4月に出版された全斗煥(チョン・ドゥファン)回顧録は、警察組織に少なからぬ傷を負わせた。全斗煥氏が警察の無能ゆえに1980年当時戒厳軍を投じざるをえなかったかのように述べたが、反論するための資料がなかったためだ。回顧録で問題になったのは「光州(クァンジュ)事態の初期に警察力が無力化され、戒厳軍がデモ鎮圧の前面に立たざるをえなくなったのは、全羅南道警察局長(アン・ビョンハ治安監)の重大な過失のせいだった」という部分だ。警察の英雄であり5・18有功者に選ばれた先輩を蔑視する発言に、警察部内の雰囲気は尋常でなかった。カン・ソンボク全羅南道地方警察庁長は「5・18警察責任論に対して真相調査や記録がない警察は沈黙するほかはない。これ以上遅くなる前に、生存警察官の証言と資料を収集し、歴史歪曲を正して真実を糾明することに努めなければならない」として、調査チームを設けた。
発砲命令者やヘリコプター機銃射撃など、真実を正せなかった部分が多いが、当時現場に最も近くいた警察官が今からでも話して明らかにしなければならない内容は4種類に要約された。市民が武装し、軍が自衛権次元で発砲したのであり、戒厳軍撤収以後に光州市内は犯罪が幅をきかす無法地帯だったという古くさい主張だ。また、市民軍が光州刑務所を何回も襲撃し、北朝鮮軍数百人が光州に潜入しデモを主導して立ち去ったという呆れ返る説も対象だ。彼はこうしたとんでもない主張が光州市民と一般国民を仲違いさせる高度な心理戦だった可能性があると分析した。
警察は、市民軍が6回にわたり光州刑務所を襲撃したという軍の主張は、当時の刑務所長の証言で覆ったと明らかにした。1980年5月当時、光州刑務所長だったH氏は、警察側との面談で「第3空輸旅団の兵力が重武装をしていて、刑務所襲撃などは想像もできなかったし、戒厳軍が市の近隣地域へのデモ拡散を阻むために無差別発砲したと理解している」と述べた。警察はこれについて潭陽(タミャン)など郊外に進出しようとする市民軍の活動を意図的に誇張・歪曲することにより、暴力性を強調するためのねつ造と推定した。当時刑務所には空輸部隊旅団の兵力が駐留中であり、カービン銃で武装した市民軍が攻撃するということは無謀かつ非現実的だった。
警察は北朝鮮軍介入説に対しては、常識外れの主張だと結論を下した。1980年当時、警察はデモ人員、構成指向、主義主張、デモ用品などを詳細に分析し対応方向を定めており、戒厳軍が撤収した5月21日以後にも光州市内23カ所に情報センターを設け、情報・保安刑事130人が活動中だった。中央情報部など他の機関を含め細かい情報活動が集中していたにもかかわらず、数百人の北朝鮮軍が活動し一斉に立ち去ったということはありえないという結論だ。これを大多数の現場警察官の証言で再確認した。当時作成された軍と情報機関の書類のどこにもこのような内容は言及されていない。
光州市内で凶悪犯罪が頻発したという説は、当時の警察への申告内容と関連記録、証言を検討した結果、事実無根と結論付けた。武装暴徒によって市内一円が殺人や略奪などの犯罪が幅をきかす無法地帯だったという主張は、戒厳当局の歪曲だということだ。当時、光州市内の多くの金融機関には被害がまったくなかったし、光州市内の秩序も比較的安定的に維持されたということがその根拠だ。警察は、生活必需品が不足しても光州の市民は互いに助け合い配慮する共同体精神を見せたと評価した。