犯したか知らないけど、まだ帰してくれません」
キム・インフ氏(83)とキム・ジョンヒ氏(80姉妹は3日、済州市奉蓋洞(ボンゲドン)にある済州4・3坪平和公園の「行方不明者墓」中で、兄(キム・ジョンジュン・当時20)の墓石の前でぼんやりと座っていた。チョンヒさんが「まだ兄さんが返って来ない」と言うと、インフさんは「どうやって来るの」としながら、ハンカチで目頭を押さえていた。下貴小学校の教師だった兄は1949年のある日逮捕され、陸地(島嶼以外の朝鮮半島地域)の刑務所へ行った後、朝鮮戦争が勃発し、行方不明になった。姉妹は「不幸な時代のせいで、優秀な兄弟が皆死んだ。子どもたちに勉強を教えただけなのに、死んでしまった」と残念がった。
済州4・371周年追悼式が行われた同日、済州市4・3平和公園の行方不明者墓や刻名碑(名前が刻まれた碑)、位牌奉安所には、遺族たちが集まってきた。4・3で息子を失ったというイ・ソンソンさん(91・済州市翰京面楽泉里)は、早朝、杖をついて家を出てきたと話した。毎年、舅の墓を訪れるヒョン・ユジャさん(83)と義妹イ・スンニョさん(75)は「生きているうちは来るつもりだ。歩ける限りは足を運ぶ」と語った。
刻名碑の前では犠牲者の名前を探す遺族たちの姿が見られた。4・3当時亡くなった父親について、ほとんど記憶がなくても、会いたい気持ちは変わらない。イ・ミファさん(72)は「平和公園のすぐ上にあるチョルムル休養林に運動してくるたび、刻名碑核に立ち寄って父親の名前を探す」と話した。朝天邑咸徳海里(ハムドクリ)から来たハン・オクソクさん(86)は1948年12月21日、国軍9連隊が母親を連れて行き、近くの畑で銃殺したことを、今でもはっきり覚えている。
Kさん(82)は「国防部が謝罪するというから、大統領がよくやっているんだなと思った。大統領が既に謝罪したため、国防部の謝罪はむしろ遅れた感がある」としながらも、「なぜソウル光化門広場で謝罪をするのか。済州4・3の追悼式に来てしなければならないのではないか」と話した。
済州4・3当時、祖父母と母親が警察に連れていかれ、亡くなったキム・ナンギュさん(80)は、刻名碑の前で涙を流しながら、「流した涙を全部集めたら、漢江(ハンガン)になっただろう」と語った。4・3当時、亡くなった父親の位牌は4・3平和公園内の位牌奉安所から外される苦しい経験もした。キムさんは、小さい時から口ずさんできたという歌を歌った。「満月のようなお母さん/半月のような私残し/あの世への道がそんなに気にいって/行ったきり帰ってこないのですか」
キムさんと一緒に来た夫のソン・テフィさん(86)は「軍人たちは19才の中学校2年生だった兄を済州市内の小川で住民たちと共に首と足を縛り付けて銃を撃った後、油をかけて燃やす蛮行を犯した。誰の遺体なのか分からないほど焼け焦げていて、残りの服と靴のかけらでやっと兄を見つけた」と話した。ソンさんは「国防部が謝罪したのは、遅まきながらも、良かったと思っている。だけど、謝罪したいなら、追悼式場ですべきだろう」と述べた。
李洛淵(イ・ナクヨン)首相は同日、追悼の言葉で「文在寅(ムン・ジェイン)政権は4・3の真相究明と名誉回復を歴史の召命として受け入れた。済州道民が『もういい』と言うまで4・3の真実を明らかにし、名誉を回復する」と約束した。3世代が4・3を共有するという意味で4・3の経験者キム・ヨンオクさん(79)の孫娘のチョン・ヒャンシンさん(22・済州大学3年生)は、苦難に満ちた家族史を朗誦し、遺族と道民らの涙を誘った。
4・3時、済州で無実の良民を虐殺した軍と警察は同日、初めて犠牲者と遺族に公式謝罪した。ミン・ガプリョン警察庁長は午前11時、ソウル光化門広場で開かれた「済州4・3の追慕祭」に警察の首長としては初めて出席し、献花した。ミン庁長は、芳名録に「4・3当時、無実の罪で犠牲になった皆さんの霊前で頭を下げて、哀悼の意を表するとともに、謹んでご冥福をお祈り申し上げます」と書いた。国防部も文書を通じて、「『済州4・3特別法』の精神を尊重し、鎮圧過程で済州道民が犠牲になったのに対し、深い遺憾と哀悼の意を表する」と明らかにした。
済州/ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2019-04-03 19:34http://www.hani.co.kr/arti/society/area/888529.html 訳H.J
日本の対馬で「済州4・3慰霊祭」が開かれた理由は
日本の対馬で済州4・3の犠牲者の慰霊祭が開かれた。9月29日に開かれた「第3回済州島4・3事件犠牲者 対馬・済州慰霊祭」と、4・3を想う日本人により構成された「4・3漢拏山の会」が主管し、在日韓国人で詩人の金時鐘(キム・シジョン)氏など日本と済州の4・3関係者が主催した。
この日午前8時から上対馬の佐護湾で行われた慰霊祭は、4・3と朝鮮戦争の時期に漂着した数百体の遺体が収容された海辺に建っている供養塔の参拝に続き、近くの湊浜シーランドにて済州クングッ保存会のソ・スンシル会長など会員たちが、慰霊クッ(朝鮮半島の伝統的な祭儀)を執り行った。
この日の慰霊祭に参加して供養塔の前に立った詩人の金時鐘氏は、「対馬は4・3と1950年前後、朝鮮半島から漂着した数百体の溺死したり虐殺された遺体を収容して、彼らの魂を慰める供養塔も建立した。英霊が出すような対馬の波の音を聴きながら供養塔の前に立つと、犠牲者が私たちに会いに来るかのようである」と感慨を明らかにした。金氏はまた、「済州4・3や朝鮮戦争前後にあった予備検束者の虐殺、南北に分断された朝鮮半島の民族的悲劇さえも、帝国日本の植民地統治に由来する。この供養塔は、犠牲者の慰霊に留まらず、韓国と日本の民心を宥めてくれる慈しみ深い塔として、慰霊者が絶えず訪れる役割を果たすだろう」と語った。
この日、慰霊祭を推進してきた4・3漢拏山の会の長田勇顧問は、「対馬と済州を繋ぐ4・3慰霊祭は、国境を越えて韓日両国の民衆がやり遂げなければならない運命にある」と語った。
湊浜シーランドで開かれた慰霊クッでは、水難事故で亡くなった魂を地上に上げる、龍王ジルチギ(済州の伝統的な慰霊の踊り)などで犠牲者を慰めた。
佐護湾にある供養塔は、対馬市民の江藤幸治氏(62)の父親の江藤光氏が、1950年前後に漂着した韓国人の遺体を地域住民とともに収容して英霊を慰めていた遺址を集めて、2007年5月に遺体を埋葬した場所に建てられた。供養塔には、「朝鮮戦争の戦火により犠牲となった老若男女の遺体が朝鮮半島から海峡の荒波に乗ってここまで漂って来た。その数は数百に至る」と書かれている。当時の対馬新聞によると、手首を針金で、足首は紐で縛られた遺体もあった。対馬厳原の西側の浜辺に漂着した遺体は、科学的に見て済州から流れてきた遺体だろう」と書かれている。これに先立ち4・3漢拏山の会は、4月に済州市健入洞(コニプドン)の酒精工場跡地にて、4・3での行方不明者の慰霊祭を行いもした。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-09-30 20:51http://www.hani.co.kr/arti/area/jeju/911535.html 訳M.S
