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「鏡のようなお月様、私たちがどんな罪を犯したのですか?」

登録:2018-12-03 21:48 修正:2018-12-04 09:58
済州4・3 椿に尋ねる 2部(7)
虐殺の夜、生き残ったおばあさんが月を見て口ずさんだ
済州4・3の時に父親と上の姉を失ったイ・ジェフ氏が当時の経験を話している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 父親(イ・ハンスク)は同じ村の姻戚の叔父と共に済州邑北村里(プクチョンリ)のヘドン村の岩の隙間に身を隠し、西側のモンチュギアルの断崖をじっと凝視していた。北村里の住民たちも多くいた。1948年12月11日午後5時、「タン、タン、タン」という銃声が聞こえた。軍人は北村から連れてきた女性を海辺の断崖に立たせ引き金を引いた。銃に撃たれた女性は落葉のように断崖の下に落ちていった。

 ヘドン村は、咸徳(ハムトク)海水浴場そばの犀牛峰(ソウボン)を巡る済州オルレ(小道)18コースが通る所だ。北村小学校から1キロメートル余り離れた村は海辺にあり、西側にモンチュギアルの断崖がよく見えた。しばらくして2連隊の軍人が撤収すると、父親は姻戚の叔父や村の住民たちと共に、一番上の姉(イ・ソンファン・当時21)の遺体を運んできて北村小学校の西側に仮埋葬した。上の姉は結婚して1年ほどの新婦だった。先に捕えられた姉の夫は行方不明だった。

 軍人たちが村で悪行を日常的に行い、一番上の姉と若い女性たちは彼らを避けて村の近隣の洞窟に身を隠した。だが、軍人たちに見つかり、多くの苦難に遭って断崖の処刑場で花のように美しく短い生涯を終えた。

犀牛峰に沿って巡る済州オルレ18コースの海に飛び出している部分がモンチュギアルの断崖だ=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

新婦だった長姉は断崖で銃殺された

 長姉を埋めた日の夕方、母親(ウォン・ヒファ)は父親と姻戚の叔父を迎えるために食事を準備していた。9歳だったイ・ジェフ氏(79・済州市朝天邑北村里)は、母親の横に座った。父親が口を開いた。「娘は私たちの手で埋めたが、俺たちが死んだら誰が埋めてくれるだろう」。座っていた人々は泣いた。イ氏は「時局が異常に流れているので、父親も迫りくる運命を予感していたようだ」と話した。

 長姉と若い女性たちを虐殺したのは2連隊の軍人らだった。彼らは洞窟で見つけた女性たちを咸徳大隊の本部に連行した。イ氏は「捕えられた日は正確には分からないが、そこに10日あまり監禁されていて犠牲になったと聞いている」と話した。

4・3の時、父親と姉を失った済州北村里のイ・ジェフ氏
軍人の悪行被害を避けるために洞窟に身を隠した長姉は断崖で銃殺され
父親は1カ月後、北村里大虐殺で犠牲に
生き残った下の姉妹ははしかで亡くなり
「最後の願いは国家賠償を受けて碑石を立てること」

 長姉が死んでから5日後の1948年12月16日、今度は村を守って軍・警察に協力していた住民(民保団員) 24人が、ネンシビルレ(ナズナ畑、北村里と東福里(トンボンニ)の境界)で集団虐殺された。

 さらに大きな死の恐怖が村を襲った。翌年の1949年1月17日、北村里全体が炎に包まれた。北村小学校近隣のノブンスンイで武装隊の襲撃を受けて部隊員2人を失った軍人が、報復のために家々に火を付けた。彼らは老若男女の区別なく村の住民全員を学校の運動場に追い立てた。イ・スンジェ氏(85)は「家から出て運動場に行って見ると、火が赤く燃え上がっていた」と話した。

イ・ジェフ氏が4・3の経験を話しながら、込み上げたように涙まじりに話している=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 銃に帯剣を挿した軍人たちは、北村里の路地のイ氏宅にも押しかけた。着剣した銃で門を破り開け放した後に、運動場に出てこいと脅した。父親が先に出て行き、母親は兄(当時13)と二番目の姉(当時11)、妹(当時4)が後についていった。イ氏は祖母(当時50代半ば)の手を握って家を出た。イ氏は「祖母のスカートの中に隠れて、ひよこのように首を出して見ていた。学校の南側の正門と東・西側の垣根の周辺に銃を持った軍人の姿が見えた。銃声が聞こえ、人々は学校の外に連れ出された」と当時を回想した。軍人たちは、住民を近くの畑に連れて行き銃殺し始めた。運動場は文字どおり阿鼻叫喚の地獄だった。

 『済州4・3事件犠牲者合同慰霊祭資料集』には、この日犠牲になった住民だけで282人にのぼると書かれている。犠牲者の中には、イ氏の父親もいた。父親が死んだところは、ノブンスンイ近隣のケスワッだった。この日の午後5時頃、指揮官が乗ったジープが咸徳からきて虐殺劇は止まった。この日の虐殺を主導した2連隊3大隊は、38度線を越えてきた西北青年団員を中心に編成されたため「西北大隊」と呼ばれていた。

