ちょうど100年前、寒く重苦しいペトログラード(現サンクトペテルブルク)で世界史の分岐点になった途方もない“事件”が起きた。世界史上初めて被抑圧階層を基盤とする、非市場的で国民国家の限界を越えるもう一つの未来を指向する急進政派が国家権力を勝ち取ることに成功した。
レーニンは、世界無産大衆、植民地の被抑圧大衆に訴えて、ドイツのようなかつての敵を友人にすることができた。私たちも朝鮮半島での平和、共存、軍縮政策を推進し、世界の良心に訴えることができる。世界性と平和指向こそまさに今ロシア革命から学ばなければならない教訓ではないだろうか。
今年の11月はロシア革命100周年に当たる。ちょうど100年前に、寒く重苦しいペトログラード(現サンクトペテルブルク)で世界史の分岐点になった途方もない“事件”が起きた。世界史上初めて被抑圧階層を基盤とする、非市場的で国民国家の限界を越えるもう一つの未来を指向する急進政派が国家権力を勝ち取ることに成功した。もちろんボルシェビキが期待した世界革命は不発に終わったし、新生ソビエト共和国は孤立した。レーニンが当初から夢見ていた、直接生産を担当する主導者が生産過程を統制する民主的社会主義社会も結局まともに実現されないままに終わってしまった。
とはいえ、ロシア革命はロシアのみならず全世界の歴史的な流れを変えた。ソ連が提供した代案産業社会のモデル、そしてソ連とその同盟国からの支援がなかったならば、果たして1945年以後の植民地解放運動やキューバやベトナムの革命は成功できただろうか。朝鮮も例外ではなかった。1920年代初期から流入した社会主義思想は、その時まで復辟論(朝鮮王朝復旧論)と共和論の対立で綴られていた独立運動の状況を変えた。社会主義が最も大衆的な独立運動勢力になり、その他の政派もその影響を多分に受けた。憲法上、大韓民国は臨時政府の法統を継承するとなっているが、臨時政府の建国綱領(1941年)はロシア革命、社会主義思想の影響で土地と大規模生産機関の国有化を明示していた。したがって私たちが臨時政府の法統をまともに受け継ごうとするならば、サムスン電子と現代自動車を国民企業にすることが妥当だろう。
もちろん1917年革命以後のロシアと朴槿恵(パク・クネ)退陣以後の大韓民国の状況は違うので、ロシア革命時の政策をそのまま今日に適用することは不可能だろう。全国が第1次世界大戦で荒廃し、大都市には飢謹が迫り、農村では地主の土地を一日も早く無償没収、無償分配しようとする農民が地主の屋敷に放火したりしたその当時の状況を、今日想像することは難しいだろう。それでも今見ても見習う価値のある政策を、革命時期にはかなり多く見出すことができる。
最も代表的なものは、体制が異なる他国との共存共生と平和のための外交であった。実際、平和問題こそが革命当時のロシアで民衆とエリート間の軋轢の核だった。民衆は3年間続いた第1次世界大戦という屠殺劇に疲れ果て、これ以上戦争する意志も能力もなかった。ところが右派や中間派だけでなく、革命政党の内部でさえも、多数の政治エリートは「祖国防衛」の立場から敵国だったドイツとの即刻平和協定締結に絶対反対した。ロシアの総人口の3分の1が暮らしていた広大な領土をドイツに渡し、ドイツとブレスト=リトフスク平和条約を結んだレーニンは、ボルシェビキ党内からも同僚から“逆賊”の声を聞かなければならなかった。ところが、その条約が締結された8カ月後にはドイツでも1918年11月革命が起き、条約は無効化され、ドイツの軍隊はロシア領土を去った。平和に向けた外交で、レーニンは国際的にはノーベル平和賞受賞候補に推薦され、国内的には戦争を嫌悪する大衆から途方もない人気を得た。ロシアの同盟国だった英国、フランスの政権は、妨害工作と武装干渉を通じて平和協定を妨害したが、レーニンは平和外交を曲げなかった。