「裁判らしい裁判を受けてもらいたかった」4・3再審「公訴棄却」担当検事
「4・3受刑人に裁判らしい裁判を受けてもらいたかった」
17日、済州(チェジュ)地裁刑事2部(裁判長チェ・ガルチャン)は、済州4・3当時の受刑人18人が請求した再審で、事実上無罪の趣旨(公訴棄却)判決を下した。その一カ月前の先月17日、チョン・グァンビョン済州地検検事(39・司法研修院40期)は、裁判所に「公訴棄却判決をしてほしい」と要請した。捜査過程での明白な誤りがあらわれた再審事件でも、有罪求刑を下した以前とは異なる姿だった。
宣告後、ハンギョレと会ったチョン検事は、その理由として「裁判らしい裁判」を挙げた。彼は、パク・クムビッ(36・41期)、イ・サンフ(32・弁護士試験2回)検事らと過去2年余りにわたり済州4・3再審を担当した。
チョン検事は、済州ではない“陸地”出身だ。「恥ずかしいけれど済州4・3をよく知らなかった。歴史小説や放送、映画の素材で接しただけで、強い関心はありませんでした。裁判を準備して真相調査報告書と史料を検討し、理念と公権力という名の下に罪のない多くの方々が犠牲になったことを知りました」
チョン検事は「実体なき裁判」との戦いだったと話した。約70年前、済州島民2530人が不法拘禁と拷問を受け、まともな手続きも守られなかった軍法会議(軍事裁判)を経て獄中生活をしなければならなかった。しかし、受刑人名簿の他には関連記録は残っていなかった。それでも裁判所は再審決定を下し、検察は抗告しなかった。記録が残っていない責任を被告人に転嫁することは望ましくないとの判断だった。
チョン検事らは、受刑人の公訴事実が具体的に何か、果たして実体があるのかを確認しなければならなかった。検察の捜査官、記録研究士などと2泊3日で「陸地」に出張した。陸軍本部、国家記録院ソウル記録館など10カ所余りを検索したが、記録は残っていなかった。当時軍事裁判に関与した法務官も亡くなった後だった。「受刑人は、自分たちがどんな容疑で拘禁され、拷問を受けなければならなかったのか、なぜまともな裁判なしに懲役刑を受けなければならなかったのかを知りたいと幾度もおっしゃいました。記録がないという理由だけで手を離してしまうことはできませんでした」
チョン検事らは、このような理由で受刑人に対する「被告人尋問」を進めたと話した。有罪を立証し、処罰を受けさせることも検事の仕事だが、無念を晴らすことも公益の代表者としての検事の仕事だからだった。チョン検事は「一度も国に無念を訴えたことのない受刑人が、これまでの苦痛を話す機会を与えたかった」と話した。陸地の刑務所に連行される船内で息子を失い、その遺体を警察に渡さざるをえなかったオ・ゲチュンさん(93)の話を聞く時は「公権力によってこれらの人々が体験した苦痛の深さは計り知れないと思った」と語った。
「涙で耐え忍ばれた人々にとって、裁判所の今回の初の判決が慰労になればうれしい」。チョン検事は裁判所の判断に敬意を表わした。
済州/コ・ハンソル記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-01-18 17:12http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/878976.html 訳J.S
「日本では済州4・3がひとつになる」…大阪で開かれた4・3犠牲者慰霊祭
「今、私たちの前にある済州4・3犠牲者慰霊碑は、済州4・3の記憶をよみがえらせています。私たちは慰霊碑に『記憶』『歴史』『追悼』『平和』『継承』という多くの願いを込めました。この慰霊碑が済州4・3が一つになることを象徴していると信じます」
4月28日午後、大阪市天王寺区の和気山統国寺で行われた済州4・3事件71周年「在日本済州4・3犠牲者慰霊祭」で、オ・グァンヒョン在日本済州4・3犠牲者遺族会長は追悼の辞を通じてこのように明らかにした。日本国内の済州4・3を見つめるさまざまな見方が、この慰霊碑を通じて一つになるという意味だ。慰霊祭は在日本4・3犠牲者遺族会と済州4・3平和財団、4・3遺族会、4・3研究所、4・3道民連帯の関係者など200人余りが参加した中で行われた。
追悼のあいさつが終わり、日帝強制占領期に舞踊家として名を馳せた崔承喜(チェ・スンヒ)の系譜を継ぐ在日同胞の朴仙美(パク・ソンミ)氏が「菩薩の舞」と済州4・3を描いた舞踊「風浪をくぐって」を披露した。歌手の任洙香(イム・スヒャン)氏の「アリラン」、在日コリアン青年ハンマウムのプンムル(民俗打楽器)公演も続いた。
大阪では1998年に初めて済州4・3慰霊祭が開かれた。その後、会館などを借りて慰霊祭を開催し、今年初めて慰霊碑が建てられた統国寺で慰霊祭を開いた。統国寺が敷地を提供したおかげで、在日本4・3犠牲者遺族会は昨年11月、済州4・3犠牲者慰霊碑をここに立てることができた。基壇には、済州島内の約170の村から持ってきた石を置いた。
統国寺の崔無碍(チェ・ムエ)住職は「大阪には済州島出身者が多く住んでいるが、4・3と関連した歴史的評価をちゃんと受けることができなかった。『4・3を考える会』の関係者たちが慰霊碑を建てることを提案すると、その場で受け入れて統国寺で一番良い場所を提供した」と話した。
ここで会った大阪市立大学の伊地知紀子教授は「大阪には在日済州人がたくさん集まって住んでいる。学生たちは学校のある地域の歴史を知らなければならないと思い、4・3を含め済州の歴史を教養科目として教えている。200人あまりの学生たちが授業を受けている」と話した。モミキユウイチロウさん(24・大阪市立大学文学研究科修士課程)は「大学で先輩を通じて済州4・3を知った。大学のある周辺地域の歴史として知らなければと感じ、慰霊祭に参加することになった」と話した。
済州4・3当時、日本の大阪などに密航した済州島民は少なくとも1万人を超えると推定されるほど、4・3と日本の関係は密接だと言われる。立命館大学の文京洙(ムン・ギョンス)コリア研究センター長は「植民地時代から済州島民が大阪に渡り、済州島と大阪は島民の生活圏として結ばれていたと言っても過言ではない。4・3前後の混乱期に済州島の人々が命がけで日本に渡り、その後、在日同胞社会のひとつの軸となった」と語った。