「あまりに佗びしくて涙も出ない…私たちが何の過ちを犯したんですか」

 強風の中で降りしきる雪が飛び散り、煙と強い臭気が村を覆った。家に戻ると穀物と家畜が焼ける臭いで喉がつまった。村のわらぶきの家はほとんどが焼けていた。軍人たちはイ氏の家にも火をつけたが、幸い火は広がらなかった。家を失った住民20人余りがイ氏の家に集まった。住民たちは焼け死んだ豚を運んできて釜で茹でた。また別の釜には粟を入れて粟飯を炊いた。

済州の北村小学校の一角には「済州4・3北村住民の惨事現場」という碑石が立っている=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 この日は陰暦十二月の八日。遅くにのぼった冬の月が、焼けた北村の村を照らしていた。祖母は家の中庭に立って、イ氏の手を握って月に独り言をつぶやいた。

 「鏡のようなお月様。私たちがどんな罪を犯したのですか?教えてください。黒いのがカラスで、白いのがシラサギと知っていて、祭祀があれば料理も分け合い、隣家で赤ん坊が泣いていれば乳を含ませ、雨が降れば甕に蓋をして、そんな風に平和に生きてきた私たちに、何が足りなかったのですか」

 しばらくすると母親が帰ってきた。母の着ていた葛衣(済州の伝統的な仕事着)と履いていた黒いゴム靴には血糊がついていた。手を洗った母親が村のおとな10人余りが集まって座った台所に入ってきて話した。

済州4・3当時の北村小学校=資料写真//ハンギョレ新聞社

 「あまりに佗びしくて涙も出ない。食べよう、食べよう。今夜のことも分からない。明日のことも分からない。腹いっぱいに食べて死のう」。誰かが「お父さんはどうしたのか」と尋ねると、お母さんは「見つけて、かますで覆ってきた」と答えた。すると大人たちは「誰それのお母さんはどのように死んだよ」とか「誰君のお父さんはどこで死んだよ」という話をやりとりした。

 粟飯をくり鉢に盛り、茹で豚を粟わらの上に出した。そこにいた大人たちは、肉を手づかみで食べ、ご飯も手で食べた。「その日は終日そんなことがあって、次の日は死ぬのだろうと思って、人々は気が抜けた状態だった。夫と妻、両親・兄弟が死んで、泣いても泣き切れないのに泣く人はいなかった。ただ魂が抜けたような状態だった。あの日祖母と母親が言った言葉が今も忘れられない」

 翌日、北村里の住民たちは近隣の咸徳里に疎開させられた。そこでまた数十人が銃殺された。イ氏の家族は、咸徳里の上の叔母の家の牛小屋を借りて暮らし、1949年4月頃に故郷に戻った。「男のいない村」になった北村里の女たちは、わらぶき屋根の茅をつないで、夫や両親・兄弟の遺体を収拾して村の再建を始めた。その頃、済州にはしかが流行した。虐殺を免れた子どもたちが無念にも死んでいった。イ氏の二番目の姉と妹もはしかで亡くなった。

盗んださつまいも一つ、愛の米一握り集め運動に

 4・3が起きた時、イ氏は小学校2年生だった。だが、学校はまもなく廃校になった。近隣の咸徳中学校の1年に通っている時は、同じ村の友達がさつまいもを盗み食いしたことを忘れられない。当時、北村里の子どもたちは「暴徒の子」と蔑視されて、ご飯もまともに食べられなかった。せいぜい小麦粉にヨモギやヒジキを混ぜて一日一食で済ませていた。

イ・ジェフ氏=済州/ホ・ホジュン記者//ハンギョレ新聞社

 「ある友達が畑でさつまいもを一個掘って、畑の主人が来たので逃げた。翌日、畑の主人が学校に訪ねてきて、校長先生に抗議した。体育の先生が授業が終わった後に北村里の生徒たちを運動場に集めて、体罰を加えた。精魂尽きた子どもたち3人が先生の前に出てきたが、一人の友達が泣きながら告白した。「お父さんは4・3の時に行方不明になって、お母さんと弟妹二人と暮らしているが、家に食べものがなく昨日も学校に来て水を飲んだだけです。先生許してください」と言った。体育の先生は心を動かされたのか「もう良し」と言って皆に帰れと言った。その場面を子どもたちは皆見ていた。翌日その先生が友達の机に弁当を持って行った。友達が立ち上がって先生のいない教卓に向かって大きな声で「ありがとうございます」と叫ぶと、友達は拍手した。班長が出てきて「腹がへった子どもたちのために、愛の米一握り集めをしたらどうか」と提案し、生徒たちが拍手でうなずいた。すると2、3年生にも知らされて、生徒会全体で愛の米一握り集め運動が広がった。その時さつまいもを盗んだ友達は、生涯を他人に喜んで施して、あの世に逝った」

 お母さんは懸命に働いた。イ氏は「独り身の母が、馬車に他人の荷物を積んで済州市内に売りに行き、私たちを食べさせてくれた。潮時になれば海辺で漁をして、畑も耕して、焚きものを拾い、馬車に載せて売りに行った」と回顧した。

 イ氏は10年余り前から、国家賠償がなされなければ4・3は解決されないと話してきた。「事実を明らかにし、許して和合の道に進まなければ。過ちがあったのなら政府が責任を負わなければならないのではないか?無念の死に国家賠償がなされれば、その金で碑石を立てたい。『4・3によって亡くなり、政府の支援を受けてこの碑石を立てる』という字句を碑石に刻みたい」。八十路を眺めるイ氏の切実な希望だ。

ホ・ホジュン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/area/871946.html韓国語原文入力:2018-11-27 13:48
訳J.S

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