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金泳三元大統領に学ぶべき“四つの決定的な場面”

登録:2015-11-27 00:16 修正:2015-11-27 06:04

 26日、ソウル銅雀区にある国立ソウル顕忠院に永眠した金泳三(キム・ヨンサム)元大統領は生粋の政治的勝負師だった。彼は常に勝つ政治家ではなかったが、彼が投げかけた言葉と行動は、暗鬱な現代政治史の主な転換点となった。

金泳三元大統領(中央)//ハンギョレ新聞社

■40代旗手論...野党に新風

 韓国政治史において、初めて政治的世代交代論を掲げたのは金泳三元大統領だった。1969年11月8日、新民党の院内総務だった金泳三元大統領はソウル南山の外交クラブでの記者会見で、1971年の大統領選挙候補選挙への出馬を宣言した。政界入門から15年、42歳の時だった。彼は「私たちは今、偽装された民主主義の中で暮らしている。私自身1971年に必ずわが党を勝利に導き、韓国国民の偉大さを世界に誇れるようにする」と気炎を吐いた。当時のユ・ジンサン新民党総裁は彼を「青二才」「口がまだ乳臭い」とまで言い放った。

 金泳三元大統領が掲げた40代旗手論は野党内部にダイナミズムをもたらすと共に、有権者にとって強力な政治的希望と具体的願望を抱かせる旋風を巻き起こした。それから当時45歳の金大中(キム・デジュン)元大統領、49歳のイ・チョルスン氏が相次いで出馬を宣言し、40代待望論に発展した。

金泳三元大統領//ハンギョレ新聞社

■議員除名と朴正煕政権の崩壊

 1975年5月13日に宣言された緊急措置9号はいつ終わるとも知れなかった。維新憲法を否定するのはもちろん、流言飛語を流すことさえも禁止された。禁止措置を誹謗することも処罰の対象となった。(国民の)怒りが噴出するきっかけの一つが、金泳三元大統領の国会除名事態だった。こうした状況下の1979年5月に新民党総裁になった金泳三元大統領は、維新政権に対する強力な反対者の役割をいとわなかった。「YH貿易事件」に続き、朴正煕(パク・チョンヒ)政権を批判する米国ニューヨーク・タイムズ紙のインタビュー記事が出ると、与党の共和党は、彼の懲戒処分案を発議した。懲戒事由には、「暴力革命の信奉者」があった。金泳三元大統領は「7選の最多選議員である私は議会制民主主義の信奉者だ」と言ったが、中秋節の前日である同年10月4日に議員から除名される。新民党総裁の肩書だけが残った彼は「国会を離れるが、民主主義のために党を統率する人として、正々堂々と戦う」として、院外闘争を決意した。議員除名は、釜山(プサン)と馬山(マサン)を中心とした大規模なデモとなる「釜馬抗争」につながり、政権内に繰り広げられた権力をめぐる暗闘は結局、金載圭(キム・ジェギュ)中央情報部長の朴正煕暗殺(10・26)につながる。

金泳三元大統領(左から2番目)と金大中元大統領(左から3番目)=民主化運動記念事業会/京郷新聞

■新軍部に対抗した23日間のハンスト

 「在野政治家の食事問題」。野党の闘士として金泳三元大統領の底力が発揮された瞬間を、当時の国内メディアはこのように表現するしかなかった。全斗煥(チョン・ドゥファン)政権のもと、自宅に軟禁されていた彼は、光州(クァンジュ)民主化運動3周年の1983年5月18日から、ソウルの上道(サンド)洞にある自宅で民主化を求める5項目の声明を発表してから、食事を絶った。 23日間続いたハンストは、国内外のメディアの注目を集めた。当時民主化推進協議会(民推協)共同議長を務めたキム・ドクリョン氏は26日、「命をかけて23日間ハンストを行った当時、懇々と説得した。(キムヨンサム元大統領の)断固とした性格や決心、意志からして、(命が)危なく、不幸が予想される状況だった」と振り返った。ハンスト以降、彼を含む野党政治家の政治的な活動幅も広がった。金大中元大統領の東橋(トンギョ)洞派と共に、民推協を結成する土台を提供した。

軍将軍たちと金泳三大統領(前列中央)//ハンギョレ新聞社

■ハナ会の解体...クーデターの心配のない国

 大統領就任式を終えて半月も経たない1993年3月8日、金泳三元大統領はキム・ジニョン(陸士17期)陸軍参謀総長とソ・ワンス(陸士19期)機務司令官を電撃的に更迭する。文民政権の最大の成果の一つに挙げられる、軍部の核心私組織である「ハナ会」粛清の信号弾だった。彼は更迭の翌日、大統領府会議で「びっくりしただろう?」という有名な言葉を残した。パク・グァンヨン元国会議長はハンギョレとの談話によるインタビューで、 「金泳三元大統領は就任前から予備役将軍たちに会うなど、ハナ会の解体と軍改革を心に決めていたようだ。就任後大統領秘書室長である私までも(ハナ会粛清)人事当日にその事実を知らされたほど、極秘裏に進められた」と回顧した。政治学者たちは、軍事独裁から抜け出したほとんどの国が常にクーデターの脅威にさらされていたのとは異なり、韓国が「クーデターの心配のない国」となったのは、金泳三元大統領のハナ会粛清が決定的な役割を果たしたと評価する。

キム・ナムイル記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-11-26 19:43

https://www.hani.co.kr/arti/politics/politics_general/719263.html 訳H.J

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