故金日成(キム・イルソン)朝鮮民主主義人民共和国主席の回顧録『世紀とともに』(全8巻、以下「金日成回顧録」)の国内出版・販売をめぐる論議は、韓国社会の意味深長な変化を示している。突出的に発生した今回の事態が、北朝鮮の報道・出版物の完全開放につながるかどうかに注目が集まっている。
代表的な変化の動きは、野党の「国民の力」から現れた。最高裁(大法院)が「利敵表現物」と判断した金日成回顧録『世紀とともに』の出版・販売・購買行為を国家保安法違反として処罰せず、そのまま放置する方針を決めたのだ。国民の力は韓国社会で「国家保安法の守護者」を名乗ってきた政治勢力にルーツを持っており、こうした前向きな反応は過去の前例に照らしてみても、予想を完全に覆すものだ。韓国政府と与党としては、国民の力など保守側が賛成するなら、北朝鮮報道・出版物の開放措置に否定的である理由がない。
「国民の力」の前向きな態度の扉を開いたのは、1980年代に学生運動に身を投じていたハ・テギョン議員だった。ハ議員は韓国での金日成回顧録の出版が初めて報じられた後、自身のソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)アカウントに「金日成回顧録に騙される人はいない。高まった国民意識を信じ、表現の自由を積極的に保障しよう」というタイトルの書き込みを掲載した。ハ議員は「北朝鮮と関連した情報をすべて統制しなければならないというのは国民を子ども扱いすること」だとし、「国民を信じて表現の自由をより積極的に保障しよう」と提案した。また「北朝鮮の本を禁止しながら、果たして韓流を禁止する北朝鮮を非難できるだろうか」としたうえで、「北朝鮮が韓流を禁止しても、我々は北朝鮮の出版物を認めることで、自由民主主義体制の優越性を誇示しよう」と呼び掛けた。「国民意識」を信じて「表現の自由」を保障することで、「体制の優越性を誇示しよう」という主張だ。
ハ議員が開けた風穴は、国民の力の公式見解へと発展した。22日、国民の力のパク・キニョン副報道官の名前で、「金日成が主人公である荒唐無稽な小説、それ以上でも以下でもない」という題の公式論評が発表されたのだ。国民の力は同論評で、今回の金日成回顧録の国内出版が「北朝鮮での荒唐無稽な金日成の偶像化の実体を広く知らせる呼び水になるだろう」とし、「大韓民国の国民意識と体制の優越性を信じて国民に判断を任せよう」と提案した。これにより、国民の力の公式見解が金日成回顧録の出版・販売・購買行為を国家保安法によって規制するのではなく、“放置すること”に決まった。
野党第一党の国民の力が積極的かつ前向きな動きを見せている一方、与党の共に民主党は金日成回顧録の国内出版について26日現在までまだ論評を出していない。国家保安法の改廃に積極的な民主党の慎重な対応は、国家保安法をめぐる理念攻防の揮発性を意識した意図的な“沈黙”といえる。
与党の民主党が“沈黙”を選んだ一方、“沈黙”が不可能な韓国政府は“静観”の構えだ。政府は「出版の経緯などを調べ、統一部レベルで取るべき措置があるかどうかを検討する」という22日の統一部当局者の匿名の論評以降、これと言った反応を示していない。イ・ジョンジュ統一部報道官は26日の記者会見で「市民団体などが回顧録の販売・配布禁止仮処分を裁判所に申し立て、警察も関連調査を進めていると聞いている」とし、「統一部レベルで取るべき措置があるかどうか調べている」と述べた。
行政の主体である政府、立法権を持つ与党と野党第一党が、以前と違って前向きで慎重な態度を示している中、突如現れた今回の金日成回顧録が誰も予想できなかった北朝鮮の報道・出版物の完全開放に向けた呼び水となるかどうか、注目される。
1日に「図書出版民族サランバン」(代表キム・スンギュン)が金日成回顧録を韓国で出版した事実は、21日夕方に「聯合ニュース」で初めて報道された。教保文庫、Yes24、アラジンなど韓国を代表するオンライン書店を通じて販売が始まったという事実が明らかになったことで、「国家保安法違反」をめぐる論争が巻き起こった。社団法人「法治と自由民主主義連帯」は「金日成は戦争犯罪者であり、反人道犯罪者」だとして、24日、ソウル西部地方裁判所に同書の販売配布禁止仮処分申立書を提出した。ここまでは、これまでこのような類の議論の際にいつも目にした見慣れた反応だ。
議論の広がりを受け、国内の書店で最大手の教保文庫は25日、「顧客を保護する」との理由で、販売中止の方針を発表した。「最高裁が利敵表現物と判断した本を購入した読者も処罰され得るという点を考慮し、顧客保護の観点から新規注文を受けないことにした」というのが教保文庫側の説明だ。ただ教保文庫側は「政治的な問題や判断とは関係なく、顧客の立場を最優先に考慮した措置」だとし、「裁判所や刊行物倫理委員会の判断が下されれば、これによって新規注文再開の可否を決定する予定」だと付け加えた。
教保文庫の販売中止は、金日成回顧録を「利敵表現物」と判断した2012年7月の最高裁判決を意識した措置だ。しかし、多くの人が誤解しているのとは異なり、金日成回顧録など「利敵表現物」という裁判所の判断が下された北朝鮮の報道・出版物の所持だけでは国家保安法違反として処罰されない。「利敵表現物所持」処罰規定の国家保安法第7条(称賛・鼓舞など)は、「反国家団体やその構成員、またはその指令を受けた者の活動を称賛・鼓舞・宣伝または同調する(利敵)行為をする目的で、文書や図画、その他の表現物を製作・輸入・複写・所持・運搬・配布・販売または取得した者」を「懲役刑」で処罰できるように規定している。要するに「利敵行為をする目的」が証明されない限り、国家保安法違反で処罰できない。実際、最高裁は2015年11月、「労働新聞」の記事を個人ブログに非公開で掲載し、『金日成選集第1巻』などを持っていたとして起訴されたシナリオ作家の事件について、「利敵行為をする目的は認められない」として、無罪判決を下した。
憲法裁判所も2018年4月の憲法訴願事件で、裁判官9人のうち5人の多数意見として、「流布・伝播行為自体を処罰することで利敵表現物の流通および伝播を十分に遮断できるため、その段階に至らない所持行為を事前に処罰することは過度な規制」だとし、「反対者や少数者を抑圧する手段として誤用・乱用され得る」との判断を示した。ただし当時、憲法裁はこうした意見が違憲決定の定足数(6人)に達せず、利敵表現物所持罪に資格停止を併科するのは違憲だとして提起された憲法訴願事件で、国家保安法第7条(称賛・鼓舞など)に対して「合憲決定」を下した。憲法解釈に関しては最高権威を持つ最高裁判所と憲法裁の解釈が変化を見せているという傾向も、北朝鮮の報道・出版物の完全開放への道がそれほど遠くはないことを示す徴候といえる。