本文に移動

[現地ルポ]「4・3不良位牌」と攻撃されるイ・シンホ…彼は不良な犠牲者か

登録:2015-04-28 22:06 修正:2015-05-03 06:26
4・3特別法への反撃、再審査を巡る議論
その主人公、南労党幹部イ・シンホ
済州4・3事件に連累して銃殺された済州島の代表的な社会主義政治家イ・シンホ(1901~48)の唯一の写真 //ハンギョレ新聞社

 済州4・3事件に連累して銃殺された済州島の代表的な社会主義政治家イ・シンホ(1901~48)の唯一の写真。家族たちが忘れられることを望んでいる彼の名前を、見知らぬ人たちが呼び起こす。彼は済州島の南労党(南朝鮮労働党)幹部であり、政府が指定した4・3犠牲者だ。軍人と警察官(と推定される)の銃弾に倒れた48年間の彼の人生を、一部の人々は「4・3事件の不良位牌」と定義する。保守団体は、犠牲者1万4231名のうち一部が加害者から犠牲者に化けたために再審査しなければならないと主張する。今年初め、チョン・ジョンソプ行政自治部長官と元喜龍(ウォン・ヒリョン)済州道知事が犠牲者再審査について言及し、論議が再び浮上した。

 “不良位牌”と呼ばれる犠牲者103人のうちから、一人の人物を覗いてみた。 時代と歴史という大きな裾野からイ・シンホを抽出し、その足跡をたどってみた。済州島という空間的背景と朝鮮半島情勢、世界史的脈絡を探ってみた。日帝強占期に抗日運動をしていたイ・シンホは、新しい国家の建設を夢見たが挫折した。 彼は、米軍政期の1947年3月1日、3・1記念行事を指揮した疑いで投獄される。南労党の世代交代過程で、急進的な武装闘争の系列によって押し出された。 歴史が過去と現在の絶え間ない“対話”であるならば、現在の観点から過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って行って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。

▽済州島の南西端には、慕瑟浦(モスルポ)の港がある。特産品であるブリと付近の馬羅島(マラド)観光で有名な地域が西帰浦(ソギポ)市大静(テジョン)邑モスル浦だ。 解放直後、米軍政期の1947~48年、そこには互いに異なるイデオロギーを持った人たちが暮らしていた。いずれも 4・3事件の主要人物だ。武装闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(本名イ・スンジン)、社会主義者だったが武装闘争には否定的だった南労党幹部イ・シンホ、“アカ”を捕えて殺すことを躊躇したモスル浦支署長ムン・ヒョンスン。 イ・シンホを中心に、彼らの人生を覗いてみる。

4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される //ハンギョレ新聞社

いきなり銃殺された彼、社会主義者だったから被害者でないとは…

 1948年11月20日(旧暦10月20日)、済州道モスル浦支署では朝早くから南労党済州道党(訳者注:韓国の政党組織は、中央党、道党、市党、郡党、面党のようになっている)の副委員長イ・シンホ(1901~48)を捕えて行った。済州4・3事件の発生後、自宅で本ばかり読んで過ごしていたイ・シンホの家には警察官たちがよく訪れた。米兵がやってきて動態把握をしたり家宅捜索もして、イ・シンホが自宅で読んでいた本も押収された後だった。いつものように警察官について支署に出かけたイ・シンホは、午後になって帰ってきた。家の門を出て道路一つ過ぎると、手が届くくらいに慕瑟浦支署は近かった。 その日疲れた顔で戻ってきたイ・シンホは、家の手すりにもたれるようにしてぐったりと座り込んだ。彼は長女を呼んで言った。「のどが渇いた。水をくれ」。 続いて軍人と警察官と思われる二人の男がイ・シンホの後から入ってきた。二人はイ・シンホを庭に引き出して銃を撃った。娘は、父が銃に撃たれて死んでいくのを目の当たりにするしかなかった。四十八歳、イ・シンホの生涯はこうして閉じられた。

