登録 : 2015.06.22 00:13 修正 : 2015.06.28 06:19

父親の死を追い続ける遺族ムン・ヤンジャ氏

ムン・ヤンジャ氏は2枚の写真を肌身離さず持ち歩く。父親の証明写真と、亡くなる直前に撮られたと見られる虐殺現場の写真だ=キム・ポンギュ記者//ハンギョレ新聞社

唯一顔が見える大田山内虐殺犠牲者
証明写真の人物と果たして同一人物だろうか

 1953年7月27日に締結された停戦協定で始まった休戦は、60年が過ぎた今も続いている。 まだ終戦できない休戦体制なので、私たちは未だに勃発した日(6・25)を基準として戦争を記憶する。 戦争が終わった日を“記念”する国々と韓国はそこが違う。 終わらない戦争は国家と国民のアイデンティティになり、反共は国是になった。 ある人はひっそりと生きていかねばならなかったし、またある人は“アカの家族”と後ろ指をさされることが恐れて、失踪した家族を探すこともできなかった。 ムン・ヤンジャ氏(71)は、朝鮮戦争直後に大田(テジョン)刑務所を巡って起きた民間人虐殺事件で父親を失った。 57年間、父親の生死が分からなかったムン氏は、二枚の写真を肌身離さず持ち歩く。 父親の証明写真と、亡くなる直前に撮られたと見られる虐殺現場の写真だ。 ムン氏は人に会うたびに二枚の写真を見せて尋ねる。「この人が父ではないのか?」と。その切羽詰まった表情と、とてもよく似た二枚の写真を見て、人々は「そのようだ」と答える。 戦争で父親を失って、人生を根こそぎ崩されたムン氏は、どうしようもなく父親が懐かしい。 ムン氏が記憶する、別れる前に最後にムン氏を見つめた父親の姿は、虐殺現場の写真の顔とそっくりに見えた。

見て、うちのお父さんに間違いないでしょ? そうでしょ? 違うって?

ムン・ヤンジャ氏の父親に関する取材を始めた契機は写真でした。65年前に撮られた米国立文書保管所から出てきた写真の中の人物が自分の父親だと言うムン氏の話が載せられた写真記事が出発点でした。父親を失った娘の過去の時間と、娘が知らなかった父親の時間が交わったかに思えました。ところが取材中に堪え難い状況が起きました。 父親に対する娘の愛情が客観的には信じ難いことを信じさせたのです。

 切迫して悲し気な顔がカメラを見つめている。 すでに銃に撃たれて着た服が血に染まっているのか、あるいは撃たれる前に地面にうつ伏せにさせられた直後なのかは分からない。 白黒の写真で赤い色を見て取ることは難しい。 写真の左側の人の足を掴んでいる人は動いたためにブレて写っている。 およそ数十体の死体が転がっているくぼみに投げ入れようとしているところなのだろうか。 写真を撮った人は小心だった。 ある日ある時に撮った一連の写真は、虐殺者らの後方とか、少し離れた場所から見た姿だ。 トラックから降ろされた服役者、くぼみの前で射撃準備をする軍人、くぼみの下へとどめの一発を撃つような軍人の姿のうち、顔が正面から見えている写真は唯一この写真のみだ。 撮った人も驚いたのだろう。 写真の中の人物がカメラのシャッターの音に気がついてわざわざ振り向いたのかもしれない。いや、写真を撮った人に大声を張り上げて叫んだのかもしれない。 自身の顔を知り合いが後日見てくれることを、その瞬間に気も狂わんばかりに望んだのかも分からない。 57年後にこの写真を通じて自身を探してくれた人が現れるという事実は知るよしもなかったが。

先月27日、遺体埋葬地を訪れたムン・ヤンジャ氏が土を盛った墓を見つめている。民間人虐殺遺体発掘共同調査団は今年2月、市民の募金で500坪ほどの埋葬推定地を賃借し、幅3メートル長さ7メートルのくぼみから20体ほどの遺骨を発掘した=大田/パク・キヨン記者//ハンギョレ新聞社

