「私の日本での“在日”暮らしは、流麗で巧みな日本語に背を向けることから始まりました。情感過多な日本語から抜け出ることを、自分を育て上げた日本語への私の報復に据えたのです」
昨年2月に心不全症で入院した後、体がかなり衰弱したが、詩人の眼光は鋭く、その言葉に聴衆たちは息を殺して耳を傾けた。先月31日、済州西帰浦市(ソグィポシ)済州国際コンベンションセンターで開かれた「第14回済州(チェジュ)フォーラム」の「4・3と境界」のセッションで、「境界は内部と外部の代名詞」という基調講演を行った在日朝鮮人詩人の金時鐘先生(90)に会った。
釜山出身で、母親の故郷済州で“光復”迎える
抗争の発端となった「1947年3・1発砲」に決起
生き延びるため1949年6月日本へ密航
「遺体の惨憺たる姿、腐敗臭が忘れられない」
コリア国際学園で“越境人”を養成
16日、大阪大学で「生誕90周年」記念シンポジウム開かれる
釜山で生まれ、20歳だった1949年6月、日本に渡って今年「在日70年」を迎えた金時鐘氏は、その年月を「抵抗の70年」と呼んだ。大阪を経て奈良県生駒市で暮らしている彼は、詩集『地平線』や『猪飼野詩集』、『光州詩片』、『「在日」のはざまで』、『失くした季節』などを出版し、毎日出版文化賞、大佛次郎賞、高見順賞など、様々な文学賞を受賞した。彼の文学世界は日本人学者の研究対象だ。同日、主題発表を行った京都大学の細見和之教授は、金時鐘氏の表現を「世界文学」として評価した。「金先生は渡日後、日本語を生活言語としている在日の同世代、さらには若い世代にむけて、ふたたび日本語での表現を目指した。そのことによって、日本語をつうじた日本語への“報復”が金時鐘先生にとっての生涯の課題となった」と述べた。
実際に南と北、どこにも属さず生きてきた金時鐘氏は、「境界人」であり、絶えず境界を越える。
「望んだこともない青天の霹靂の“解放”に出会って、自分の感性の泉でもあった、取って置きの言葉の日本語から、私はいきおい隔絶されてしまった者になってしまいました…たしかに私は植民地統治の頸木から70数年前に解放されはしました。これは明白な歴史的事実です。しかし自己の意識の下地を成している日本語にまで、訣別を遂げたわけではありません。それどころか生きる手立てにその日本語を使って、あの日本で暮らしています。当然その日本語は検証されなくてはならない、私の存在証明の目盛りともなるものです」
金時鐘氏が主導して約10年前に設立されたコリア国際学園も、いわゆる「越境人」の育成を建学精神としている。金時鐘氏は「詩を書く私には行き来をさえぎっているものはすべて、立ちはだかっている壁の境(さかい)です。人種差別や地域差別、身障者や女性が享受すべき当然の権利、人間としての尊厳に対する無理解と無関心。その多くが個々人の心の内に根づいて、自らが壁の境界を作り上げてしまっているものです」と述べた。
しかし、彼の今日を作ったのは「済州4・3」だ。4・3抗争に直接関与したことで、生き残るため日本へ密航せざるを得なかったからだ。金時鐘氏は「4・3での境界には様々なイメージがある。海岸村に石垣を巡らせ、外部と遮断したことも境界であり、海岸線から5キロ以上の内陸地域を『敵性地域』に分類したのも、海岸の境界と言える」と述べた。
「4・3犠牲者という時、『犠牲者』という表現は“崇高な死”のような心情を抱かせます。しかし、4・3による死の実情は、崇高さとは程遠いです。心臓が凍りつく恐怖と目を開いたまま死ぬしかなかった人々の果てしない無念、捨てられたり、放置された死体を忘れてはなりません。死んで放置された人ほど醜いものはありません。埋めるため投げ捨てられた80体を超える遺体を、この目で見ました。今でも私の心に刻まれています。あの腐った遺体を触ると、臭いがなかなか消えません。私たちが崇高な心情を語るのに、犠牲者の醜さや怒り、耐え難い死が目の前にあったという事実を、忘れてはなりません」
金時鐘氏は4・3セッションが終わり、最後の挨拶をする際、「罪悪感」について言及した。「4・3の残酷な事態を起こした一人という罪悪感が、心の中深く募っています。そんな私がどうすれば、済州に近づき、再び済州が私の心で蘇るか、考えています」。そして、彼は「4・3に対する誤解を招きかねない話だが」とし、慎重に話を続けた。「(4・3武装蜂起には)時代的、民族的正当性がある。我が国の分断が目の前にあることに耐え切れず、民間人6人が死亡した1947年3・1発砲事件を見過ごせなかったため決起したが、それによる惨憺たる結果に罪悪感を持っている」と語った。
金時鐘氏は「4・3は済州だけの特別な惨劇ではない。第2次世界大戦が終わって、米国との直接関係の中で発生したのだ。これは絶対、動かざる事実だ。冷戦の幕開けとなる初めての事件が4・3だ」と付け加えた。
済州出身の金時鐘氏の母親の命日も4月3日だ。「どうして母の命日まで同じ日になったか、分かりません。私に4・3は70年も経ったが、過ぎ去ったことではありません。“在日”の私は依然として4・3を抱いて背負って生きていかなければならない人です」
金時鐘氏は昨年から日本の藤原書店で『金時鐘コレクション』(全12巻)を発行している。今月16日には、大阪大学大学院文学研究科越境文化研究イニシアティブの主催で、金時鐘氏の生誕90年と渡日70年を記念する「越境する言葉」国際シンポジウムが開かれる。生存している詩人の生誕を記念するシンポジウムが行われるのは異例のことだ。