 日本の植民地時代に抗日運動をし、村で尊敬を得ていたイ・シンホが死んだという話は村中に広がった。村の人々は安心して眠ることができなかった。それ以来、何かといえば銃殺だった。朝起きてみれば、誰かが死に、誰かが銃殺されていた。イ・シンホの死後、4日目に彼のいとこも銃殺された。家族たちは葬儀も行なえなかった。息を殺すようにして、遺体を仮埋めのような形で埋めた。 12歳年下だった妻のソン氏は、子供を食べさせるために小さな店を始め、子供たちは恐怖の中で数年を過ごした。 1961年冬、妻ソン氏はイ・シンホが死亡した年令と同じ48歳で亡くなった。 イ・シンホの葬儀は妻が死亡してから初めてまともに執り行なわれた。名前の三文字、生まれた日、死亡した日。石碑は短く書かれた。娘三人と息子一人。残された子供たちは、一人二人と故郷を離れた。(済州4・3研究所機関誌『4・3 長程(チャン・ジョン)』第6号参照、1993年6月発行)

 イ・シンホが埋葬された場所は西帰浦市大靜邑下モ里の大静女子高等学校の東側だ。済州島の南西端にある慕瑟浦の港から海風が吹いてくる松林。ノルン岬と呼ばれる松林に彼は埋葬された。ハンギョレはイ・シンホの4人の子女のうち3人と接触した。 「(記者と会うこと、または父に関する記事を)望んでいない」「(父について)覚えていない」という答えが返ってきた。早春、大静女子高の周りには水仙が咲き始め、寂しい松林を慰める。

2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文の刻まれていない碑石、白碑が横たわっている //ハンギョレ新聞社

「不良位牌」と呼ばれる103人

 親しい人々に忘れ去られた彼の名が、見知らぬ人たちによって呼び起こされる。「4・3犠牲者不良位牌」という名前だ。首相室傘下の「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復委員会」(以下、済州4・3委員会)は2002年~2014年にかけて犠牲者1万4231名を指定し、済州奉蓋(ボンゲ)洞の済州4・3平和公園内の奉安室に1万4091名の位牌を祀った。「不良位牌」とは、済州4・3事件の犠牲者ではない者が犠牲者に化けているという意味だ。

 「大韓民国アイデンティティ回復国民協議会」など16の団体で構成された「済州4・3事件真相究明国民の会」は2月11日、ソウルの言論会館20階にある国際会議室で「済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー」を開いた。 「申采浩(シン・チェホ)先生は『歴史を忘れた民族には未来がない』と言われました。 4・3事件の現場で直に目撃し体験した私たちまでが目を閉じるならば、歴史の真実が歪曲され、また別の問題と葛藤を生むことになり、それはそっくり我が子孫に弊害となって帰することが明らかである故に、見過ごしてよい問題ではないと考えます」(セミナー資料集抜粋)。 彼らはこの日のセミナーで、不良位牌103基のリストを公開した。

 昨年、政府は4月3日を国家追悼日に指定した。 しかし、不良位牌と犠牲者再審査の論議は、政府の済州4・3真相調査報告書が採択された2003年以降、一向に絶えない。主務省庁である行政自治部のチョン・ジョンソプ長官が1月15日、「犠牲者に指定された一部の人物が武装部隊の首魁級だという問題が解消されなくては、大統領の位牌参拝は難しい。 このような主張が事実ならば、犠牲者指定の取り消しが妥当だ」と明らかにし、論議が再び浮上している。済州4・3審査小委員会はこの4日、再審査するかどうかについて話し合ったが結論は出なかった。「済州4・3事件真相究明及び犠牲者名誉回復に関する特別法」(4・3特別法)には、遺族の申請による再審査規定があるだけで、第3者による再審査規定はない。

 「済州4・3事件真相究明国民の会」が公開した不良位牌103人は大半が南労党幹部で、人民遊撃隊員、警察・検察の秘密諜報部員、入山した武装隊員、入山した警察官、3・1ゼネスト参加の警察官、第9連隊の脱営兵、人民軍に志願した教師などが含まれている。 この基準は、憲法裁判所が判示した犠牲者の除外対象者と類似した脈絡だ。憲法裁判所は2001年9月27日、李哲承(イ・チョルスン)自由民主民族会議代表と予備役将軍の集まりである星友会の鄭昇和(チョン・スンファ)会長など346人が起こした4・3特別法違憲審判で、却下決定を下した。 ただし、犠牲者の除外対象については次のように判示している。

