1980年5・18抗争当時に市民軍の拠点であった旧全羅南道道庁の武力鎮圧に乗り出した空輸部隊が、5月27日未明に陸軍航空団に「武装ヘリコプター」の支援を要請した軍文書が初めて確認された。これは、空輸特戦部隊の鎮圧作戦時にヘリコプターによる無差別射撃を現場で目撃したという当時市民軍のキム・インファン氏(58)の主張を裏付ける。
ハンギョレが31日に確保した戦闘教育司令部の80年5月27日付作戦日誌を見れば、「04:51付 3旅団武装Hel(ヘリ)機支援要請」と記されている。空輸特戦部隊である3旅団は、7・11旅団より遅れて5月20日に光州に投入され、戒厳軍のいわゆる「尚武忠正作戦」時に旧全羅南道道庁を鎮圧した。この文書の受話者欄には「航空連絡将校05:35支援」と記されていて、実際にヘリコプターが現場に投入されたことを示している。
武装ヘリコプターとは、通常500MDと20ミリバルカン砲を装着する攻撃用ヘリコプター「コブラ」(AH-1J)2種を指す。当時3空輸旅団が実際にどんなヘリコプターの支援を受けたのか、誰がヘリコプターの操縦士として参加したのかなどが、今後の再真相調査の過程で明らかにならなければならない点だ。今回の文書にはまた「5:04 捕虜3人生け捕り(全日ビルディング)」という記述も出てくる。全日ビルディングは、旧全羅南道道庁近隣の建物で、5・18当時の弾痕が発見され、昨年12月には国立科学捜査研究院の調査を通じて5・18当時ヘリコプターの「機銃掃射」(機関銃連発射撃)の事実が明らかになったところだ。
これまで20師団兵力が5月21日にヘリコプターの支援を要請したという事実が軍文書を通じて確認されたことはあるが、道庁鎮圧時に空輸部隊による武装ヘリコプター支援要請事実を記録した軍文書の公開は今回が初めてだ。これに先立って5・18当時、光州に出動したヘリコプターの操縦士が89年2月に検察に提出した告訴状を通じて、31航空団の副操縦士(当時大尉)が「5月21日から28日まで『コブラ(ヘリコプター)』の副操縦士として参加する地上軍空中援護任務に従事し、20ミリバルカン高爆弾を積載した」と明らかにした陳述書が公開され、「コブラ」武装ヘリコプターの出動事実が確認されていた。
こうした事実は、戒厳軍の光州鎮圧作戦時に旧全羅南道道庁で抵抗した市民軍キム・インファン氏(58・当時全南大工学部3年)の証言とも一致する。キム氏は5月27日未明、旧全羅南道道庁の裏門で歩哨に立っている間、ヘリコプターによる射撃で高校時代の友人であるソ・ホビン氏(21・当時全南大工学部3年)が亡くなる場面を目撃した。キム氏は31日、ハンギョレとの通話で「(戒厳軍が)ヘリコプターからロープを伝って360度くるくる回りながら無差別射撃をした」として「ロープを伝って降りてきて銃を撃ったのに、ヘリコプターからは射撃をしなかったというのか。ヘリコプターからも銃を撃った」と話した。ソ氏は光州抗争当時、ヘリコプターによる射撃で亡くなった状況の目撃者がいるきわめて珍しいケースだ。
キム氏は「空輸部隊がまさか射撃するとは考えられず、降服しろということだと思ったが、無差別射撃をした」として「すぐそばで歩哨に立っていた友人のホビンが銃に撃たれて“ズルズル”と這って行く姿を見ていながら何も出来なかった」と話した。「戒厳軍に向かって引き金を引くことはできませんでした。友人のホビンと両側から撃っていれば彼らが死んだでしょう。でも私と同じ年頃の若い兵士に向かって銃を撃つことはとてもできませんでした…」。キム氏は「私以外にも当時市民軍の6人もホビンがヘリコプターから撃った銃に撃たれたのを目撃した可能性が高い」と話した。
ヘリコプター射撃をめぐる論議は、今後5・18真相究明の過程で明らかにしなければならない核心争点だ。5・18研究所のチョン・スマン非常任研究員は「21師団のみならず空輸部隊が光州最後の鎮圧作戦に武装ヘリコプターの支援を要請したという軍文書は、当時の戒厳軍の暴力性と野蛮性を示す重要な証拠」と話した。