6900人…当時の民間人虐殺の中で最大規模

 切迫し悲し気な顔の写真は、在米史学者イ・ドヨン博士が1999年12月に米国立文書保管所(NARA)で捜し出したものだ。 写真は同じ日、同じ場所で撮った別の17枚の写真と共に“韓国の政治犯処刑”という報告文に付けられていた。イ博士が見つけるまで秘密にされていたものだ。 全て朝鮮戦争が勃発した直後の1950年7月第1週のある日、大田山内面コルリョン谷(現、大田市東区郎月洞)で起きた民間人虐殺事件の現場を撮った写真だ。

 駐韓米国大使館に派遣されたボブ・エドワーズ中佐は、その年の9月23日にワシントンの米陸軍情報部に送った報告文で「戦争勃発後、韓国警察は集団的な虐殺を行った。(中略)ソウルが陥落した後、北朝鮮軍が刑務所の服役者を釈放する可能性を遮断するため数千人の政治犯を数週間で処刑(execution)した」と書いた。 中佐が米本土に報告文を送った時点は、すでに最大6900人の民間人がコルリョン谷で虐殺された後であった。 虐殺を実行したのは、忠清南道地区陸軍特務隊(CIC)と第2師団憲兵隊、大田地域警察などで、当時全国で起きていた国家公権力による民間人虐殺事件の中で最大規模であった。

 公権力による虐殺対象は主に政治思想犯だった。 戦争勃発の二日後である6月27日、大田に避難した李承晩政府は7月14日に国連軍司令官に国軍の指揮権を渡し、さらに南方の大邱(テグ)に後退した。この過程で韓国政府は大田刑務所にいた済州(チェジュ)4・3事件、麗水(ヨス)順天(スンチョン)事件関連者と政治思想犯、10年以上の懲役刑を受けた服役者を大田・忠清(チュンチョン)地域の保導連盟員らと共にコルリョン谷で銃殺し埋葬した。 北朝鮮軍に協力する恐れがあるという理由からだった。 当時の大田は、基幹鉄道である京釜(キョンブ)線、湖南(ホナム)線の分岐点で、5本の幹線道路が放射形に交差する交通の要地であった。 定員が1200人の大田刑務所には、大田以北から移送された約4000人の服役者が収監されており、このうち半数が政治思想犯だった。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時期の2005年にスタートした「真実・和解のための過去事整理委員会」(真実和解委)が、当時の虐殺現場を目撃した人の陳述を記録した文書によれば、「服役者を座らせくぼみ側を向かせ、服役者の後頭部に向けて(銃を)撃った。血と骨髄が飛び散り、ズボンがドロドロになると軍服を着替えさせ、銃口を頭にぴたっと押しつけさせた。くぼみに死体があふれると、憲兵指揮官が人々に山の上から石を転がして、死体を押しつぶすようにした」と記されている。 6月28~30日に強行された1次虐殺で1400人、7月3~5日の2次虐殺では1800人が犠牲になった。 韓国政府が大邱に後退した時である7月6~17日の3次虐殺時は1700~3700人が正当な法的手続きも踏まずに虐殺されたと推定されている。 1・2次虐殺の後、大田刑務所に新たに入ってきた服役者たちだった。

 3回の虐殺の様相は殆ど同じだった。憲兵と警察は大田刑務所服役者をトラックに乗せて山内に連れて行き、終日銃殺し続けた。 警察が周辺を警備し、青年防衛隊と山内住民たちが深さ1.5メートル、長さ数十メートルの穴を掘り死体を埋めた。当時の現場を米極東軍司令部駐韓連絡事務所の総責任者エボット少佐が写真に収めた。小心な米軍少佐のカメラに、切迫し悲し気な顔が残ったのは、2次虐殺の行われた7月3~5日だった。

 写真が世に公開されたのは1999年12月のことだが、それから7年後の2007年に写真に撮られた人物を探している人が現れた。遅れて写真を見たムン・ヤンジャ氏(71)であった。 社団法人大田山内事件犠牲者遺族会の事務室入口に展示されていた写真の中の人物は、ムンさんが記憶している父親の最後の姿とあまりにも似ていた。 ムン氏は幼時から肌身離さず持っていた父親の証明写真を取り出して人々に見せた。そっくりだった。 皆が驚いて不思議がった。 先月25日、大田梧柳洞(オリュドン)の遺族会事務室でムン・ヤンジャ氏に会った。彼女は言った。

