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「謝罪も得られず」勤労挺身隊被害を初告発…パク・ヘオクさん永眠

登録:2022-02-18 02:32 修正:2022-02-18 07:46
2018年に三菱重工を相手取った損害賠償訴訟で勝訴
2015年6月、パク・ヘオクさんが戦犯企業の三菱重工業を相手取って起こした損害賠償請求訴訟の控訴審で勝訴し、感想を述べている=勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 約30年前に勤労挺身隊(未成年に対する強制労働)の被害を初めて世に公表したパク・ヘオクさんが、遂に謝罪を受けることなくこの世を去った。享年91。

 市民団体「勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会」は17日、「およそ20年前から日本と長く闘ってきたパクさんが16日午後5時、持病のため永眠された」と発表した。これにより、2018年に最高裁で勝訴した三菱女子勤労挺身隊訴訟の5人の原告のうち、生存者は2人(ヤン・クムドクさん、キム・ソンジュさん)となった。

 全羅南道順天(スンチョン)で生まれたパクさんは、順天南小学校を卒業直後の1944年5月末、日本人校長の懐柔と圧迫に耐え切れず、日本の三菱重工業名古屋航空機製作所に動員された。

 パクさんは生前、「日本人校長に懐柔され、最初は拒否したが、『ならば代わりに両親が警察に捕まることになる』と脅され、仕方なく応じた」と語った。パクさんは賃金を一銭も受け取れず、飢えに耐えながらつらい労働に苦しみ、解放後に帰国した。

 パクさんはヤン・クムドクさんとともに、1995年8月の地域新聞とのインタビューで勤労挺身隊の被害事実を初めて公表した。1991年に故金学順(キム・ハクスン)さんが慰安婦被害(性的虐待)を暴露したのを見て勇気を出したという。当時は社会が未成熟だったため、慰安婦被害者と勤労挺身隊被害者を同一視し、否定的に認識する傾向があった。パクさんは光州(クァンジュ)で助産院を運営しつつ円満な社会生活を送っていたが、このインタビュー以降は社会的偏見に苦しんだ。

 パクさんは名誉を回復するため、1999年3月に日本政府と三菱重工を相手取って名古屋地方裁判所に提訴したが、2008年11月11日に最高裁で敗訴した。翌年、日本政府は厚生年金の脱退手当金との名目で99円(1000ウォン)を支給し、パクさんは再び心に傷を負わねばならなかった。

 パクさんは他の4人の被害者と共に2012年10月24日、三菱重工を相手取って光州地裁に提訴し、2018年11月29日に最高裁で勝訴した。しかし三菱重工は3年が過ぎても賠償と謝罪を行わず、パクさんは憤っていたという。

 パクさんは三菱重工の2件の特許権に対する差し押さえを提起し、昨年12月27日に最高裁判所で差し押さえが最終確定した。

 光州に住んでいたパクさんは2019年の秋ごろ、健康上の理由から子どもたちのいる全州(チョンジュ)の療養病院に移った。その際に「健康が回復すれば光州に戻ってくる」と語ったが、ついに望みはかなわなかった。パクさんは生前、自らが被害者でありつつも、日本が子どもたちを労役に動員したということに大きな怒りを表していた。

 市民の会のイ・グゴン代表は「故人はいつも『恥ずべき歴史が忘れられないように学生たちに教育しなければならない。三菱は必ず謝罪してその罪を償うべきだ』と語っておられた。未来世代にはパクさんの勇気を覚えておいてほしい」と語った。

 遺族には2男2女がいる。葬儀は全州イエス病院斎場にて。出棺は18日午前9時。

故パク・ヘオクさんが勤労挺身隊の被害事実を初めて世に公表した1995年8月19日付「全南日報」のインタビュー記事=勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会提供//ハンギョレ新聞社
キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1031509.html韓国語原文入力:2022-02-17 15:37
訳D.K

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