 「済州4・3事件と関連した死亡者のうち、自由民主的基本秩序とこれに付随する市場経済秩序および私有財産制度に反対した者は、その程度により犠牲者決定の対象から除外していく方法を採用することが、憲法の理念と4・3特別法の立法目的に符合すると言えよう。 (中略)済州4・3事件勃発に責任がある南労党済州道党の中心幹部などは犠牲者から除外されるべきだ」。 憲法裁判所は、1948年7月17日に制定され現在まで続いている憲法の観点から、犠牲者の除外対象者基準を定めた。

 10年余り続いた不良位牌論議の中で、常に登場する名前がイ・シンホだ。『済州4・3平和公園内不良位牌剔抉セミナー資料集』の68ページに彼の名が見える。 「南朝鮮労働党済州道党副委員長イ・シンホ。1931年農民テーゼ事件に連累。1932年細花里(セファリ)海女事件の背後勢力の容疑で2年の求刑・判決が下される。 大静面人民委員会副委員長を務め、委員長に推挙さる。1947年3・1大会後検挙され、6カ月の刑宣告」

4月3日を国家追悼日に指定したが
10年間絶えず続く
不良位牌と犠牲者再審査の論議
その中で常に登場する名が
南労党副委員長出身のイ・シンホ

米軍政下、混沌の時代状況
南労党主導の1947年3・1記念大会
イ・シンホは大静国民学校で演説
その日、済州で予期せぬ事故
警察の発砲と大々的なゼネスト…

4・3が進行中だった1948年7~8月に討伐隊が住民たちと話している場面を米軍が撮影したもの。真ん中のカルオッ(チェジュ特有の染色による衣類)を着た住民は中山間の村の居住者と推定される //ハンギョレ新聞社

5000人を集めたイ・シンホの群衆演説

 3月23日、春の日差しが降り注ぐ西帰浦市大静邑(1956年に大静面から昇格) 上モ里の大静小学校の運動場は鮮やかに輝いていた。緑の人工芝が敷かれたサッカー場、そしてサッカー場の外側をワイン色の陸上トラックが取り巻く。人口1万7000人の大静邑の小学校にしては、規模も大きく新品のように無傷だった。学校の歴史は100年を超える。

 68年前の1947年3月1日。緑の芝生のグラウンドやワイン色の陸上トラックは未だなかった同校の運動場の土を、イ・シンホも踏んでいた。当時、人口2万余だった大静の住民のうち5000人余りが結集した。近くの加波島(カパド)からも住民100人余が漁船に乗って参加するほど、運動場はにぎわっていた。学校の近くに住んでいたイ・シンホも、大静国民学校の運動場まで歩いていった。

 当時は米軍政期(1945年9月8日~48年8月15日)で、政治・経済が不安定だった。米軍政下だった1946年、農村のコメを強制徴収する米穀収集令が発令され、これに抗議するデモが全国に広がった。第2次世界大戦終了後、済州島では凶作が続き、海外に移住していた済州島民が帰国して失業率が高まった。米軍政の「対日貿易および日本商品流通禁止」により済州島の経済が急激に萎縮し、米軍政の穀物収集政策に対して済州島人民委員会が米穀収集阻止運動を主導するなど、経済的不安と米軍政に対する不満が次第に深まっていった。(2001年憲法裁判所決定文)

 3・1運動28周年を迎え、南労党が組織した記念大会は邑・面単位で開かれた。済州邑は涯月(エウォル)面と朝天(ジョチョン)面を合わせて済州北国民学校で、大静面は大静国民学校で開かれた。イ・シンホと大静中学のイ・ドイル校長が演説を、イ・ウンバン氏が司会を務めた。大静国民学校では歓声が沸き起こった。

「民主主義的愛国闘士を即時釈放せよ! 人民抗争関係者を即時釈放せよ! 最高指導者 朴憲永先生逮捕令を即時撤回せよ!」

「民主主義臨時政府樹立万歳! 政権はただちに人民委員会に渡せ! 日帝的統治機構を粉砕せよ!」

「親日派・民族反逆者・親ファッショ分子の根絶! 三相会議の決定即時実践! 人民経済を破壊する輩の徹底掃蕩!