大阪/文・写真 ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-05-01 19:10http://www.hani.co.kr/arti/society/area/892237.html 訳M.C
済州4・3、70年ぶりに“罪”の首枷から解放された
「これまでご苦労様でした。裁判所の立場から、そう申し上げたいと思います。主文、被告人らに対する公訴をすべて棄却する」
17日午後1時41分、済州市済州地裁201号の法廷。チェガル・チャン部長判事の「公訴棄却」という言葉に首を傾げていたヤン・グンバンさん(86)は「無罪も同然だ。我々が勝った」という弁護士の説明を聞いてから、やっと明るい笑顔を見せた。「ありがとうございます。ありがとうございます」。傍聴席からは拍手が巻き起こった。傍聴席の一番前の席に座って、判事の言葉に耳を澄ませていたオ・ヒチュンさん(86)の目頭も熱くなった。オさんは無言のまま、白いハンカチで涙を拭っていた。「大きな荷物を背負わされてきたが、一瞬で解放され、涙がこみ上げた。嬉し涙でもあり、無念を晴らした涙でもあり…」。オさんは裁判後に開かれた記者会見で、他の被害者たちと一緒に万歳を叫んだ。
同日、済州地裁刑事2部(チェガル・チャン裁判長)は1948~49年の済州4・3当時、内乱罪などで軍法会議(軍事裁判)に引き渡され、懲役1~20年の刑に服した元受刑者18人が申請した再審裁判で、公訴棄却の判決を下した。彼らの犯罪事実が何かを具体的に明示しないまま裁判にかけられただけに、公訴提起そのものが無効だということだ。当時、ヤンさんらは有罪判決を受けた後、故郷の済州を離れ、全国の刑務所に分散収監された。
裁判所は公訴提起手続きを無効と判断した理由として、「公訴事実の不特定」と「軍法会議への付託手続きの未順守」を挙げた。裁判所は「受刑人の名簿や軍執行指揮書など関連文書には、罪名と適用法律が記載されているだけで、当時どのような公訴事実で軍法会議にかけられることになったかを確認する控訴状や判決文がない。被告人らは一貫して自分たちがどのような犯罪事実で裁判を受けたのか分からないと供述している」と指摘した。特に4・3当時、軍法会議が短期間で2530人に有罪判決を下したことを考えると、きちんとした捜査や裁判はなかったか不可能だと判断した。裁判所は「当時25日間に12回行われた裁判で871人、15日間で10回行われた裁判で1659人が裁判を受けた。短期間にそのような多数の人を集団的に軍法会議に付託し、予審調査や起訴状謄本送達手続きがきちんと行われたとは考えにくい」と述べた。さらに「軍当局が当時、警察の意見を受け入れ、判決内容を事前に整理したものと推定される」という「済州4・3事件真相調査報告書」の内容を引用した。
生存する元受刑者たちは同日正午ごろから済州地裁ロビーに集まってきた。高齢で体が不自由な元受刑者たちは杖をついたり、車椅子に乗って裁判所に来た。療養病院に入院しているチョン・ギソンさん(97)とヒョン・チャンヨンさん(87)は、子どもたちが代わりに裁判に出席した。宣告時間が近づくと、明らかに緊張した表情を見せていた元受刑者たちは、約10分で判決公判が終わると、満面の笑みを浮かべて済州地裁の前に立った。彼らの前に横断幕が広げられた。「私たちはもう罪人ではない」
「(海女たちが使う)網の中にずっと閉じ込められ、やっと解放されて、本当に晴れ晴れとした気分です。前科の記録も消え、ばあさんが元受刑者だった跡もなくなって、それが一番すっきりしました」。車椅子に座ったキム・ピョングクさん(89)が花束を持って明るく笑った。「無実の罪であらゆる拷問を受けました。今日のような裁判もなく、収監されました。それが胸のつかえになっていましたが、無罪判決を言い渡されました。これ以上何も言う事はありません」。パク・ドンスさん(86)が言葉を詰まらせた。
裁判所は昨年9月、再審開始決定を下しており、検察はこれを“不服”としなかった。イム・ジェソン弁護士(法務法人ヘマル)は「当時、軍事裁判の総体的な不法性を確認したという点で、無罪判決よりはるかに進展したものだ。国家損害賠償請求訴訟を起こし、ほかの12人の生存元受刑者に対する再審請求も検討する」と明らかにした。
済州/コ・ハンソル記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2019-01-17 20:45http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/878810.html 訳H.J
「公訴棄却」無罪判決を受けた元済州4・3受刑者 、国に刑事補償請求
裁判所による「公訴棄却」判決を受け、70年ぶりに無罪判決を勝ち取った済州4・3事件の元受刑者らが、国に対して“違法な拘禁”の刑事補償金を請求する手続きに入る。
22日、「済州4・3の真相究明と名誉回復のための道民連帯」と元受刑者らの代理人を務めるイム・ジェソン、キム・セウン弁護士(法務法人ヘマル)は済州地裁を訪れ、済州4・3事件関連の元受刑者らの“違法な拘禁”被害に対する刑事補償請求書を提出した。彼らは済州地裁が下した無罪趣旨の公訴棄却判決文を、法務部のホームページに掲載してほしいという請求書も、済州地方警察庁に提出した。
イム・ジェソン弁護士は検察に提出する刑事補償請求書で、「済州地裁の公訴棄却の判決過程で、元受刑者らの公訴事実に合致するいかなる証拠も提出されなかった。公訴棄却される理由がなかったとしても、被告らに対する犯罪事実が全く証明されておらず、間違いなく無罪が言い渡されたはずだ」と指摘した。刑事補償及び名誉回復に関する法律(第26条)によると、公訴棄却の判決が確定した被告人の裁判で、公訴棄却の判断を下す理由がなかったとしても、無罪判断を受ける理由があるなら、過去の拘禁に対する補償を国に請求できる。
過去、済州4・3関連の元受刑者らが言い渡された裁判所の確定判決に関する控訴状や判決文など訴訟記録は残っていない。昨年、再審の過程で検察は「公訴事実を立証する記録を保管できる10の機関を確認したが、公訴事実が分かるほどの有意義な記録は見当たらなかった」と明らかにした。「何の罪も犯さなかったが、逮捕され、暴行や拷問など過酷行為を受けた末に、無実の罪で収監された」という元受刑者の供述が行われただけだ。ただし、済州4・3関連の元受刑者らに実際刑が執行されたという記録もほとんど残っていないため、道民連帯と法律代理人は元受刑者らの違法な拘禁期間を確認できる間接証拠を集めて、これを証明する計画だ。国に請求する刑事補償金額も「当時、違法な拘禁と過酷行為にあった点や当時の確定判決によって70年近く暴徒・アカという濡れ衣を着せられ、深刻な精神的苦痛を味わった点」などを考慮して決めた。
