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[現地ルポ]観光の島と化した“朝鮮人の地獄島”…笑い声を聞くのが苦痛だった

登録:2015-06-11 22:18 修正:2015-06-12 09:22
作家の韓水山氏、徴用現場の軍艦島を行く
軍艦島で強制労働に苦しめられた朝鮮人のハン(恨)多い生を扱った大河小説『カラス』の著者である韓水山氏(69)が先月15日、かつての取材の舞台だった島を見て回っている=軍艦島(長崎)/キル・ユニョン特派員//ハンギョレ新聞社

 1965年6月22日、日本首相官邸で韓国の愛国歌が初めて響いた。 この日、韓日両国は14年余の長い交渉の末に植民支配で汚された不幸な歴史に終止符を打ち、国交を正常化する「大韓民国と日本国の間の基本関係に関する条約」を締結した。 今や修交50周年を迎える両国関係は、またも深い危機に直面している。 ハンギョレは日帝強制動員被害者が経験した悲劇を扱った小説『カラス』を書いた韓水山(ハン・スサン)氏と一緒に、両国間の“記憶の闘い”の熾烈な現場である軍艦島(端島)を見て回った。

労役の苦痛が随所に見え隠れするのに
「世界文化遺産に!」と垂れ幕の波
人々は廃墟の前で「わあ! わあ!」と歓声

軍艦島の位置と概要 //ハンギョレ新聞社

 午後8時に仁川(インチョン)空港を飛び立った飛行機は、一時間余りで福岡に着いた。 そこから高速道路に乗ることにした。 私の小説『カラス』が日本で『軍艦島』というタイトルで翻訳出刊されてから5年ぶりに訪ねる長崎だった。着くのは夜中の十二時頃だろう。

 空港を抜けると雨がぱらつき始めた。 すぐに心配になった。 明日の朝、軍艦島に行く船を予約したのだが、雨が激しく波が荒ければ、まともな接岸施設がないために船をつけること自体が不可能だからだ。

 翌日早朝、目が覚めるとすぐに外を見た。 雨がぽつりぽつりと降っている。しかし軍艦島行きの観光船は出航するという話だ。 船が出るということだけでもほっとして、港に向かった。 5つの会社が競合して運営する観光船は、会社ごとに2便ずつ運航している。 一日10便も船が出入りするので、軍艦島は一日中観光客でごったがえしている。 私が乗った「やまさ海運」の4200円の乗船券には、軍艦島見学施設利用券300円と共に、奇妙な名前の料金が含まれている。 「迷惑」料金がそれである。 近隣地域の漁民の漁に迷惑をかけるという意味で払う“迷惑料”なわけだ。

 切符売場から乗船場まで道いっぱいに「明治日本の産業革命遺産、2015年世界文化遺産に!」 と書かれた数十の垂れ幕が並んでひるがえっている。 長崎を世界文化遺産で塗り固めた感じだ。

 乗船してみると、見晴らしの良い2階はいっぱいの客で、既に空席はない。 下に降りて席に座った。 降ったり止んだりの雨の中、観光船が長崎港を離れると、船室では二つの大型スクリーンで周辺の景観を映しながら案内放送が始まる。 画面に長崎造船所で建造中の大型船舶が映し出されると、船室には歎声が上がる。右へ左へとカメラアングルを変えながら映し出す映像につられて乗客の目も左右に忙しい。 まるでテニス競技を見る観衆のようだ。ここでも金儲けが登場しないわけはない。 乗客の間を軍艦島の写真集を売り歩き、レインコートを売り歩く。

 船室の壁に沿って軍艦島の変遷史を示す写真がずらっとかかっている。 その中でひときわ目立つのが「乗客年間10万人突破」 「産業遺産ブームに乗って活気」 「十年目にして大成功 」。新聞記事を拡大したものだ。