「言論・出版・集会・結社・スト・示威・信仰の絶対的な自由! 食糧問題解決は人民の手で!」(南労党済州道委員会の3・1運動記念闘争の方針に出てくるスローガン)

 スローガンを理解するには時代状況を知る必要がある。韓国の独立のために民主臨時政府を樹立するという議定書が1945年12日、モスクワ三相会議で採択された。 しかし、これを実践するための米ソ共同委員会が1946年1月に決裂し、国の未来が不安な時期だった。南だけの単独政府樹立の可能性が高まり、米軍政は左派を弾圧した。 1946年9月、南労党指導者、朴憲永(パク・ホニョン)らに対する逮捕令が下され、『人民日報』『現代日報』『中央新聞』の3つの左派新聞が停刊に追い込まれる。 このような時代状況に対応するために、3・1記念行事が行われたわけだ。

 1947年3・1記念日を前後して、これを抑えるための済州の警察力増強に伴い、済州邑一帯には緊張感が漲っていた。済州島司(現在の済州道知事に当たる。当時は米国人・韓国人共同で務めた)兼米軍第59軍政中隊の指揮官スタウト少佐は、3・1記念日行事を控えてデモを禁止する一方、記念行事をするなら西飛行場(現在の済州国際空港)で挙行するよう通告を発した。その中で忠清南道・忠清北道警察庁所属の100人の応援警察隊が済州島に入った。 しかし、同日午後2時頃、記念行事が終ってから軍政当局の禁止にもかかわらず、許可されていない街頭デモが始まった。午後2時45分頃、観徳亭(クァンドクチョン)前広場で騎馬警官の乗った馬に子供が蹴られて騒動が起こった。群衆がブーイングを浴びせ、石を投げつけた。慌てた騎馬警官が同僚のいる警察署に向かって馬を走らせ、その瞬間、銃声が轟いた。騎馬警官を追って群衆が押しかけ、警察署襲撃と誤認して発砲したのだ。民間人6人が死亡し、6人が重傷を負った。警察は終始一貫、警察署襲撃事件と規定し、民心を収拾しようとはしなかった。

 3月5日、南労党済州道委員会の数十人の幹部たちが、済州邑三徒(サムド)里のキム・ヘンベクの家に集まり「3・1事件」対策を議論した。イ・シンホ、イ・ウンバンらの属した南労党大静面党が3・10ゼネストを建議し、道党は受け入れた。 「事件の重大性に鑑みて、黙過できないことだ。 しかし、相手は頭のてっぺんから爪先まで完全武装をしているのに我々は徒手空拳であり、彼らの銃剣部隊と直接の正面衝突は到底考えられないことだ。したがって、平和的抗議の意思表示として全島ゼネストを全員一致で可決して、組織部イ・スンジン(キム・ダルサム)を連絡員として道党本部に派遣することを建議することにした」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)

 3月10日、済州島では韓国で類例のない官民ゼネストが展開された。官公庁、通信機関、運送会社、学校、米軍政庁通訳団、公務員などが参加した。警察の3・1記念行事への発砲に抗議するストは南労党済州道委員会が背後から支援した。同日、パク・ギョンフン済州島司とキム・ドゥヒョン総務局長など100人の職員が大会を開いた。 スタウト少佐兼済州島司に対し、発砲警官に対する処罰と拷問の廃止など6項目を要求した。 この要求が受け入れられるまで、済州道庁職員140人余がストライキを決意したと明らかにした。 『済州警察史』は「警察や司法機関を除く全機関団体がゼネストを実施し、その数は166の機関団体、参加人員4万1211人」と説明する。 済州警察の集計から漏れている一部の警察官や機関・団体に属さない民間人のストまで考慮すれば、さらに多かったと推定される。 ストは3月20日前後に小康局面に入った。

 4・3特別法は第2条第1号で「済州4・3事件は、1947.3.1.を基点として1948.4.3.に発生した騒擾事態および1954.9.21.までに済州島で発生した武力衝突と鎮圧過程において住民が犠牲になった事件」と規定している。