先月17日、済州地裁刑事2部(チェ・ガルチャン裁判長)は1948~49年の済州4・3当時、内乱罪などで軍法会議(軍事裁判)にかけられ、懲役1~20年の刑を受けた元受刑者18人が請求した再審裁判で、公訴棄却の判決を下した。2017年4月、生存する元受刑者らが裁判所に再審を請求してから、1年9カ月後に勝ち取った判決だ。裁判所は「元受刑者らの犯罪事実が何かも具体的に明らかにせず、違法な手続きによって裁判にかけられただけに、公訴提起そのものが無効だ」と判断した。公訴棄却の判決は、訴訟条件に問題があり、本格的な裁判に入る前に訴訟を終結させるものだ。
当時、裁判所は済州4・3事件当時の元受刑者らの公訴事実を特定できないうえ、軍法会議に付託する手続きも順守しなかった点を指摘した。裁判所は「受刑者名簿や軍執行指揮書などの関連文書には、罪名と適用法律が記載されているだけで、当時どのような公訴事実で軍法会議にかけられたのかを確認できる控訴状や判決文がない。被告人らは一貫して、自分たちがいかなる犯罪事実で裁判を受けたのか、分からないと供述している」と指摘した。特に4・3当時、軍法会議が短期間で2530人に有罪判決を下したことから、きちんとした捜査や裁判はなかったか不可能だったと判断した。裁判所は「短期間でこうした多数の人を集団的に軍法会議に付託し、予審調査や起訴状謄本の送達の手続きがきちんと行われたとは判断し難い」と述べた。検察が控訴しなかったため、裁判所の公訴棄却の判決が確定した。
コ・ハンソル記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2019-02-2220:06http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/883206.html 訳H.J
[インタビュー]「『済州4・3抗争』の導火線を辿れば『3・1万歳』の精神に至る」
「1919年3月1日、非暴力平和運動である3・1万歳運動の精神が、解放後に済州島民の心の中にも熱く流れました。今回の委員会発足を通じて、まだ完成していない3・1万歳運動の精神を受け継いでいこうと思います。国と国の間に、地域と地域の間に、世代と世代の間に、金持ちと貧しい人たちの間に、女性と男性との間に正義が実現し、平和が成就する日を望む思いです」
カトリック済州教区(教区長カン・ウイル司教)は先月23日、教区レベルでは全国で初めて「カトリック済州教区3・1運動100周年記念委員会」を発足させた。今月1日に会ったムン・チャンウ司教は、同委員会の委員長を務め、今年各種事業を行う。ムン司教はこれに先立ち、昨年は「カトリック済州4・3 70周年特別委員会」の委員長を務め、4・3の全国化に貢献した。
全国初の「3・1運動100周年記念委」 昨年の「4・3 70周年」に続き委員長に 「崔貞淑、姜平国、高守善が『万歳』を導いた」 ミサ・宣言文・学術大会・ミュージカルなど 47年「三一節記念大会」発砲事件で 警察が“謝罪”の代わりに“弾圧”し抗争勃発
今月6日、済州市我羅洞(アラドン)にある司教館で会ったムン司教は、独立を渇望した1919年の3・1万歳運動と、「反分断、統一運動」を目指して1947年3月1日に済州北小学校で行われた「第28周年三一節記念大会」は同じ文脈にあると強調した。
「昨年末に4・3の70周年活動を終え、今年神聖学院(カトリック系学校)出身のチェ・ジョンスク先生についてのミュージカルを準備していたところ、47年記念大会から始まった済州4・3の精神が3・1運動と密接につながっていることを知りました」
カトリック済州教区が全国初めて「3・1運動100周年委員会」を設置した理由だ。「日帝から解放されたが、完全な自主権を回復できないまま米軍政体制下に置かれるようにな った現実の中で、済州島民は1919年3・1運動の精神で一つになった祖国の解放と完全な独立を夢見ながら47年記念大会を開いた」とムン司教は話した。この日、集会を見物していた小学生や赤ちゃんをおぶった20代初めの若い女性ら6人が、米軍政警察の発砲で死亡した。にもかかわらず、警察は謝罪どころかむしろ集会参加者らに対する大々的な検挙令を下した。悪名高い西北青年団が済州島に押し寄せ、青年たちを無差別に捕まえ拷問するなど、済州社会が揺れ動いた。結局1948年4月3日、「弾圧なら抗争だ」と武装蜂起が起こった。
ムン司教は「米軍政によって生き返った親日派が、民族の完全な独立と自立を要求した人々を“アカ”という柵で閉じこめ、残酷に虐殺した悲劇が済州4・3だった。朝鮮戦争でも“アカ”という名前で多くの人が無念にも殺された。戦後も自分たちが築いた既得権と政権に反対する人々を“アカ”に追いやり、残酷に弾圧してきた歴史の不当な過ちはまだ続いており、これが韓国社会を分裂させ、民族の統一を阻んでいる巨大な壁だ」と語った。
1909年開校した 済州最初の女子校である晨星女学校は、1914年第1回卒業生として崔貞淑(チェ・ジョンスク、1902~77)、姜平国(カン・ピョングク、1900~33、済州最初の女子教師)、高守善(コ・スソン、1898~1989、済州最初の女性義士)らを輩出し、この3人は後日ソウルに留学し、「京城女子高校普済州3人衆」として3・1万歳運動の先頭に立ち、獄苦を経験した。その後も済州女性文盲退治、教育、医療、社会奉仕、文化など多方面で活動した愛国志士たちだ。
カトリック済州教区は今年3月1日、司教座聖堂で3・1運動が持つ非暴力平和運動の精神を記念し、犠牲者の霊魂を慰める記念ミサを行う。また別の宗教関係者とも連帯し、3・1の精神を今日の済州に蘇らせる「3・1宣言文」を発表する計画だ。さらに5月には、抗日活動家であり教育者として生涯を生きた崔貞淑先生を称えるミュージカル『崔貞淑』を公演する。9月には3・1運動100周年記念学術シンポジウムを開き、崔貞淑、姜平国、高守善先生の業績にスポットを当て、当時のカトリック教会の姿を省察する時間を持つ予定だ。
これに先立ちカトリック済州教区は昨年5月、済州4・3平和公園で「聖母の夜」行事を、10月には北小学校で「ロザリオ祈祷の夜」行事を開き、47年三一節記念大会の時のように観徳亭まで行進した。済州4・3平和財団が4・3を広めるために発行したパンフレット約3万部を全国の教会に送った。ムン司教は49年1月の「北村里大虐殺」現場で生き残った母親から、幼い頃から4・3の話を聞きながら育った。
