太平洋戦争中に日本軍に強制動員され
泰緬鉄道で捕虜監視員になった李鶴来氏
戦後のB・C級戦犯裁判で死刑判決後20年に減刑
1956年に釈放されたが親日協力者の汚名で祖国行きを断念
名誉回復を求める日本での訴訟は
韓日条約による請求権喪失で敗訴
最後の解決手段として韓国憲法裁に審判請求
彼は1925年に全羅南道宝城(ポソン)兼白(キョムベク)の奥地の貧しい農家に生まれた。朴姓が多い村で李姓の彼の家は少数派だったが、父は村長をするほど人徳があった。中学校を卒業し宝城郵便局と麗水(ヨス)水産市場で雑役をしていたものの、何事もうまく行かず彼の青年期は過ぎ去って行った。
1942年、17歳になった彼は炭鉱での強制徴用や日本軍徴集から逃れようと、村の裏山で避難生活をしていたが、そこで「捕虜監視員になると、2年契約で給料50円を貰える」という話を聞いた。村で誰かは行かなければならなかったので、彼は軍属と兵士の違いも、どこで何をするのかもわからないまま一人で村を発った。
釜山西面(ソミョン)に位置する日本軍野口部隊。全国から集まった3016人が捕虜監視員になるため「ピンタ」(仲間の頬を殴る体罰)を繰り返され受けながら、過酷な軍事訓練を受けた。彼らは連合軍の捕虜監視任務やジュネーブ条約についてはまともな教育を受けられず、1942年8月に釜山港を出発し、スマトラ、ジャワ、タイ捕虜収容所にそれぞれ配属された。映画『戦場にかける橋』で有名な泰緬鉄道(タイとミャンマーを結ぶ約415キロの鉄道)の150キロ地点建設現場のヒントックで、彼は仲間の4人と共に500人の連合軍捕虜の監視任務に就いていた。粗末な衣食住、医薬品の不足、装備もない過酷な労働環境、それにジャングルの中の伝染病にコレラまで蔓延して多くの捕虜が犠牲になった。
東京戦犯裁判の記録によると、日本軍捕虜になった米英連合軍捕虜13万2134人のうち3万5756人が死亡し(死亡率27%)、この中でも悪名高い泰緬鉄道の場合、投入された捕虜4万8296人のうち約30%を超える約1万6000人が犠牲になった。日本軍がいかに無謀な、非人道的な作戦を実行したのかが窺い知れる。しかし、この連合軍捕虜の監視および動員の最前線で活用されていたのは朝鮮の青年たちだった。
いわゆるB・C級戦犯裁判で朝鮮人148人が日本の戦争の犯罪者として刑を受け、23人が死刑判決を受けた。泰緬鉄道第5分所の監視員だったチョ・ムンサンは1947年2月25日、「俺には自分のものは何一つない」との遺書を残し、死刑場の露と消えた。彼も通訳や具体的な物証もなく、証言だけで行われた裁判で死刑判決を受けた。不幸中の幸いか彼は1947年10月に劇的に20年に減刑され、1951年8月、他の27人の朝鮮人戦犯と一緒に日本の巣鴨事務所に移送された。
サンフランシスコ講和条約の発効とともに国籍の問題で日本人ではない彼らは釈放されるべきだったが、韓日両政府はこの問題を協議していなかった。彼らは1956年6月初めて釈放されたが、故郷を離れて異国の地で解放された同僚2人は自殺し、精神病院に入院した人もいた。彼らは親日協力者という非難を受け祖国行きを断念した。
1965年に行われた韓日会談でも朝鮮人戦犯問題は協議されておらず、彼は釈放された仲間たちと「同進会」を立ち上げ、1991年に東京地裁に日本政府を相手に謝罪と補償を要求した。しかし、「日本国籍の喪失と韓日条約以来、請求権の喪失」を理由に8年続いた裁判は、結局敗訴に終わった。
2006年、韓国政府は彼らを日本による強制動員被害者として認定した。しかし、彼は日本政府の公式謝罪こそが「戦犯」という汚名を着せられて死んでいった23人の仲間たちの名誉回復であり、自分が生き残った理由だと信じている。彼は安倍晋三首相に問題の解決を求める要請書を提出するなど、1955年の鳩山一郎首相以降、29人の首相に毎回要請書を送ったが、日本政府はいまだ沈黙を守っている。
2008年、日本の民主党政権時に特別法が提出されたが、民主党の没落とともに法案も廃棄されてしまった。 2015年に90歳を迎える彼は、最後の解決手段として昨年10月14日、韓国の憲法裁判所に憲法訴願審判を請求した。彼は、最後まで祖国を相手にした憲法訴願には躊躇した。「戦犯」が祖国を起訴することに対する批判もあるだろう。しかし、韓国政府と日本政府が彼らの問題を放置してきたのは事実だ。韓日国交正常化から50年、彼らの鎖を切ってあげるべきではないだろうか。もう一つの帰らぬ魂を作ってしまうのか。彼らが戦犯であるなら、私たちは共犯者である。私は李鶴来(イ・ハンネ)だ。
韓国語原文入力: 2015.02.01 18:50