スト主導容疑で検挙されたイ・シンホ
出獄後活動せずに家で過ごす
武装闘争に賛成しなかったが
支署に行ってきた後、自宅で銃殺さる
今もその子女はインタビューを拒否

南労党員ならば犠牲者と言えないのか
モスル浦にはイ・シンホの墓碑と
南労党員名簿を虚偽作成して
住民たちを救ったモスル浦支署長
ムン・ヒョンスンの功徳碑が共存している

イ・シンホと一緒に連行されたコ・チュンオンの証言

 イ・シンホと南労党大静面の責任者イ・ウンバン(1910~2013)らは、集会と不法ストを主導した疑いなどで1947年3月17日、米軍政に検挙された。イ・シンホは同年4月30日、米軍政済州地方審理院(裁判所)で罰金5000ウォンに6カ月の刑を言い渡され、木浦(モッポ)で服役した。判決文を見ると、イ・シンホは「南労党大静面委員会委員長兼人民委員会副委員長であり、左翼過激分子」と紹介されている。彼の肩書きは南労党済州道党副委員長、南労党大静面委員長、あるいは大静面副委員長と、記録物によって異なる。

 出獄後イ・シンホは公開的な活動を中断して主に自宅で過ごした。日帝時代からの酒類卸売業が生計手段だった。彼が出獄した翌年の1948年4月3日、夜中の2時、漢拏山麓のオルム毎に上がった烽火を合図に、南労党は済州島内11の警察支署を襲撃した。警察官4人、右翼人士など民間人8人、武装隊2人が死亡するという人命被害が発生した。

 「イ・シンホはイ・ドイルの漢南焼酎工場の酒類卸売権を持っていた。時々巡査たちがやってくると、酒も一緒に飲み交わす方で。 私の家と近いので時々訪ねたが、行ってみれば、ひげも剃らずに本を読んで過ごしていた。一緒に話してみれば、武装闘争については賛成していなかった。あの事件は長くは続かないだろうと言っていた。 3日(1948年4月3日)の爆弾事件が起きたときには病院に入院していた」(イ・ウンバン『4・3事件の真相』)

 大静面は4・3事件の要注意地域だった。闘争を指揮した遊撃隊総司令官キム・ダルサム(1925~50?)が大静中学の社会科教師だったからだ。イ・シンホをはじめ住民たちは、慕瑟浦(モスルポ)支署に何度も呼び出された。イ・シンホが死亡するしばらく前に一緒に支署に連行されたコ・チュンオン氏(90)に3月5日大静邑の自宅で会った。耳の遠いコ氏に紙に書いて質問し、コ氏は口で答えた。

 「西北(ソブク)青年団(解放後に北から南にやってきた青年たちが1946年に立ち上げた右翼団体)がいきなり捕まえていく。家にいたら出て来いと言うので行ってみると、三十人ほどがめちゃくちゃに殴られていた。私の前の奴は棍棒で叩かれた。『お前、山に行って来ただろう』と言われながら。 私の番になって、(西北青年団員に)一撃蹴られて「ウッ!」と声を上げた。そのとき、地位の高い特攻大将が『取調べ中止!』と言って集合させた。特攻大将が警視だ。『イ・シンホって誰ですか。出て来なさい』と言うので、イ・シンホが(縄に縛られていて)『出て行けません』と言った。 すると、『あなたがイ・シンホですね。名前はよく聞きました。立法議員に選出されたそうだが。(1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院の創設に関する米軍政法令第118号が発表され、全国で90人が選出された。イ・シンホは選出直後に辞任した。) あなたのような人は大韓民国のために一緒に努力しましょう』と言った。 懐柔し、タバコもくれた。次の日、家に帰してやった。そしていくらも経たずに銃殺された」