ムン司教は昨年の4・3行事のうちもっとも大きな意味を持つものとして、全国の司教が明洞聖堂で行った「4・3ミサ」を挙げた。彼は「今年で10周年を迎えるキム・スファン枢機卿の逝去後、社会問題をテーマにミサを行ったのは“4・3”が初めてだった。また、司教会の社会司教委員会名義で4・3の真実究明と治癒に積極的に参加し連帯するよう求める宣言文を発表したのも大きな意味がある」と振り返った。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-02-1020:26http://www.hani.co.kr/arti/society/religious/881549.html 訳M.C
警察の銃弾と武装隊の竹槍で壊れたからだ…「なぜ私は4・3後遺障害者でないのか?」
済州(チェジュ)4・3事件の真相究明、および犠牲者の名誉回復に関する特別法は、済州4・3当時の「後遺障害が残った人」を犠牲者に含めている。彼らは、済州4・3を経験した済州道民のうち、討伐隊や武装隊により負傷して後遺症を抱えて生きている「4・3後遺障害者」たちだ。しかし、彼らの中には、後遺障害者申請をしても明確な理由なく脱落した人々がいるし、後遺障害者の受付事実すら知らずに申請もしなかった人々もいる。
警察により銃傷を負った北村里のチャン・ユンスさん
蒸し暑い夏の日だった。1947年8月13日午前11時頃、朝天面(チョチョンミョン、現在の朝天邑)咸徳里(ハムトクリ)犀牛峰(ソウボン)の粟畑で草取りをしていたチャン・ユンスさん(90・当時18)は、貝を獲りに行こうと足を速めた。家で昼食をとり、びく(魚籠)と手鍬を持って北村里(プクチョルリ)の海辺に行くつもりだった。チャンさんが家の前まで来た時だ。隣人たちが走る姿を見て、チャンさんも鍬を持ったまま隣人たちの後を追った。そして銃声が鳴り、チャンさんはその場に倒れた。
「私は一人で畑に行き、潮時になったので漁に行こうと帰ってきたところでした。家でお昼を食べて海に行こうと。すると人々が目の前を走って行き、私に仕事ばかりしていないでこういうものも見なければならないと。それで畑から戻ってきたままでそちらに走りました。私はちょっと足が速いほうです。ノブンスンイに行って(銃で)撃たれる時までは覚えていますが、その後は分かりません」
当時、北村国民学校の5年生だった弟のチャン・ユンスンさん(87・当時15)は、この日の状況について「8・15光復節を控えて青年たちが夜中に我が家の石垣にビラを貼り付けて行ったことがあった。近隣の咸徳支署の警官が来て、村の青年たちを見れば「誰が貼ったのか」と問い詰める過程で、青年たちと警察の間で小競り合いが起きた。村の雑用をする人がサイレンを吹き、「警察が来て北村の人々を殴打している。はやく出て来い」と言ったが、その時姉が走って行って銃で撃たれた。父の友人の方と女性など3人が銃で撃たれた」と話した。“ビラ”とは何の関係もないチャンさんが銃に撃たれたのだ。当時の新聞にも、この日の銃傷の事実が報道された。
4・3後遺障害者と認められなくて
警察が撃った弾丸は、チャンさんの右鎖骨の下を貫いた。胸は血だらけで、隣人たちは皆、助からないと言った。娘の銃傷の消息を聞いた父親(チャン・キリョン・当時55)と弟、そして銃に撃たれたチャンさんの3人は、通りかかったトラックに乗り、済州邑の道立医院に向かった。父親は娘の銃傷に興奮し、咸徳支署に車を駐めさせ「私の娘が銃に撃たれて死にそうだ。娘を生かせ」として器物を壊し、支署のわらぶきの家のロープを切ってしまった。警察は謝罪や補償どころか、器物を破損したという理由で父親を裁判に付した。父は同年9月26日に裁判を受け、騒擾罪等で懲役6カ月執行猶予3年の判決を受けた。
医師は父親に「左側に銃が当たっていたら死んだが、右側だったので助かった」と話した。銃で負傷した住民2人は、チャンさんより早く退院したが、生死の境をさまよったチャンさんは、3カ月も病院生活をしなければならなかった。チャンさんは退院後にも、しばらくは横になって過ごした。チャンさんは「若い時は水に入っても傷が癒えていたので痛まなかったけれど、後になって後遺症が出始めた」と話した。チャンさんが指で傷を示して、鎖骨の下を押すとボコッと指がめり込んだ。
チャンさんは「寒くなると右腕に力が入らず使えなくなる。銃で撃たれた部位は、水に入ると凍ってしまう。寒かったり風の吹く日には、数日間は動くこともできず寒気がする」と話した。
チャンさんは銃に撃たれて負傷した傷と住民の証言があるにもかかわらず、2004年と2014年の2度にわたり済州4・3後遺障害者として認定されなかった。チャンさんは「なぜ後遺障害者として認められないのか理解できない」と話した。
「銃弾が貫通したことを皆が見ているにもかかわらず、病院では傷がないと言う。そんなことがどこにある?銃で撃たれたことを知っていながら傷がないとは。歳をとって後遺症がますます激しくなっているようで」
チャンさんは昨年末、済州道に再び4・3後遺障害者認定申請をして、済州4・3実務委員会の審議を通過した。弟のチャン・ユンスンさんは「最初に後遺障害者申告をしたのに、認められなかった。実際に銃で撃たれ生涯苦痛を抱えている姉さんが認められないとは話になるか」と話した。
「お父さん」と呼びたかった…武装隊にやられた高内里のキム・ジョンアさん
「生まれてから『父さん』『母さん』と一度も呼んだことができず、その言葉が出ませんでした。友達が『父さん』『母さん』と呼んでいるのが、どれほどうらやましかったか分かりません」。13日、受話器の向こう側から聞こえるキム・ジョンアさん(74・東京荒川区日暮里)の声は哀しげだった。北済州郡涯月面(エウォルミョン)(現、済州市涯月邑)高内里(コネリ)が故郷のキムさんが、日本に渡ったのは40年余り前の事だ。日暮里は、済州島で虐殺が強行された1949年5月29日、高内里青年団の主催で4・3追悼会が開かれたところだ。
キムさんは、その日の状況を祖母(カン・シンヘン)から聞いて育った。1948年11月13日の夜、父親(キム・ボンウォン・当時24)は村の公会堂で“その人々”に対する対策会議をしながら「その人々の話を聞いてはいけない」と話した。キムさんは「暴徒」という表現の代わりに「その人々」と言った。「会議が終わって家で寝ていると、会議を覗き見た“その人々”が、翌日午前2時頃に家に入ってきて、父と母、赤ん坊だった私まで彼らが振り回す刃物や竹槍で刺されました」。
済州4・3当時、多くの済州道民が国家公権力の犠牲になったが、武装隊に殺害された民間人もいた。武装隊は、自分たちに協力しなかったり討伐隊側だと判断した住民を殺害する過程で残忍性を見せもした。
両親の死の中で、赤ん坊は満身瘡痍で生き残った
「父さんはその場で亡くなり、母さん(オ・チャンスン・当時23)は幼い子供を一人残して目を閉じられなかったのか、全身傷だらけで苦痛の中で10日ほどい持ちこたえ、ついに息をひきとりました。私が死んで、母さんが助かると思われていたのに、その反対になりました。「武装隊は2歳になったばかりのキムさんにも竹槍を振り回し、腕、胸、耳に重傷を負った。