 「実家の母は90歳を超えましたが、すぐ分かりました。写真の専門家も訪ねて行き、裁判に使うかもしれない肖像画家も探して行ったけど、皆『お父さんに間違いない』と言いました」。ムン氏は「ようやくお父さんが見つかった」と思った。 ある日、雪の道を連行されたお父さん、その後生死も分からずに探し回ったお父さんが、こうして亡くなったんだなと思った。

 「お父さんが連行される途中で振り返ったことが記憶に残っています。 写真でも同じ格好でしょう。 首を回して見つめる。ちょうど同じ姿でした」

 ムン氏は考えれば考えるほど悲嘆に暮れた。真実を明らかにし、無念に亡くなった父親の怨みを慰霊しなければならなかった。そうしてこそ父親が連行されたその日以後、根こそぎ滅茶苦茶にされた自分の人生も慰められると思った。

遺体がくぼみに投げられる直前に
うつ伏せになって振り向いた一人の男が
写真の中でこちらを見つめていた
後日、自身の顔を見つけてくれと
その瞬間に気も狂わんばかりに願ったのか
写真が初めて公開されたのは1999年
山内虐殺被害者の遺族ムン・ヤンジャ氏は
2007年に初めて写真を見て驚き
肌身離さず持っていた行方不明の父親の
写真とあまりに似ていた
疑いの余地はなかった
「徐々に土の中に沈んで行った肉と骨」

 最後にムン氏が見た父親、ムン・サングク氏はまだ31歳だった。日帝時に郡庁公務員で、解放後には新聞社で記者として仕事をしていた父親はしばしば家にいなかった。幼い娘が少しでも具合が悪ければ父親におんぶされた。父親はちょいちょい幼い娘を膝に座らせ「これからは女も勉強しなければいけない」と話した。父親が留学させたいと願った幼い娘は、結局生涯学校に一年しか通えなかった。 父親の生涯の二倍を生きて、もう大きくなってしまった娘のムン氏は、父親と過ごした最後の日を鮮やかに覚えている。

 大雪が降った1950年の冬のある日、大田の加陽(カヤン)洞だった。 ムン氏の家族が暮らしていた「敵産住宅」の台所で、母親が炊きたてのご飯を膳にのせて部屋に持ってきた。 父親はその年の7月に生まれたばかりの妹を抱いていた。ムン氏は7歳、ムン氏より2歳下の弟は田舎の祖父の家で離れて暮らしていた。

 弟を抱いた父親がご飯を一口食べた時、誰かが門の外で父親を呼んだ。膝から赤ん坊を下ろした父親が外に出た。幼いムン氏も後に付いていった。 警察の制服のような服を着た男が3人いた。彼らは何も言わずに父親の両腕を掴んで黙って門の外に引張って行った。 ムン氏が父親について行こうとすると、父親の腕を掴んでいなかった男が近寄り背中をたたいた。

 「子供は家に入っていろ。家に戻れ。あさってにはお父さんが帰ってくる」

 父親は膝まで雪が積もった道を3人の男に引きずられて行った。振り向いて幼いムン氏を見つめた父親の姿がムン氏の網膜に焼き付いた。それが父親の最後の姿だった。その日に見た父親の姿を57年過ぎた2007年のある日、一枚の写真の中に発見したわけだ。