アパート・パチンコ・風呂場…15歳の朝鮮少年のうめき声が聞こえた

 島が近づいて来る。 この島まで連れて来られて海底炭鉱で呻いていた朝鮮人を取材するために捧げた私のかつての日々が、黙々と頭をもたげ始める。 日帝強制占領期、その汚辱の歴史と共に徴用された先祖たちの涙ぐましい労役の話に、どんなに惨憺たる思いがしたことか。埋もれてしまう可能性もあったこの人々の幾層にも積もった話を言葉で復元するのだという思いで決意を固めていた日々が浮かんできて、粛然とした気持ちになる。 目を閉じても描けるように私の中に根を下ろした軍艦島が、あの時のあの日々と違うことなく、黒く壮大な姿で雨の中を近づいて来る。

 船を降りた。 接岸施設は以前と違いよく整備されていた。 年間 10万人の観光客のためには、このくらいの施設は不可避であったろう。

 一体全体、学ぶものなどないにもかかわらず“見学施設”という名で訪問する場所は3カ所、無残な廃墟に変わりつつある残骸である。 この3カ所を、それぞれ別の人が担当して案内と解説をする。 私がこの島に出入りした時に比べて、建物は大きく崩れて衰落している。 色からして「あんなに黒かったか?」と思うくらいにどす黒い。

 観光客たちはほとんど崩れてしまった風呂場を見ると、どっと群がり写真を撮った。 「幼稚園があの高いアパートの屋上に建てられました。 島に土地がないので屋上に建てたんです」。 それが何が可笑しいというのか、「わあ」と一斉に笑う。 「ここにはパチンコ屋もあったし映画館もありました」。 また何が可笑しいのか、一層大きく笑う。 ただ楽しい。 この人たちの中に立って、かつてここまで連れて来られてひもじい腹をかかえて血の汗の滲む労役を強勢された私たちの先祖のことを考えるのは、むしろ苦痛に近い。

 見学という名の解説付きの変な散歩(?)が終わって、船に戻ると「軍艦島上陸証明書」というものが配られる。 赤い判子で上陸の日付けが押された証明書の裏にもまた、「力を合わせよう!! 世界文化遺産登録に!!」 と書かれている。

 長崎港に戻る前に、船は長い時間をかけてゆっくりと島の周辺を回った。

先月15日、作家の韓水山氏とハンギョレ取材陣が訪ねた軍艦島は、前日から降り始めた雨に静かに濡れていた。 悪天候にもかかわらず、軍艦島がユネスコ指定世界文化遺産に登録されるだろうというニュースに、島は多くの観光客でにぎわっていた=軍艦島/キル・ユニョン特派員//ハンギョレ新聞社

私の小説『カラス』が『軍艦島』として
日本で翻訳出刊されてから5年
再び訪ねたその場所

廃墟観光ブームに乗って軍艦島に脚光
建築工学的に貴重な資料だと…
どす黒い建物の間で
日本人は何がそんなに可笑しいのか

 小説『カラス』を出してこの島を訪ねた2003年夏、荒波のため私は島に上陸できなかった。 借りた漁船に乗って島の周りをゆっくり回っていたその時。 あの擁壁の上から海に身を投げて自殺した小説の主人公クムファが、白いチマの裾をひるがえしながら私に向かって手を振る幻を見た。 「ありがとう。 私の話を書いてくれてありがとう」。 そんな声も聞こえるようだった。 仲間の徴用工たちを率いてこの地獄島を抜け出す必死の脱出には成功したものの、結局長崎で原爆に遭い、クムファの指の骨をしっかり握ったまま死んでいった男、ウソク… 。 彼もそこに立って、黙って私を見ているようだった。 あの時、音もなく私の頬をつたった涙をどうして忘れよう。