日帝強制占領期間に東京で大学を卒業したインテリだった父親は、解放以後に涯月中学院の設立に加わり、亡くなるまで数学を教えた。キムさんは「父さんが学校設立後に周囲から日本に行くように言われたが、子どもたちを教えると言って故郷に居座った」と話した。
「祖母は息子の墓に行って泣く日が多くありました。しょっちゅう息子の墓に行っていました。息子の墓前で、話もできずにひたすら号泣していた祖母の姿が忘れられません」。
30年前に亡くなった祖母は、キムさんの入学式、卒業式、運動会には顔を出さなかった。孫娘にはかわいそうだと思ったが、無念に亡くなった息子の顔が目に浮かんで行けなかったと話していた。祖母は、残された子供だけでも生かしてみると言って、叔父と叔母を密航船に乗せて日本に送った。
耳から粘液が出て、全身傷だらけ
キムさんの記憶の中には4・3は無いが、からだには4・3がそっくり70年余り経っても残っている。赤ん坊の時、生死の峠を越えたとはいえ、傷は現在進行形だ。「祖母は息子の唯一の血筋の私を生かすため、誠心誠意治療しました。時間の経過とともに胸、肩、腕の傷は癒えていきましたが、耳は良くなりませんでした」。
キムさんのからだの随所には当時の傷が残っている。キムさんは「夏に半袖の服を着れば、人々が腕を見て『どうしたの』と訊いてくる。幼い時に負傷してずいぶん良くなり、整形手術もしたけれど、相変らず傷跡がある」と話した。
しかし、キムさんの右耳は聞こえない。幼い時から耳からは粘液が出てきた。キムさんは「自分も気がつかないうちに耳から粘液が流れ出て、周りに人がいれば恥ずかしくて恥ずかしくて、ハンカチで隠して通ったりもした」と話した。キムさんは結婚してソウルの大病院で手術を受けた。医師が聴力の回復は難しいだろうと言ったが、切なる思いで手術を受けた。日本に渡った後に訪ねた東京大学病院で、キムさんは治療を受けても直らないと言われた。
キムさんは、昨年10月済州を訪問した。済州4・3平和公園が作られ、4・3犠牲者・遺族の申告を受け付けているという便りを聞いた。キムさんは、済州4・3平和財団の助けで4・3後遺障害者申請書を提出した。
「娘たちにも悲惨な話を聞かせたくなくて話しませんでしたが、初めて4・3の傷を語りました。4・3は今でも胸の痛む苦痛なのです」。キムさんの声は涙にぬれていた。
後遺障害者の決定は…4・3中央委、開催未定
済州4・3後遺障害者に決定されれば、地方費で生活補助費(月70万ウォン=約7万円)と医療費などの支援を受けられる。しかし、4・3後遺障害者認定の過程は難しい。後遺障害者生存者は現在75人に過ぎない。最後に後遺障害者決定がなされた2014年5月には33人が申し込み7人だけが認められ、残りの26人は不認定だった。後遺障害者として認められるためには、事実立証確認書と診断書を添付して申請し、済州4・3実務委員会と首相室傘下の済州4・3中央委員会の審査を通過しなければならない。昨年末、済州4・3実務委員会の審査を通過した後遺障害者申請者は34人だ。現在の首相が委員長を務める済州4・3中央委員会がいつ開かれるのか決まっていない。申請者はほとんどが80歳以上の高齢者だ。
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-01-17 10:39http://www.hani.co.kr/arti/society/area/878713.html 訳J.S
[インタビュー]「4・3による悔しい獄中生活、70年ついて回った“アカの烙印”を消した」
「70年余りついて回ったアカの烙印を消すことができてとてもうれしい」。
裁判所が17日、済州4・3当時に悔しく受刑生活をした、いわゆる「4・3受刑生存者」18人が、国家を相手に提起した再審請求事件の判決公判で、無罪趣旨で公訴が棄却され、ヤン・イルファ氏(89・済州市翰林邑今岳里)の両目から涙があふれた。70年以上ついて回った“アカの烙印”が洗い流された瞬間だった。
走馬灯のように過去が思い出された。1948年11月20日、討伐隊の疎開令が下され、村が焼かれると両親は翰林(ハンリム)に、ヤン氏は済州邑(現在の済州市)の伯父宅で暮らした。その年の12月初め、路上で右翼青年団に偶然捕まったヤン氏は「警察署の取り調べ室で薪ストーブを焚くために置いてあった薪で気を失うまで殴られ、全身が腫れあがり肉が削がれた」と回顧した。ヤン氏は、そこで10日程過ごし、軍事裁判に付された。裁判を引き受けた軍人が「○○立て」と名前を呼ばれ立ち上がると、「お前はこういうことをしただろう?」と尋ねた。「はい」と答えれば名前を書いて刑務所に送る人と死刑にする人を両側に分けて座らせた。一日に数百人が裁判を受けた。
翌年の1949年1月初め、木浦(モッポ)を経て仁川刑務所に移送された。なぜ行くのか、何の罪を犯したのかも分からなかった。ヤン氏は、そこで自身が「5年刑」を受けたという事実を初めて知った。1950年、6・25(朝鮮戦争)がさく烈し、北朝鮮軍が仁川まで迫ってくると、刑務所の門が開かれた。人民軍は、服役者を連れて開城(ケソン)に行った。ついて行かなければ死ぬしかなかった。ヤン氏はそこで一カ月間の訓練を受け、内務署員となり光州(クァンジュ)まで歩いて下った。
仁川上陸作戦が展開され、人民軍が後退すると一緒について行った。道を知らないヤン氏は、そうするしかなかった。慶尚北道尚州(サンジュ)のある山から後退する過程で国軍に見つかった。一緒に行った多くの人民軍は死んだが、彼は幸運にも済州出身の軍人に会い生き残った。釜山の伽耶(カヤ)捕虜収容所を経て巨済島(コジェド)捕虜収容所で1年6カ月ほど過ごした。故郷の両親は、朝鮮戦争が起こるとすぐに、一人っ子のヤン氏は死んだと理解して、誕生日に法事を行っていた。収容所生活が終わり、朝鮮戦争が終りに近づいた1953年、今度は陸軍に入隊し52カ月を軍人として生きた。
ヤン氏は「初めて再審を申請した時は、どうなるか分からなかった。数回裁判所に行くうちに、ひょっとして有罪になるのではないかとも思ったが、生きている時にしなければならないことだと腹を括った。これまで寝る時にも目を開けて寝るようだったが、これからは穏やかに目をとじて眠れる」と話した。
ヤン氏は「今回無罪判決を受けることができなかったら、目を閉じて死ぬこともできないと思ったが、今回の判決で私の無罪が公認されたことがとてもうれしい。特に私の子孫に対して安心した気持ちでいられる。そうでなかったら、私が過ちを犯したために戸籍に赤い線が引かれたと思われそうで」と話した。