 大田山内虐殺事件は大きく見れば戦争当時に全国各地で起きた保導連盟員虐殺事件の一つだ。 李承晩(イ・スンマン)政権は1949年、左翼転向者などを統制し懐柔する目的で30万人に及ぶ人々を保導連盟員として組織し、翌年に戦争が勃発すると集団虐殺した。 だが、山内で亡くなった人々はムン氏のお父さんのように保導連盟員ではない人の方が多かった。 山内虐殺事件は最大6900人に達する程に犠牲者の規模が大きかったので、虐殺の様相もおぞましいものだった。 特派員だった英国の日刊紙デイリーワーカーのアラン・ウィニントン記者は3回の虐殺が終わった直後にコルリョン谷を訪れ悲劇の現場を記事にした。 彼は1950年8月9日付の記事「私は韓国で真実を見た」で「7月16日、人民軍が米軍の錦江戦線を突破すると、残っていた政治犯に対する虐殺が(再び)始まった。この日、無数の女たちを含め少なくとも100人ずつトラックで37台、3700人余が死んだ」と書いた。 記者はこの記事で「一歩動く度に徐々に土の中に沈んでいく肉や骨を見ることができた。 その臭いは喉まで入り込み、その後の数日間はその臭いを感じるほどだった。大きな死体のくぼみに沿って、青白い手、足、膝、肘、ゆがんだ顔、弾丸に撃たれて割れた頭が土の上に突き出していた」と書いた。

 真実和解委が2010年6月に出した真実糾明決定書には、当時死体を収容するために山内に行った遺族たちの証言が含まれている。「谷のあちこちに幾重にも積み上げられた死体がひどく腐敗していて、家族の遺体を収容することはできなかった」と話した人々は改めて絶望して嗚咽した。

 虐殺があった後、こちらは本来の地名である袞龍谷(コンリョンゴル)でなく「コル(骨)リョン谷」と呼ばれた。一時死体の腐敗臭が鼻を刺した谷は、現在は大部分が農地に変わったが、今も絶えず遺骨が出てくる。 教会の建物を作る時も、新道を作る時も遺骨が出てきた。 農作業をして土地を耕すたびに遺骨が飛び出してくる。「からだに良い」と言って約30年間ここで遺骨を掘り出し売った人もいた。 ここで犠牲になった人々は最大6900人に達するが、今までに発掘された遺骨は数十体に過ぎない。真実和解委が過去の記録などを検索し267人の身元を確認し、2007年に34体の遺骨を発掘したのみだ。 市民社会団体が作った「韓国戦争期民間人虐殺遺体発掘共同調査団」が今年2月に市民の募金でコルリョン谷の遺体埋葬推定地を賃借し、幅3メートル、長さメートルのくぼみから20体ほどを追加発掘したのが最後だった。

2月23日、大田東区郎月洞の山内事件犠牲者遺体埋葬地で会ったムン氏が、父親の証明写真を出して見せている。 ムン氏は肌身離さず父親の写真を持ち歩いている=大田/キム・ポンギュ記者//ハンギョレ新聞社

“人民軍による虐殺”は51年から追慕

 戦争がもたらした悲劇はコルリョン谷にだけあるわけではない。当時、大田で民間人を虐殺したのは韓国政府だけではなかった。 1950年7月21日、大田を占領した北朝鮮人民軍は、民間人と左翼人士をコルリョン谷で殺害した加害者や大田・忠清南道地域の右翼人士を捕らえた。捕らえられた人々は「人民教化所」に一変した大田刑務所に収監され、人民軍の戦況が不利になった9月に集団処刑された。 朝鮮労働党は仁川上陸作戦で戦況が不利になると人民軍前線司令部に後退命令を下し、各地方党に「国連軍上陸時、支柱になるすべての要素を除去せよ」と指示した。 人民軍は9月25日未明から27日までの3日間、大田刑務所収監者を集団処刑した。 収監者のうち約500人は大田刑務所内の畑や井戸などで犠牲になり、約600人は刑務所近隣の龍頭山(ヨンドゥサン)で犠牲になった。 2008年、真実和解委は「調査の結果、良民を弾圧・拘束・殺害したという理由で収監された忠清南道地域の右翼人士1557人が人民軍の後退前に大田刑務所などで犠牲になったことが確認された」と明らかにした。