 南だけの単独選挙の輪郭が明らかになった1948年2月頃、米軍政と左派は激しく対立した。同年1月、組織名簿が流出して致命打を受けた南労党済州道党は1・22検挙事件などを経て、世代交代とともに路線変更の岐路に立たされることになる。危機説を掲げた強硬派が4・3事件が起こる前に党組織を掌握した。日本植民地時代に社会主義抗日運動をしていた壮年層から、若くて急進的な新進勢力への交代があった。新進勢力のリーダーは23歳の青年キム・ダルサム。本名はイ・スンジンで、彼は義父カン・ムンソクが使っていた仮名キム・ダルサムを受け継いだ。 1947年3・1記念行事の当時、南労党大静面組織部長だったキム・ダルサムは以後、済州道党組織部次長、組織部長として急浮上した。武装闘争について党指導部内ですら時期尚早論と強行論が対立していた。武装闘争は済州朝天邑新村里で決定された。 いわゆる「新村(シンチョン)会議」だ。 新村会議に出席して武装闘争に参加し、日本に逃れて東京に住んでいたイ・サムリョンは当時の状況をこのように証言する。

 「武装蜂起が決定されたのは1948年2月末から3月初め頃のことだ。新村で会議が開かれたが、19人が民家に集まった。 この席でキム・ダルサムが蜂起問題を提起した。慎重派はチョ・モングと城山浦(ソンサンポ)出身の人など7人だったが、我々は何も持ってないのだから、もう少し状況を見守ろうと言った。強硬派は私とイ・ジョンウ、キム・ダルサムなど12人だ。 キム・ダルサムは20代だったが、組織部長として実権を握っていた。 そしてアン・セフン、オ・デジン、カン・ギュチャン、キム・テクスなど壮年派はすでに服役中か、逃避状態だった。 (中略)とにかく、我々の知識と水準はその程度でしかなかった。 (中略)キム・ダルサムは自分が軍事総責任者を引き受けると言って日付を通知した。事件勃発の10日ぐらい前に日が決定された」(済州4・3事件真相調査報告書)。

 当時大静面には、日本植民地時代に社会主義運動をしていたイ・シンホの同僚たちはもういなかった。南労党大静面の責任者だったイ・ウンバンは4・3事件後、3カ月ほど故郷にいたが、松岳山(ソンアクサン)付近のカルモッ海岸から発動機船に乗って釜山へ、そして日本へ密航した。 イ・ウンバンの隣に住んでいてイ・シンホなどに社会主義の影響を与えたオ・デジン(1898~1979)は、4・3当時は忠清南道江景に逃避していたと伝えられており、1949年に日本に向かった。

 「父に対する拷問はひどいものでした。母に言われて父に食事を持って行くのは私の役目でした。行って見ると、拷問はあまりにもひどいものでした。村の人たちが日本に行こうと言うと、父は悪いことをしたわけでもないのにどこへ行くというのかと言って、家にいました」(1993年6月、済州4・3研究所機関誌『4・3 長程』第6号に掲載されたイ・シンホの次女の発言)

社会主義は済州の主流だった

 1948年、南労党の活動は米軍政から“事実上”非合法化され、地下運動として維持されていた。 しかし明白なのは、当時南労党もまた表面的には合法政党であったという事実だ。朝鮮半島問題を国連に上程した米国は、いかなる政治集団も制約なしに活動できるという格好を維持していた。 1948年1月23日、ソウルに入ってきた国連韓国臨時委員団が南北選挙協議の対象に、南から6人、北から4人を指名し、この中に南労党指導者許憲(ホ・ホン)と朴憲永(パク・ホニョン)を含めた。済州道で南労党員名簿が流出し大量検挙された1948年の「1・22検挙事件」発生から1週間後の1月30日。キム・ヨンベ済州警察監察庁長と『済州新報』記者の一問一答を見て見よう。

記者:被検挙者の数は? 警察の方針は?

キム・ヨンベ庁長:これらは一部の不穏分子の扇動に惑わされ付和雷同したものであって、改悛の情が顕著な者に対しては警察が雅量をもって臨んでいる。警察は南労党に加入した者を弾圧するのではなく、彼らの非合法的行動に鉄槌を下すのだ。

 解放後に南で組織された左派政党は、朝鮮共産党(1945年9月)、朝鮮人民党(1945年11月)、南朝鮮新民党(1946年2月)の3政党だ。朝鮮共産党は朴憲永、人民党は呂運亨(ヨ・ウニョン)、新民党は白南雲(ペク・ナムン)が主導した。 1946年11月、左派3党の合同により南朝鮮労働党(南労党)が結成された。『独立新聞』などは11月23日に開かれた南労党結党式に、代議員558人のほか、米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将の代理としてボブフェロ少佐、米軍防諜隊(CIC)関係者、米国の新聞記者と国内取材陣が集まったと報道した。