済州/ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-01-17 20:42http://www.hani.co.kr/arti/society/area/878872.html 訳J.S
1年間漂流した4・3特別法、控訴棄却判決を機に改正案の処理を加速化すべき
「4・3の完全な解決に向けて揺ぎ無く前に進むことを約束します。これ以上4・3の真相究明と名誉回復が中断されたり後退したりすることはありません」
昨年4月3日、「済州(チェジュ)4・3犠牲者追悼式」で、文在寅(ムン・ジェイン)大統領はこのように約束した。与野党指導部も「済州4・3事件の真相究明および犠牲者の名誉回復に関する特別法」(4・3特別法)を改正すると口をそろえた。しかし、発議から1年以上経った4・3特別法の全部改正案は昨年9月、国会行政安全委員会法案審査小委に上程されてから、進展が見られない状態だ。4・3生存者と犠牲者遺族らは、元受刑者らに事実上の無罪判断(公訴棄却)を下した17日の済州地裁の再審判決をテコに、国会で眠っている4・3別法改正議論の火種を蘇らせるべきだと指摘する。
2017年12月にオ・ヨンフン共に民主党議員ら60人が、昨年3月にはクォン・ウンヒ正しい未来党議員ら11人が、4・3特別法改正案を発議した。金大中(キム・デジュン)大統領在任していた1999年に制定され、翌年実施された4・3特別法を大きく見直す内容だ。軍事裁判の結果の一括無効化▽特別恩赦と復権の建議▽元受刑者の名誉回復▽追加の真相調査▽犠牲者と遺族に対する賠償▽生存者と遺族のためのトラウマ治癒センターの設立▽4・3歪曲する動きに対する処罰などの内容が盛り込まれている。
これらの法案は国会に漂流中だ。文大統領の大統領選公約で、昨年4・3事件70周年に世論の関心が高まり、年内の処理への期待が高かったが、政府と国会の熱を帯びた雰囲気は長続きしなかった。こうした状況を受け、昨年10月には高齢の4・3元受刑者が車椅子に乗って済州市庁周辺2キロメートルを行進し、政府と国会に4・3特別法の改正を促した。さらに、同日の控訴棄却判決の効果が再審を請求した18人以外の生存者や犠牲者、遺族にまで及ぶわけではない。当事者と遺族全員が再審請求に乗り出すのも現実的には難しい。4・3特別法の改正を通じて、70年前に済州道民を暴徒に仕立て上げた軍事裁判結果を一括無効にしなければならないという特別法の内容が説得力を持つのも、そのためだ。
建国大学法学専門大学院のイ・ジェスン教授(済州4・3生自由族会法律支援団)は、「再審を請求した18人の受刑者の一部は、被害者として当時の状況に関する供述が可能だった。しかし、その他の高齢の元受刑人と既に亡くなった犠牲者の場合は、再審請求が不可能か、請求しても今回の再審宣告と違う結果が出る可能性もある」とし、特別法改正による一括解決を求めた。パク・チャンシク済州学研究センター長(済州4・3第70周年汎国民委員会運営委員長)は「軍事裁判の犠牲者は2500人以上だ。全員を裁判で救うことはできない。立法で一括解決する必要がある」と指摘した。関連市民団体は4・3の71周年となる今年4月3日まで、特別法改正案の国会議決を目標にしている。
コ・ハンソル記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr)
韓国語原文入力:2019-01-17 20:42http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/878851.html 訳H.J
「大韓民国万歳」と叫ぶと同時に…銃口が火を噴いた
「撃った人は誰ですか?」「中門支署の警官です」「家族を撃った人が警官だというのですか?」「はい」
1989年9月24日午前5時。13代国会内務委員会の済州(チェジュ)道庁に対する国政監査場で、議員の質問と証人として立ったある済州道民の返答内容だ。家族を撃った人が警察官だったという返答内容を信じられないというような質問だった。
この日の証人はイ・サンハ氏(84・西帰浦市中文洞)。国政監査の速記録を見れば、イ氏は前日の9月23日に開かれた国政監査場で14時間待ったあげく翌日の午前5時近くになって証人席に立つことができた。20分余り証人席に立つために、14時間を待ったイ氏は、この日ある国会議員が事前に約束した話だけしろと言ったが、「真実を言う」として、4・3当時の家族の被害状況を通じて明らかにした。
ダブー視されていた済州4・3が被害者の口を通じて初めて国政監査場に伝えられた瞬間だった。この日取材した記者は今月6日、30年ぶりにイ氏に会った。イ氏は、当時を思い起こしながら「事実を言ったのに、ある国会議員は信じなかった。私の話を絶対に信じようとしない。どうしてそんなことがありうるかという表情をしていた」と言いながら笑った。
初めて4・3を話した瞬間…国会議員は信じなかった
1948年12月17日午前8時頃、中文面(現、西帰浦市中文洞)回水里の郷祠横のイ氏の家では、親戚一同20~30人余りの棺の輿の担ぎ手が集まって朝食を済ませ、祖父と祖母の埋葬地に行く支度をしていた。この日は4日前に警察の犠牲になった祖父(イ・ウォンオク・当時71)と祖母(カン・チュヒャン・当時64)の葬儀を行う日だった。祖父と祖母は村から1.5キロメートルほど離れた現在の中門高等学校近隣で土俗宗教を信じ、近隣地域の住民たちを対象に寺小屋を運営していたが、12月15日に犠牲になった。
中門支署の巡査1人と竹槍を持った学生たちで構成された青年団3~4人が、埋葬地に行く準備に忙しいイ氏の家に押しかけてきた。警察は、イ氏の父親(イ・ドゥヒョン・当時48)と母親(カン・テサ・当時46)に「出て来い」と言った。父親は、家にいた家族にもみんな出て来いと言って一緒に出て行った。13歳だったイ氏と姉(イ・ファソン・当時16)、兄(イ・ギハ・当時25)の息子(イ・キルパル・当時7)と娘(イ・チュンジャ・当時6)の6人が一緒に出て行った。親戚と隣人たちが集まって葬儀の準備で忙しかった家の中庭には、突然緊張が走った。イ氏は「私や姉、甥は連れていかなくても良かったのに、父親がきまじめで全員に出て来るように言った。父親は以前にも何度か支署に呼び出されて行ったことがあったが無事帰されたことがあるので、大丈夫だろうと思ったようだ」と話した。警察は、家の前の小道に出てきたイ氏の家族を畑に行かせ、家にいた残りの人々には見物しろと言った。
「逃避者家族」という理由で一家が全滅