 取材に応じてくれた故ソ・ジョンウさんと初めてこの島に上がったのは1990年だった。 彼は15歳になった年に端島炭鉱に連れてこられ、病気になって長崎に移送され、さらに造船所に配置され、結局原爆に遭った。 貧乏のために母親が家出をすると、父親までがどこかに行ってしまい、祖母と二人きりで暮らしていて日本までつれてこられた彼は、帰るにしても故郷には誰もいないのではないかと思い、片方の肺を取ってしまった体で長崎に住み続け、日帝の強制徴用と苛酷な労役の事実を知らせる事に尽力していた。

 彼は学校の隣の病院(1958年築)と防波堤の間の一番奥まった所にある隔離病棟の跡を、自分たちの宿所があった所だと証言してくれた。 当時は地下室のある2階建ての建物だったそうだ。 その後に建てられた病院の付属建物は3階建てだった。廃鉱後に島を出ていく時、いい加減に積んでいったのか私が訪ねた時にはさびた病院の備品とともに空の点滴ビンが人の背より高く積み上げられていた。 ほこりをかぶったまま。

 その日、ソさんと私は互いに押し上げ引っ張り上げして高い防波堤の上に上がった。 擁壁に叩きつけては白く砕ける波を見下ろしていたソさんは、「いつも腹が減っていたことしか思い出せない」と暗い記憶をふるい落とそうとするかのように空を見上げた。 「よく一人であそこの防波堤の下まで来て泣いたりしたよ。ほんとに辛かったから。それから、あそこだった。あそこが、殴られてずきずき痛む腰を曲げて横になっていたところさ」。 私は私で、彼に昔の記憶を思い出させることからして申し訳なく苦しくて遠い海を眺めていると 、彼が海を指さして言った。 「あっちが故郷だ。 あの海を渡れば故郷だ。 どんなに繰り返しそう考えたか分からない」。彼のこの証言は、後日小説の中で最初の場面となった。

 観光船が島の周囲を回る間、案内者が特別に強調した建物は30号棟アパートだった。 1916年に建てられた日本で最初の鉄筋コンクリート建物で、140世帯が入居した鉱夫住宅だった。竣工当時4階建てで直ちに7階建てに増築されたこのアパートは、人工的に破壊せずに放置しているため、むしろ建築工学的観点から建物の劣悪化状態とその速度を研究できる貴重な資料として認識されている。

 廃鉱後の軍艦島は立ち入り禁止の無人島だったが、日本の表現通りに言えば「上陸を試みる無法者が多かった」という。 取材を始めてから、向い側の海岸の漁村で漁船を借りては行き来した私も、その無法者の一人だった。

 風雨の中に放置されたまま風化を続けていた軍艦島が突然脚光を浴び始めたのは、2000年に入ってからだった。 日本に起こった廃墟観光ブームだった。 古色蒼然とした遺跡でも、賑わう都市でもなかった。 廃墟を訪ねて歩く観光が流行のように広がった時、最も脚光を浴びたのが他でもないこの軍艦島の廃墟だった。

「ひもじかったことしか思い出せない」
惨状を証言したソさんのことが頭に浮かんだ
軍艦島で病気になって長崎に移送
造船所で労役して原爆に遭う…

1910年以後に建てられた施設
歪曲された記憶
世界文化遺産となる資格があるか

「軍艦島」と呼ばれる日本の長崎近海にある端島。ここは日帝強制占領期に朝鮮人強制労働被害があった場所だ //ハンギョレ新聞社

 問題は、果してこれが世界文化遺産となる資格要件と価値を有しているかにある。 日本が推進している「明治日本の産業革命遺産」は「1853年から1910年まで」と時期を限っている。 軍艦島の現存するすべての建物が1910年以降に建築されたものであるという点は、したがって致命的だ。 この単純で決定的な欠格事由を黙過したまま文化遺産登載を推進したあきれた団体が、ユネスコ傘下のNGO団体である国際記念物遺跡協議会(ICOMOS=イコモス)だ。

 長崎の急な坂道を上がって「岡まさはる記念平和資料館」を訪ねたのは、軍艦島に行って来た後だった。 日本の戦争犯罪を告発して平和運動を続けて来たこの記念館の高實康稔理事長は、松下村塾が産業遺産に含まれたことに対して痛烈な批判もはばからなかった。

 日本が申し込んだ23のユネスコ世界遺産リストには、「松下村塾」というやや小さい建物が含まれている。 明治維新の精神的支柱として知られた吉田松陰が教えた私設塾だ。 天下は天皇が支配し、その下で万民は平等であるという一君万民論を主唱した吉田は、倒幕を図る中で29歳で打ち首に処されて死んだ。

 帰国後、高實理事長がメールで送ってくれた「吉田松陰の侵略思想」という資料によると、吉田は自ら著した『幽囚録』で「北海道を開拓し沖繩を日本領土化し、李氏朝鮮の日本属国化、満洲・台湾・フィリピンを領有すること」を主張している。

 2006年9月に吉田を最も尊敬すると発言した安倍晋三首相は、いまや自分の故郷にあるこの史跡地をユネスコ遺産に登載させようとしているわけだ。 「松下村塾」はなによりも産業遺産ではない。 また韓国を征伐しようという征韓論を展開して近隣緒国の侵奪を督励した彼の思想と生き方が、どうしてユネスコが志向する人類の普遍的価値(Outstanding Universal Value)になり得ようか。 これを黙認して登載を勧めたイコモスの無能と誤謬を指摘せざるを得ない。

 日本が鎖国により門戸を閉ざしていた時代、窓の隙間から差し込んでくる日ざしのように扉を開いてオランダと交易した所が長崎の出島だった。 何かの痕跡でも得られるかと思って復元中のこの施設を訪ねた私は、敏捷な日本の商魂が作り出した一つの酒に出会った。 長崎の酒類会社がサツマイモで作った焼酒の名前が「本格芋焼酎 軍艦島」だった。 酒の瓶には海上に浮かぶ軍艦島の写真とともに「林立する高層アパート、廃鉱後の無人島から近代化文化遺産に…、 島は新たな歴史を刻み始めている」と長々と書いてある。 こんなふうにつながる“記憶”もあるのだ。

 端島が軍艦島と呼ばれ始めたのは、日本の闘犬土佐犬から名を取った戦艦「土佐」と、この島の外観が似ていると話題になってからだった。 戦艦「土佐」と端島炭鉱「軍艦島」の運命はその後、奇妙な足跡を描く。 設計者自身が「失敗作」とした戦艦「土佐」は、結局まともな活動もできないまま「ワシントン海軍軍縮条約」の標的となって自らを沈没させねばならない運命を迎える。 一方、悽惨な廃墟に変わった軍艦島は、150億円と予想される復旧費でも補修維持が不可能だという科学的判断にもかかわらず、世界文化遺産登載というアイロニーを目前に控えているのである。

 だから、軍艦島が故郷の、この島での哀歓を胸に秘めている人々の声も、“記憶”の対象になる。 彼らは「軍艦島の崩壊は時間の問題だ。国家の基幹産業として、廃墟として、観光産業資産として、時代に翻弄された端島の歴史も明確に刻まれなければならない」と主張していた。 何としても真実を明らかにし記録して後世に伝え、省察を繰り返すことを通して誤ちに点綴された歴史に耐性を育てるためにも、“記憶”は熾烈でなければならない。

 帰りの飛行機の中。 高實理事長が伝えてくれた長崎の浮き立った雰囲気が、始終心を乱した。 ユネスコ関連ニュースを聞いて「嬉しくて涙が出そう」と言う人もいるとして彼は言った。 「日本が進んでいる誤った道の誤謬を絶えず指摘して、反省を促す私たちの存在の意味は何でしょうか。 1%あることと、全然ないということの差は大きいのです。 私たちは社会的に無能であるかもしれないが、無力ではありません」

韓水山(ハン・スサン)作家(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/politics/diplomacy/693852.html 韓国語原文入力:2015-06-02 11:43
訳A.K(6563字)

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