平和外交は第1次世界大戦からの脱退にとどまらなかった。この外交の一次的な対象は当時世界舞台の弱者たちだった。ボルシェビキ政府は、相手方の理念を問い詰める前にひとまず列強という名の強者が支配する世界で、ソビエトロシアと他の世界弱者間の「共通分母」を模索した。例えば一党体制のソビエトロシアと、多党制議会主義国家であるワイマール時代(1919~33)のドイツは、戦争で汚された過去を超越して1922年に国交を結び非常に密接な関係を結んだ。ムスタファ・ケマル・アタテュルク(1881~1938)治下のトルコは、共産主義に敵対的な民族主義国家だったが、列強に共同で対抗する反帝戦線の一部分になることができたので、ソビエトロシアから領土的譲歩を受け、1930年代末まできわめて近い関係を維持した。さらに封建王国だったアフガニスタンともソビエトロシアは1919年に早期に国交を結んで、技術援助などを惜しまなかった。英国に対抗したアフガニスタンの独立闘争が、理念の違いを超越できる共通分母だったためだ。
ところが主要列強である英国、フランスともソビエト共和国は1924年に修交し、良い関係維持のために英国労働党やフランス社会党などの穏健社会主義者を相手に政党外交を繰り広げた。ただし、英国がソビエト共和国にインド独立運動を支援しないよう要求した時は、その要求を断った。同様に1925年に日本との関係は回復したが、朝鮮の共産主義者たちに対する支援も続けた。さらに京城(現ソウル)の領事館を、朝鮮の社会主義者にコミンテルン支援金を渡すための場所として利用もした。平和と協力を指向するものの、決して革命的理想を放棄しようとはしなかったのだ。スターリンの独裁のまっただ中だった1930年代末、ソ連外交に帝国主義的特色が再び現れたが、それ以前までは朝鮮の「朝鮮日報」や「東亜日報」も平和維持と弱者との連帯を中心とするソ連外交に概して肯定的だった。
私たちにとって、レーニンの外交から学ぶべき教訓は何だろうか。何よりも民衆の平和への願いに対する配慮、そして理念と体制の差を越える共存と共生の技術だ。ワイマール時代のドイツ、1920~30年代のトルコ、アフガニスタンなどは、ソビエトロシアと理念や体制を異にしても、そのような外交的努力の結果で良い協力者になることができた。ボルシェビキと英国労働党は、理念を異にする部分が少なくなかったものの、平和指向などを特に労働党左派と共有できただけに、かなり友好的な関係作りも可能だった。
今日の韓国を考えてみれば、北朝鮮との差が大きいといって必ずしも互いに敵対するべきだろうか。 差も大きいが、それ以上に両者が支払わなければならないあまりにも高い分断と敵対の費用を減らすことでもたらされる共同利益の方がはるかに大きい。北朝鮮の若者たちは世界的に類例のない10年間の兵役義務を担わなければならないが、韓国の徴兵制度も若者たちに多大な被害を与えている。軍隊内での死亡事故が傾向的には減ってはいるものの、昨年一年間だけでも軍服務中に81人の若者が貴重な命を失った。兵営での殴打も減ったというものの、相変らず予備役を対象に調査すれば、約半数程度は暴力行為を経験したという。北朝鮮でも軍隊で暴力が全くないわけではないとの証言もある。
相互対立状況が与える圧迫感は、暴力的で抑圧的な兵営秩序を維持させる。北朝鮮は先軍という名前で軍に主眼点を置くが、文在寅(ムン・ジェイン)政府の来年度国防予算も9年ぶりに最大幅(6.9%)の増加率を見せる。北朝鮮は医療から基本インフラまで全て追加投資を必要としており、韓国は福祉予算が大幅に不足しているのに、なぜよりによって天文学的な資金をそろって武器競争に浪費しなければならないのか。レーニン外交の先例どおり、果敢に互いに接触して軍縮を論じられる信頼モードの構築に共に突入すれば、双方にはるかに良くはないだろうか。
レーニンは世界の無産大衆、植民地の被抑圧大衆に訴えて、ドイツのようなかつての敵を友人にすることができた。私たちも朝鮮半島での平和、共存、軍縮政策を推進し、世界の良心に訴えることができる。冷戦と新冷戦の最悪の被害者になった分断された朝鮮半島の平和政策を支持してほしいと訴えれば、今のトランプの好戦的政策に対抗して闘争しようとする米国の多くの有権者は支持を送ると確信する。北朝鮮核問題が日本の極右に利用されているが、朝鮮半島の平和モードは日本の軍事化に反対する日本の良心的市民にも大きな助けになるだろう。革命は暴力的側面を内包するとしても、世界性と平和指向こそが今ロシア革命から学ばなければならない教訓ではないだろうか。
朴露子(パク・ノジャ、Vladimir Tikhonov) ノルウェー、オスロ国立大教授・韓国学