 戦争が勃発してからの3カ月間、大田刑務所は左右の別なく数千人の民間人が虐殺された残酷な現場だった。

 二つの死に対する韓国政府の態度は違った。1951年12月、忠清南道は「愛国の志士合同葬儀推進委員会」を構成した。 追慕対象は、人民軍および地方左翼によって犠牲になった人々に限定した。 翌年3月、大田龍頭山麓に4000平方メートル規模で全国初の「反共愛国志士塚」をつくり1557体の犠牲者の遺骨を発掘・収拾し火葬して安置した。1980年代には志士塚聖域化事業が推進され、1996年大田沙亭公園に反共愛国志士塚を移転した。 そこで毎年、韓国殉国烈士の日に合同追慕祭が挙行される。 山内事件犠牲者の遺族たちが数十年間ひっそりと生きてきたこととは雲泥の差であった。 山内事件犠牲者遺族は“アカの家族”と言われ後ろ指をさされ、西北青年団や警察が常に訪ねてきた。 連座制のせいで末端公職でも勤めることはできなかった。

 ムン氏の家族はこうしたことが起きる間、ずっと大田に留まった。翌年母親が幼いムン氏を連れて逮捕された父親と面会するために大田刑務所を訪れたが会えなかった。母親はこの時、知っている刑務官から父親が「すでに山内に連れて行かれた」という話を聞いたが、ムン氏には伝えなかった。 ムン氏の家族の悲劇はその時から本格的に始まった。 1951年3月、祖母が食事中に突然亡くなり、8月には祖父が首を吊った。 二代独子である父親の死は両親に生を放棄させる程の衝撃だった。 わずか数カ月間に夫と舅姑を失った母親は、翌年他の男に出会って結婚してしまった。 幼い妹は母親が連れていったが、弟は孤児院に預けられた。 ムン氏も捨てられて他人の家で生活した。 以後、ムン氏は親戚の家に住み込みであらゆる仕事をさせられた。近隣の屠殺場で得た牛の脚を入れたゴムのたらいを頭に載せて、毎朝市場まで運んだ記憶が今も生々しい。学校には一年も通えなかった。

 13歳になった年、ムン氏はノート工場で働き始めた。 17歳になった1960年に紡織工場に就職し、一人で住む所を得た。 その時ようやく孤児院から弟を連れてきて、一緒に暮らすことができた。 弟は飛行機の音が聞こえるたびに「お父さんがあれに乗って帰ってくればなあ」と言った。 弟もまもなく縫製店の“シタ”(下働きをする補助員)として仕事をして金を稼ぎ始めた。 1962年には13歳になっていた妹も連れてきて一緒に暮らした。 弟妹たちの面倒を見るためにソウル永登浦(ヨンドンポ)、京畿道安山(アンサン)に職場と住居を転々とした。 25歳の時、今の夫に出会って結婚するまでムン氏は紡織工場や食堂などを転々として二人の弟妹の家長の役割をした。

 辛い時にはよく父親が夢に出てきた。ムン氏が具合の悪い時、妹を失って気滅入っている時に父親と会った。囚人服を着た父親は他の囚人と共にトラックに乗っていて、ムン氏に黙って薬を放ってくれたりした。 その時もムン氏は父親がどうしているかを知らなかった。 なぜトラックに乗っているのか、不思議な気がした。 2002年に病気で先に亡くなった弟は、父親が戦争で行方不明になったり、北に行ったと思っている。2003年に父親が山内で亡くなったという事実を知った。 “アカの子供”と言われ後ろ指をさされることが恐ろしくて、遺族たちは数十年間にわたり父親の行方を探そうとはしなかった。

制服を着た人に連行され
娘を振り返った31歳の父、ムン・サングク
雪の降る1950年の冬の記憶
写真の中の事件は1950年夏のこと
父ではない別人だという話だった
後に確認された裁判記録によれば
父親は附逆の容疑で懲役10年を宣告され
1・4後退直後に銃殺されたと見られる
孤児のように捨てられて生きてきた長い歳月
彼女はその記録が信じられないと話す