 済州には、日帝時代からの社会主義運動の根が強く引き継がれていた。 4・3特別法および政府の真相調査報告書は4・3事件の始まりを1947年3月1日と見ているが、この頃、在韓米陸軍司令部の日次情報報告書にはこう記録されている。 「1947年3月25~26日。2件の防諜隊報告書によれば、済州道の右翼、大韓独立促成国民会と韓国独立党済州道支部は、組織も貧弱で資金も不十分だ。両党は道全体にわずか1000人の会員がいるだけで、左翼人士たちの激しい反対で政治的活動が困難な状況にある。済州道の左翼に関する多くの報告書によれば、左翼人士は済州道人口の60~80%に達している」。当時、済州道民は28万人余だ。

 選挙結果もまた、済州道は他の地域と違っていた。 1946年8月24日、朝鮮過渡立法議院創設に関する米軍政法令第118号が発表された。立法議員90人のうち半数は民選議員で、残りは米軍政最高責任者であるジョン・ハッジ中将が任命した。 1946年10月31日、民選立法議員選挙が行なわれた。「立法議員選挙で右翼が勝利」。 UP通信を引用した『漢城(ハンソン)日報』の関連記事だ。韓国民主党15人、大韓独立促成会14人、無所属12人、韓国独立党2人、人民委員会2人。人民委員会を除いては右翼の勝利だった。 ところで、この2人の人民委員会出身者はいずれも済州地域だった。当時、南済州郡の面代表14人がイ・シンホを選出したのだが、彼は辞任してしまった。人民委員会は当時公式の政党ではなく、住民が構成した団体だ。済州道で南労党は1946年12月に結成されており、立法議員選挙当時は出馬できなかった。

 済州島の社会主義的性向は日本植民地時代から続いている。 1932年済州の海女たちが日本人の島司(道知事)の車両を包囲して、500人余が細花(セファ)駐在所を包囲すると、日本は背後勢力を探り始めた。背後勢力として済州島ヤチェイカ(共産党組織の基本単位である細胞のロシア語)が眼を付けられた。当時、ヤチェイカ組織40人余りが拘束され、光州(クァンジュ)地方裁判所木浦(モッポ)支所で裁判を受けた。 イ・シンホは当時、懲役2年を言い渡された。

済州市奉蓋洞の済州4・3平和公園にある行方不明者の標示石の様子

激しい理念葛藤、碑文の書かれていない碑石

 2008年に建立された済州市奉蓋洞の4・3平和記念館には、碑文を刻めずにいる碑石が横たわっている。白碑だ。名付けられずにいる歴史的な碑石の前で、案内文を読んでみる。「蜂起、抗争、暴動、事態、事件などと様々に呼ばれてきた済州4・3は、いまだに正しい歴史的な名前を得ていない。分断の時代を越えて南と北とが一つになる統一のその日、真の4・3の名前を刻むことができるであろう」。 2003年に政府が採択した真相調査報告書でも、理念的性向を表わさない単語である「事件」と書かれている。 4・3事件の被害規模は2万5000~3万人と推定される。当時の済州島人口の約10%だ。 4・3委員会が確定した犠牲者の加害者別統計を見れば、警察・軍人・右翼団体などの討伐隊(84・3%)、南労党武装隊(12.3%)、不明(3.4%)の順だ。

 済州は世界史的渦に巻き込まれていた。 4・3事件は第2次世界大戦終了後、ドイツと日本に共同対抗した米ソ間の協力が終了し、資本主義と共産主義の体制対立が始まった背景の中で発生した。国内的には一時的な米軍政下での聞き慣れない左右イデオロギーおよび統一国家に対する意見対立が渦を巻き、最も弱い輪である 済州で建国を控えて物理的衝突が起きた。 島という限定された空間で、血縁共同体の中で報復が起きて悪循環が繰り返され、被害が拡大された。歴史は過ぎ去った時間に対する記憶だが、加害者が誰であるかによって、同じ島の中で4・3を眺める視点、歴史観が異なる。 ヤン・シンハ大静邑誌編纂委員長は「父母が討伐隊によって亡くなった遺族は軍人・警察官の位牌があるので4・3平和公園に行きにくく、武装隊によって亡くなった遺族は、南労党員の位牌のために平和公園に行くことをためらう」と説明した。