冬だったが寒くはない晴れ渡った日だった。イ氏の家族は、家の前の丘を下って畑に行った。中山間の村である回水里は、畑作を主にしていた。イ氏の家族も、さつまいも、粟、蕎麦を作っていた。警察は、イ氏の家族に背を向けて座れと言った。死を予感したのか父親は孫を抱き、祖母は孫娘を抱いてためらいながら座った。姉と中門国民学校(小学校)5年生だったイ氏も一緒に座った。親戚と隣人たちは、その姿を黙って見守っていた。処刑の瞬間が近づいた。父親は警察に「大韓民国万歳」を呼ぶと話した。ひょっとして助けてもらえるかもと思いそう言ったのだろうとイ氏は話した。しかし「大韓民国万歳」の声と同時に背中から99式日帝小銃の銃声がとどろき倒れた。イ氏は、本能的にうつ伏せになった。イ氏は「日帝時代に国民学校に通っていた時『空襲警報』と叫んで鐘が打たれると、走って行ってうつ伏せになる練習をたくさんした。それで自然にうつ伏せになったようだ」と話した。
警察は路肩から畑にいたイ氏家族に銃を撃ち、再び近寄って倒れたイ氏の家族を確認し射殺した。イ氏の頭を狙った弾丸は首をかすめた。弾丸が地面に食い込み土がはねて口の中に入ってきた。イ氏は「銃を撃ったからと即死するわけではないので、近寄って確認して撃ったが、幸い私は当たらなかった。弾丸が地面に食い込み土が口に入って、何も言わずにじっとしていて助かった。祖父が抱いていた兄の息子は、太ももに銃弾が当たったが現場で死にはしなかった。その人(巡査)も怖くなったのか、甥が泣いていたのに黙って立ち去った。村の雑用をしていた小使いの老人がしっかりした人だった。その人が私を毛布でくるんで親族の家に連れて行ってくれたのだろう。甥も連れて行ったが、甥はその日の夜中に泣きながら死んだ」
父親は「大韓民国万歳」と叫んだ
祖父と祖母に続き、父と母、花盛りの16歳だった姉、7歳と6歳の幼い甥と姪の5人が同じ日の同じ時刻に犠牲になった。イ氏の家族の犠牲は、兄が4・3の後に山に逃避した「逃避者家族」という理由のためだった。この日は、中文面管内の回水里と中文里の神社の場所などでいわゆる逃避者家族数十人が討伐隊により集団虐殺された日だった。討伐隊は、逃避者家族という理由だけで家にいた人々を虐殺した。
1948年10月17日、済州島討伐に出動した9連隊が、海岸線から5キロメートル以上離れた内陸地域を「敵性地域」と見なし、11月17日には済州島全域に戒厳令が宣言され、済州島は虐殺の島に変わった。11月5日、中文面事務所と支署が武装隊の襲撃を受け、西北青年らで構成された9連隊の特別中隊が中門国民学校に駐留し、中門支署には済州出身の警察官以外に他の地方から来た警察官が補強された。
中文面事務所と支署が武装隊の襲撃を受けた後、イ氏の家族は支署に召喚され行っていたが、イ氏と姉は当日帰ってきたし、父と母は翌日に帰ってきた。父はそんな事情から何事もなく済むと考えて、虐殺を避けられなかった。支署が襲撃を受けた後、西帰浦から中文里に徒歩で出動した9連隊の軍人が、回水里に立ち寄った。軍人はどこで聞いたのか「逃避者家族」の家だとして兄が暮らしていた離れに手榴弾を投げ込んだ。ちょうど秋に収穫した粟を板の間に積んでいたおかげで、手榴弾の上に粟の茎がおおいかぶさり火事にはならなかった。翌日、父は誤解を受けるかと思い、自分の手で家を燃やしてしまった。イ氏は「そこまですれば、助けてもらえるのではないかと考えたようだ」と回顧した。
日帝強制占領期間に国民学校を卒業し徴兵された兄は「青年の中でも有名だった」だったとイ氏は覚えている。日帝強制占領期間時は、村対抗の体育大会で体格の良かった兄は競走と相撲の選手として町内で名をはせた。山に逃避した兄は、翌年の1949年3月頃「自首すれば助けてやる」というビラを見て、回水里に降りてきた。兄は回水里の住民に「弟をよく見てやってほしい」と話し、西帰浦警察署に行ったと伝えられる。同じ年の8月、済州飛行場で死んだといううわさと共に兄は行方不明になった。
天が生かした子ども
家族全員が皆殺しされた状況で奇跡的に助かったイ氏を、一手に引き受けることになった親族は不安だった。10日ほど過ぎて、親族は知人を通じて当時支署の責任者だった軍の将校(少尉)に「子どもが生きていたが、どうすれば良いか」と意見を聴いた。少尉はイ氏を連れてくるように言った。
「私は自分で支署に行った。行くとその少尉が言った言葉は「この子は天が生かした子どもだから、軍隊に連れて行く」だった。親戚たちがその話を聞いて「許可さえしてくれれば私たちが面倒を見る」と頼み、親族の家で暮らすことになった」
当時の記憶をたどったイ氏の目から涙がこぼれた。親族の家で暮らしたイ氏は、しばらくして親戚の叔母さんと一緒に昔の自宅に移った。4・3が起きる前に婚家にとついだ姉(当時22)が、戦争が勃発した後に姉の夫が軍隊に徴集されると家に来て2年間一緒に暮らした。
家族の法事はその時から行ってきた。イ氏は「初めは姉さんが法事を行った。当時、一日三食を祭床に上げたが、すべて上げれば名節でも同じだった。そのご飯をすべて食べなければならず、熱いご飯は食べられなかった」と話した。
孤児になった後も中学校に通った。済州市で商業高校を卒業し、大学に入学した。1957年頃、大学の一学期を通った後、2学期は授業料が払えずに東京で暮らしていた親戚を頼って密航を試みた。長崎県のある島で捕まって、佐世保刑務所で8カ月、大村収容所で1年4カ月過ごして故郷に帰った。満3年の軍隊生活をして、1962年に除隊して故郷の回水里から近隣の中文里に移った。1970年には東京で暮らし、1年間ミカンの栽培技術を習い、ミカン栽培の先駆者になった。当時、養豚技術も習った。
幼時に家族の処刑を目撃し体験した彼にとって、4・3の記憶はトラウマとして遺った。「一人でいるといろいろ考えてしまう。毎日空想ばかりで集中できず、勉強に手が付かなかった。国民学校の時はそろばんも得意だったし計算もよくできたのに、4・3以後は数字の感覚が鈍くなった。ミミズが切られても動いているように、人も銃で撃たれると息が詰まってできなくなる。それを目撃したせいです」
1989年国政監査場で国会議員が「社会に対する願望はないか」と質問して、彼はこう答えた。「私はそのような時代に生まれた私の運命だと思って生きています。だから国家に対していかなる感情や願望はありません」。今でもその考えに変わりはない。彼は「4・3を考えれば生きていられない。私の運命と思って生きている」と話した。しかし、賠償や補償は必要だと話した。「賠償や補償のない名誉回復はありません。交通事故が起きても賠償や補償をするのに、人を殺しておいて大統領の謝罪だけでは済みません。いくらであろうが賠償や補償はするべきです」
ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
韓国語原文入力:2019-01-14 10:52http://www.hani.co.kr/arti/society/area/878245.html 訳J.S