既視感。最近、いろいろな集まりでしばしば耳にする単語だ。 この三つの音節は文在寅(ムン・ジェイン)政府を指している。 現政権の様態が朝鮮半島の平和造成という成果にもかかわらず、かつての盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権の前轍を踏んでいるのではないかという憂慮がその要旨だ。執権2年目に入ったが、財閥改革や非正規職など経済社会改革の核心課題においてはっきりした成果がない上に、最低賃金などの懸案を巡っては労働組合との関係が悪化するなどの状況が、参与政府の時の政策失敗の姿にだんだん似ていくのではないかというのだ。「医療機器規制緩和」政策は、このような憂慮が杞憂に過ぎないとばかりは言えないことを示す象徴的な事例だ。
「財政(中心)の罠」から一歩も抜け出すことができないような姿に至っては、その深刻性が一層増すという診断も出てくる。 保有税と金融所得課税など税制改編やいろいろな社会政策改革課題に速度調節と財政の名でブレーキをかける企画財政部(企財部)の態度が、既視感を増幅させるというのだ。 企財部排除でなく企財部放置が問題だという指摘だ。 いくら華麗な社会政策ビジョンを出しても、財政という論理の罠から抜け出さなくては具体的な進展を成し得ない。 その上、まだ意味ある第一歩を踏み出せないでいる国政課題も数えきれないほどだ。 18日の知識人一同の「社会政策放棄に対する憂慮」宣言は、このような状況を土壌にして出てきたものだ。
文在寅政権はろうそく政府として「国を国らしく」作る任務を与えられた。 この歴史的任務は、当然大統領と大統領府補佐陣、行政部署の首長などが率先して成し遂げなければならない。しかし、この任務を彼らが独占する必要はなく、また独占されても困る。 現政権と大統領府が「参与政府の既視感」から抜け出す出発点は、おそらくこのような認識をもとに市民および知識人社会など「外部」ともっと頻繁に、そしてもっとたくさん疎通し、もっと広く連帯することではないだろうか。