 4・3特別法は金大中(キム・デジュン)政権時代だった2000年に制定され、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の時に真相調査報告書が確定されるなど、活気を帯びた。歴史との和解が強調された。鎮圧作戦に参加した軍人と警察官を犠牲者と見ることができるかどうかが議論になると、4・3委員会は2006年4月21日、法制処に質疑した。法制処は「特別法で済州4・3事件を住民が犠牲になった事件と規定しているが、犠牲者を住民に限定してはいない。犠牲者を可能な限り広く認めることが妥当であり、武力衝突と鎮圧過程で犠牲になった軍人や警察官も解放前後の混乱したイデオロギー対立の過程で発生した犠牲者に含めることが同法の趣旨に符合する」と回答した。 4・3委員会は討伐に参加した大韓青年団など、国家有功者519人、警察官91人、軍人28人を犠牲者として追加認定した。

 一方、憲法裁判所は2001年、4・3特別法の違憲確認審判請求を却下し、「(1)武装遊撃隊に加担した者の中で首魁級の共産武装兵力指揮官又は中間幹部として軍と警察の鎮圧に主導的・積極的に対抗した者 (2)冒険的挑発を直接・間接的に指導又は指示したことで、4・3事件勃発に責任ある南労党済州道党の核心幹部 (3)その他、武装遊撃隊と協力した鎮圧軍や警察官及びその家族 (4)制憲選挙関与者等を殺害した者 (5)警察官などの家屋と警察官署など公共施設に対する放火を積極的に主導した者」を犠牲者の除外対象とすべきだと明らかにした。 2002年3月、4・3委員会は憲法裁判所の基準を狭めて「(1)済州4・3の勃発に直接的責任のある南労党済州道党の核心幹部 (2)軍と警察の鎮圧に主導的積極的に対抗した武装隊首魁級は除くものの、その行為を客観的に立証する具体的かつ明白な証拠資料がなければならない」と決定した。

“アカ”の命を救ってくれた支署長はどうするのか

 ところが、加害者と被害者、加害者でありながら被害者でもある籍集合の部分を区分できるだろうか。除外基準が南労党員または警察などの職位になり得ようか。社会主義思想を持っていたが武装闘争には反対した南労党員、警察・軍人だったけれども虐殺には同意しなかったり、上部の指示によって仕方なく殺戮に参加して精神的トラウマを負った人たちは、加害者だろうか、被害者だろうか。モスル浦にはイ・シンホの寂しい墓碑も、南労党員名簿に載った大静面の住民たちの調書を虚偽作成して命を救ったモスル浦支署長ムン・ヒョンスンの功徳碑も、共存している。

 歴史が過去と現在の絶え間ない対話なら、現在の観点で過去を認識・評価すると同時に、過去に遡って、その中に置かれた事件を認識・評価することも均衡的な歴史感覚と言えよう。 時代状況とともに、個人の生き方を眺望することも実体的真実に接近する一つの道だ。個人の歴史が集まって時代と歴史を成す。議論が起きている103人の不良位牌リストに対する判断もまた、総合的かつ均衡的考察の中で行われなければならない。 103の位牌には103人のそれぞれ違った生き方がある。人間を判断するのに、いくつかの物差しの書かれた紙一枚で審判することは、あまりにも軽い。

第67周年済州4・3犠牲者追悼式が開かれた3日午前、済州市奉蓋洞の4・3平和公園で遺族と追慕客が犠牲者の御霊を慰め献花している。 済州/キム・ギョンホ先任記者//ハンギョレ新聞社

文:西帰浦、大静邑/パク・ユリ記者、写真:済州道庁・米国国立文書記録管理庁・済州4・3平和財団提供、グラフィック:ソン・グォンジェ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/society/society_general/684407.html 韓国語原文入力:2015-03-29 10:24
訳A.K(13556字)

関連記事