ムン・ヤンジャ氏の父親が亡くなる直前に撮られたと見られた虐殺現場の写真 //ハンギョレ新聞社

二度の後退、二つの虐殺があった

 真実和解委もムン氏の父、ムン・サングク氏に関する記録を発見し調査を始めた。 当時、コルリョン谷事件関連者の陳述を集め隠れていたピースを合わせていく中で、他の可能性が浮び上がった。 ムン氏が父親だと信じた写真の中の人物が実際には全く別の人かも知れないという事実だった。 コルリョン谷で振り向いてカメラを見つめた人物は、1950年7月初めに虐殺されたのだが、ムン氏の父ムン・サングク氏は翌年1月に亡くなったものと推定されたからだ。

 2010年真実和解委の決定文によれば、ムン・サングク氏は1950年末に附逆容疑で警察に連行され大田刑務所に収監された後、翌年の1月14日前後に亡くなった。 1950年国連軍の9・28ソウル修復の後、政府は人民軍に協力した人々を附逆の疑いで捕らえたが、ムン氏の父親もこの過程で収監されたと見られた。 ムン氏が記憶する「雪が膝まで積もっていた」というその日だった。 ムン氏の父親は村の人々が供出した服を盗んだという疑いで1951年1月8日に懲役10年の刑を宣告された。 ムン氏の祖父と仲が良くないイ・ビョンチャンという人が自身の作男に密告させたのだった。

 仁川上陸作戦が成功した後、38度線を越えて鴨緑江(アムノッカン)沿岸まで北進した国連軍は、11月末に中国共産軍の介入により後退し始めた。 中国共産軍と朝鮮人民軍は翌年1月4日に再びソウルを占領し、再び避難の道(1・4後退)に上がった韓国政府は大田刑務所に収監されていた附逆容疑者をコルリョン谷に連れて行き銃殺した。 その状況はこれに先立つ戦争勃発直後の虐殺状況と変わりなかった。

 1950年9月28日から11月13日まで忠清南道警察局が検挙した附逆者数は1万1992人に達した。 大田刑務所はムン氏の父親のような附逆容疑者で満杯だった。 戦況が不利になった1950年12月末にはソウルから服役者2020人が追加で大田刑務所に移監されてきた。 戦争で刑務所建物の相当部分が破壊された状態で服役者だけが増えた。 食糧も医薬品も不足していた。 一部は拷問の後遺症で、一部は飢死したり凍死したり病死した。国連民事処の1951年1月31日付報告書によれば「1950年12月31日から翌年1月20日までに439人が死んだ。一日に約70人が裁判を受けた。 大田刑務所長は医薬品、食料、寝具類の深刻な不足を克服できなかった」と書かれている。 “1・4後退”時期である1951年1月13日、大田刑務所の服役者は釜山刑務所に大挙移監された。 零下14度の厳冬に病気と飢えで弱っていた服役者は大田駅に到着する前に死亡した。 ムン氏の父親もこの頃に山内に連れて行かれ亡くなったものと見られる。 真実和解委が見つけた「大田刑務所服役者内訳表」の死亡者名簿によれば、彼は1月14日前後に亡くなったと記録されている。

 ムン氏の父親に面会に行ったソ・マンス前大屯山(テドンサン)地区討伐隊長は、真実和解委の調査で「1951年3月、大田刑務所のチェ総務課長を訪ねて面会を要請したが、「ムン氏はとっくに山内に行った」という話を聞いた。 当時、山内に行ったということは銃殺されたという意味」と証言した。 チョン当時大田地検検事が「ムン・サングクは山内に連れて行かれ死んだ」と話しているのを聞いたという陳述も真実和解委は確保した。 大田刑務所のチョ刑務官は「1・4後退時期には服役者を全員連れて行くことができずに、罪質が悪い人々を山内で虐殺した」と話した。

 ムン氏が父親と信じた人物の写真は、エボット少佐が盛夏である1950年7月初めに撮ったものだった。 ムン氏の父親はムン氏の記憶のとおり、その年の冬、雪が積もった道を刑務所に連行された。 エボット少佐の写真の中の人物とムン氏の父親はそれぞれ1950年7月と1951年1月に亡くなった別人だった。 二人は双子のように似ていたが、同じ人にはなれなかった。信じがたいことだった。

 再び切迫した顔で尋ねる。「うちのお父さん、そうでしょう?」

 今月11日、再び大田に行き遺族会事務室でムン・ヤンジャ氏に会った。ムン氏は二人が別の人物という事実を信じようとはしなかった。

 「写真の中のこの方は、お父さんが連れて行かれる何カ月も前にすでに亡くなった方です。ご存知なかったのですか?」

 「以前に『亡くなった時期が合わない』という話を聞いたことはあります。うちのお父さんは冬に亡くなったのに、この写真は夏だと。だけどそれも正確なことではないでしょう」

 「どうして正確でないと考えるのですか?」

 「いや、それは…私が記録を…刑事裁判記録を見に行ってもいません。調書に記録したのが本当ではありません。年末に連れて行かれて裁判を受けて、数日後にそんな風に殺すことができますか? いくら戦時だといっても面会もさせずに」

 「記録を信じられないということですね?」

 「私たちの母が面会に行った時、母に刑務所の課長がそう言ったそうです。山内に行ったと。 お父さんが記者だったので、おそらく意図的にカメラを見たのだろうって。このように首を回して。真実和解委の職員も写真を見て「再調査をしなければならないのではないか」と言いました。 裁判記録が信じられると思いますか?」。ムン氏が問い返した。 可能性がないことではなかった。 写真が撮られた時期が間違っていたり、ムン氏の記憶が間違っていたり、ムン氏のお父さんの名前が書かれた大田刑務所死亡者名簿の記録が間違っていたり。 だが、そのような可能性をあれこれ組み合わせてみても、二人が同一人物である可能性は極めて低かった。 特にエボット少佐が撮った写真は、他の17枚の写真と共に同じ日時にとった一種のパノラマ写真の一部であった。 軍警が真冬に半袖を着ていたわけはない。 容貌が似ていて、同じ場所で亡くなったこと以外には、二人を同一人物とする根拠はなかった。

 「見て下さい。眉毛が短いでしょう。(弟の子供である)甥とそっくりでした。父親が連れて行かれる時に振り返った姿と全く同じです。私のお父さんです」。ムンさんは写真の中の人物を“お父さん”と言い続けた。「お父さんが連れて行かれた時期が冬だという記憶に誤りはありませんか」と尋ねたが「その記憶だけは確実だ」と答えた。 1950年7月、戦争勃発後に生まれた弟をお父さんが抱いていたというムン氏の記憶も明確だった。 写真の中の人物は、弟が生まれた1950年7月第一週のある日、コルリョン谷で亡くなった。 その記憶が鮮やかであるほどますますお父さんと写真の中の人物は同じ人にはなれなかった。 二代独子であるムン氏のお父さんには、よく似た兄弟もいなかった。

 ムン氏は写真に接する前まで、父親が亡くなった具体的状況を知らなかった。 ムン氏に写真の中の疑問の人物は何と57年間も生死が分からなかったお父さんの最後の姿に違いないと思った。 「刑務所からコルリョン谷に連れて行かれ亡くなったとすれば、まさにこのような姿だっただろう」とムン氏は考える。その思いが、父親に似ている疑問の人物をお父さんにした。ムン氏は今も二枚の写真を一緒に携えて、新しい人に会うたびに尋ねる。

 「うちのお父さんに間違いないでしょ? そうでしょ?」

 人々はムン氏の思い詰めた表情と、そっくりの二人の顔写真を見て「そうですね」と答える。

 戦争が勃発した1950年6月末からムン氏の父親が亡くなった翌年初めまでの7カ月間、大田刑務所に収監され虐殺された人々の数は最大7500人と推定されている。このうち約6000人は韓国国軍と韓国警察によって、残りは朝鮮人民軍によって犠牲になった。 韓国戦争遺族会などの話によれば、朝鮮戦争時期に戦闘と関係ない政治的理由で国家公権力によって虐殺された民間人は最大100万人に達すると推定される。 真実和解委は5年の活動期間中にきわめて一部の2万620人の死を糾明したのみだ。 真実和解委が活動を終了し国家の公式謝罪と慰霊事業支援を勧告したが、政府はまだ何の措置もとっていない。

大田/パク・キヨン記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015-06-19 22:09
http://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/696792.html 訳J.S(11375字)

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