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[寄稿]新春夢想…資本主義よさらば

登録:2022-01-08 02:47 修正:2022-01-08 08:27
キム・ミョンイン|仁荷大学国語教育科教授・文学評論家
 
人類に残された時間が長く見積もって100年だとすると、私たちはこれから何をすべきなのだろうか。どうせ滅びるのだから、悪無限の欲望を今のように思う存分追い求めて野蛮な人生をがむしゃらに生きて死にゆくべきか、それとも今から多少なりとも欲望の泥沼から抜け出し、より品位を持ち節制された真の文明の人生を送っていくべきか。
//ハンギョレ新聞社

 2022年だ。20世紀半ばに生まれ、若き日の大半を一千九百で始まる年に生きてきたせいか、21世紀が始まって二千で始まる年は、すでに22年も経つのに、なんとなく人の家で居候生活しているかのように、まだ慣れない。『2001年宇宙の旅』や『ブレードランナー』のような映画のせいで、子どもの頃にはすでに21世紀は暗いディストピアの世紀だろうと想像してはいたものの、今のように生き残れるかどうかを心配するようになるとは思ってもみなかった。コロナパンデミックがもう2年以上続いているせいで、いまだにマスクなしで家の外には出られないし、季節を問わず毎日あるところでは洪水が、あるところでは猛暑と山火事が、あるところでは竜巻が襲い、氷河が溶けて村を飲み込み、地震や火山噴火が起きたというニュースが聞こえてきているわけで、『2001年宇宙の旅』や『ブレードランナー』の陰鬱な想像力もまだ純真で素朴だったと言えよう。だから、新年だとは言え、嬉しいはずがあろうか。これ以上悪くならないことをただただ望むばかりだが、果たしてそうだろうか。予測不可能性と不確実性に満ちた新年の視野は、どうしようもなくかすんでいる。

 もし人類に残された時間が長く見積もって100年だとすると、私たちはこれから何をすべきなのだろうか。どうせ滅びるのだから、悪無限の欲望を今のように思う存分追い求めて野蛮な人生をがむしゃらに生きて死にゆくべきか、それとも今から多少なりとも欲望の泥沼から抜け出し、より品位を持ち節制された真の文明の人生を送ってから死ぬべきか。人類の存続が真に危機に瀕し、取り返しのつかない状況なのであれば、たとえ歴史の時計の針を戻すことはできなくても、最後のいくばくかでも、なぜこのような状況に至ったのか、何がこんな危機と災厄を招いたのかを省察するとともに、人間の心に確かに存在するすべての善良な意志を一つにして、今までとは異なる人生を送るべきではないかと思う。

 そのためには今年を、今や考えることを知る人なら誰もが語ってきたことであるものの、誰も実行できていない例のことを始める元年としたらどうだろうか。この貪欲な老人のように老いて残酷な資本主義体制と真に別れを告げる、ということを。

 どうにかして利益を残さなければならず、利益を残せなければ滅びるという簡単な命題のみをもって、人間の持つ能力を最も短い期間で最大限に引き出して、あまりにも多くの事を成し遂げたのが資本主義であった。資本主義社会で利益を残す最も速くて確実な方法は、新たな商品を作り出して売ることであるため、資本主義体制はあまりにも多くの物を限りなく作り出し、そのような無限大の商品生産は人類に未曾有の物質的豊かさをもたらした。商品を作り、市場で売って稼ぎ、その金で新たな商品を買って使うという、この簡単な循環過程を繰り返す間に、人間は基本的な衣食住から最先端の文化生活まで享受できない人生はなくなり、海底から宇宙まで行けない場所はなくなり、ボールペンから飛行機まで使用できない道具もなくなった。そしてより多くの貨幣を所有するほど、このあらゆる豊かさのさらに多くが自分のものになるのが、まさにこの体制だ。

 しかし、この豊かさと利益には、それより大きな苦痛の対価がついて回る。人間が貨幣の奴隷になること、そのために一日一日を戦争のように生きること、万人が万人に対して野獣になって競争しなければならないこと、労働が苦役となり休息が罪悪となること、ある者は所有する金を使い切れずに死んでゆき、またある者はわずかな金がないせいで死んでゆくこと、必要でもない物が有り余るほど作られ、そして大量に捨てられること、そして何より、資本主義的発展と成長の永遠の物質的条件だと思われていた地球という生態系そのものが、もはやこれ以上耐え切れなくなってきたということ、貨幣を媒介としてあらゆるものを利益に還元する資本主義体制という巨大な工場は、表ではこれらすべてのきらびやかな豊かさを生産しつつ、裏ではこれらすべての苦痛と枯渇も生産していたのだ。

 実際には、このような考え方は真新しいものではない。これまでもこのような事実を知った多くの人々が存在したし、彼らは早くからこの怪物のような体制を抜け出すべきだと主張してきており、果敢にこれを実践に移してもいる。しかし、そのような考え方は理想主義者の荒唐無稽な夢想や敗北者の常套句的不満であったり、新たな利益を上げようと目論む不純分子の危険な策略とみなされて排斥されたりし、それらの実践は残念ながら資本主義を克服する真の代案として成功することはできなかった。

 しかし、今は違う。もはや人類社会は、この体制を終わらせようという考えよりも、この体制を維持していこうという考えの方が危険であり、この体制を終わらせるか変えるという実践をしなければ人類全体の存続が危うくなるという局面に入ったと断言できる。

 ではどうするか。まず、私たちはもはや、何かを生産して利潤を生み出し、経済を成長させなければならないという生産の神話と、生活をさらに豊かにしなければならないという消費の神話から脱しなければならない。今や新たな商品の開発は、地球生態系の持続可能性を高める代替材に対してのみ行われなければならず、消費は質素な水準の基本的な衣食住と文化的欲求を満たす程度に節制されなければならない。そして基本的な衣食住を解決する生産活動は、徐々に資本と市場の領域から協同的な生活共同体の領域へと移され、資本の活動は、地球生態系の持続と復元のための代替財生産の領域と、高度な技術的集積が必要な先端領域のみに縮小されなければならないだろう。

 このような生産体制の改編は、労働の変化へと自然につながることになる。産業の自動化と縮小改編で不足する雇用は、労働時間の画期的短縮と生活共同体での相互協同的労働需要の創出で補完され、所得の低下は、資本活動を通じて創出された社会的利潤や資産や所得に対する累進的租税などを財源として、基本所得(ベーシックインカム)を全面的に拡大することで解決され得るだろう。

 このような社会が実現するなら、もしかすると私たち人類は来るべき地球的災厄から逃れることができるだけでなく、すでにあふれ返っている豊かな資本主義生産の成果を十分に享受しつつ、労働の苦痛と疎外から脱し、仕事と休息と創造的な余暇活動が調和を成す幸せな人生が送れるかもしれない。いきなり何の夢想かと言われたら、どうせすべてに息がつまり不確実な新年に、こんな幸せな夢想でもしなければ息もできないではないか、と答えるつもりだ。

//ハンギョレ新聞社

キム・ミョンイン|仁荷大学国語教育科教授・文学評論家 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/1026317.html韓国語原文入力:2022-01-06 18:48
訳D.K

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