1960年代末から1970年代にかけて米国で活動した急進左派武装組織「ウェザーマン」は、ボブ・ディランの曲「サブタレニアン・ホームシック・ブルース」の歌詞「風向きを知るのに予報官(ウェザーマン)は要らない」からその名を取った。映画監督ポール・トーマス・アンダーソンの新作『ワン・バトル・アフター・アナザー』は、その舞台を現代に移し、家族と政治的信念、暴力と責任の間で解決されずにいる長年の緊張を映し出す。
かつて急進派組織「フレンチ75」の一員だったボブは、過去を忘れて生きていこうとするが、長年の宿敵であるスティーヴン・ロックジョーが再び現れ、フレンチ75の生き残りと娘のウィラを追跡し始めたことで、ボブは再び地下世界へと引きずり込まれていく。
この映画は、ロバート・レッドフォードの2012年の作品『ランナウェイ/逃亡者』と比較するに値する。かつてウェザーマンのメンバーとして活動した主人公のジムは、自身の正体が明るみになると、昔の恋人ミミに助けを求める。ジムは家族への責任を重んじる父親になったが、ミミは依然として革命的理想を保持している。映画は急進的闘争を家族と責任の倫理に変え、革命の代わりに「成熟」を回答として提示して終わる。
一方、『ワン・バトル・アフター・アナザー』では闘争が続く。ただし、新たな革命家たちは、帝国主義に対抗する代わりに、移民を助けることに集中する。体制自体に反対するのではなく、移民が体制内に編入されるよう支援するのだ。体制はもはや敵ではないため、映画では、革命の敵対者も同様に灰色の官僚ではなく、誇張された狂気と快楽にとらわれたカリカチュアとして描写される。
この中心には、ボブの過去の同志であり、ウィラの母親であるペルフィディアが存在する。彼女は左派的信念を象徴する人物として登場するが、実は映画の構造的な装置として機能している。彼女は映画の序盤で画面から姿を消すが、すべての事件は彼女の不在を軸にして起きる。そのような中心性にもかかわらず、彼女を実際の女性の主体性とみなすことは難しい。彼女は性、暴力、自由を完璧に結合した「全体としての女性」「ファルス」(男性性の象徴)としての女性だ。男性的欲望が作った幻想だ。
この映画は、催眠術をかけられたようなカーチェイスのシーンから、機関銃を構える革命的な修道女まで、狂気じみた天才的なシーンで満ちている。このように不均質かつ多層的な空間で展開される映画のスタイルは、こんにちの世界の金融資本主義をもはや一つの総体として把握することが不可能であるように、映画がその内容を一貫して構成するのは困難であることを示している。映画が自ら描写する社会を完全に再現できないというまさにその失敗、すなわち、フレドリック・ジェイムソンが言う「認知地図の描画」の不可能性こそ、むしろその社会の真実を示す指標になる。
しかし、このような不可能性は「不在の中心」としてのペルフィディアによって隠蔽される。彼女は映画の破片的な内容を一つにまとめる媒介者として機能し、資本主義の過剰で破壊的な論理を純粋なかたちで具現化する。それに比べれば、映画のなかの悪党は、たんなる資本主義的エネルギーの淡い影にすぎない。このような点でこの映画は、示しているものとは違い、反フェミニズム的だと思われる。
この映画は、最後の和解の約束が本心なのか虚偽なのかを明らかにしないまま、意図的に何の答えも提示せずに終わる。革命的情熱と親としての責任の間の緊張が解消されない状況のもとで、ただ相反する視点が併存し、その間の緊張が遊戯的に演出されるだけだ。
こんにちのわれわれに必要なのは、家族からの後退や過去のロマンチックな反復ではなく、過去に向き合い分析することだ。かつての反帝国主義闘争は解放を夢見たが、多くの場合、新たな権威主義に帰結した。同様にこんにちの米国での散発的で小規模な暴力は、トランプ式国家体制に対抗できる可能性はなく、むしろ、抑圧的な措置を強化する役割を果たすだけになりやすい。いまや焦点を、われわれの暮らしを統制する企業のデジタル権力を揺るがすことに合わせなければならない。
『ワン・バトル・アフター・アナザー』には何の革命性も存在しない。映画の人物たちは、何の指針もなしにさまよっているだけだ。風向きを読むことができる新たなウェザーマンが切実に求められる時代に、映画は混乱したスタイルを通じて、その迷いの状態を急進的自由と勘違いし、それを称揚している。
スラヴォイ・ジジェク|リュブリャナ大学(スロベニア)、慶煕大学ES教授 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )