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[コラム] 韓国人の戦争のような生き方

登録:2015-01-12 02:39 修正:2015-01-12 06:17

 韓国人は感情的で非合理的だと思っている西洋人が多い。これと関連し、英国のジャーナリスト、マイケル・ブリンは『韓国人を語る』という本で、西洋人が感情的に行動する問題に対し韓国人は非常に合理的で打算的に行動する場合があるとし、その代表的例として配偶者を選ぶ問題を挙げる。西洋人は経済的な条件を優先する韓国人のお見合い文化を到底理解できないというのが彼の主張だ。

 家柄の社会経済的存在証明と誇示に重点を置く韓国特有の結婚式文化を見ても、そのような主張に反論するのは容易ではない。韓国の大衆音楽界に命賭けの愛を歌った歌謡が多いのは条件を中心とした結婚に対する補償心理のせいかもしれない。歌手イム・ジェボムは荒っぽい考えと不安な目つきに胸焦がす「戦争のような愛」を絶叫し、ペク・ジヨンは別れ話に「銃で撃たれたように」胸が痛むとすすり泣く。

 誰もが合理的かつ打算的に結婚するなら、人生はそれだけ幸せになる可能性が高くなるのではないか?そうではない。いわゆる「合成の誤謬」のためである。合成の誤謬は各個人の合理的行動の総合が全体的には否定的な結果をもたらすことをいう。例えば、不況に貯蓄を増やすと、個人は安心感を感じるだろうが、みんながそうすれば、消費が減り景気をさらに悪化させる結果をもたらす。同様に、誰もが合理的かつ打算的に人生を生きていくと、社会は過剰競争の沼に陥り、必要以上に厳しく殺伐としたものになりかねない。韓国社会の大学入試戦争がその生々しい証拠だ。

 「戦争のような愛」からの逃避を図った私たちは「戦争のような生き方」に陥る。経済的な序列から脱皮し、各々の多様な価値観や人生観に基づいて生きて行けば、私たちは自分だけの世界に満足しながら平穏な生活を営むことができるだろう。しかし、私たちは必死になってすべての人々を縦に並べ立て序列を付けなければ気が済まない。生活の満足度とやりがいは自分の内面から来るわけではなく、人との社会経済的比較から得られるものだからだ。自分の目標を達成したとしても、それで終わりではない。自分より成功した人が次から次へと現れる。だからいつも戦時状態で生きていかなければならない。

 韓国人たちの「戦争のような生き方」は各種統計でも証明される。数多くの統計があるが、世界最高の自殺率と世界最低の出生率だけでもその戦争の残酷さを窺い知ることができる。甲乙関係(優越者と劣等者の関係)における“甲ジル”(優越者による横暴)は権力と金を持った者だけのものではない。それは多段階にわたる食物連鎖構造になっており、全国民の頭と胸の中に内面化されている生活の基本的な様式だ。

 そのような「戦争のような生き方」の起源は、遠くまで遡ることができるが、それが最高潮に達したのは6·25戦争(朝鮮戦争)の時代ではなかったのだろうか?その意味で、6·25は終わった戦争ではない。まだ私たちの心の中に生きている、私たちの意識と行動を規制する生活文法だ。過去の高度成長はそのような「戦争のような生き方」を原動力と活力に変えられる余裕を提供したが、今低成長と雇用なき成長の時代がもたらす貧富の二極化は戦争の内容と方法さえもより残酷で醜くするだろう。ある詩人は「貧しい人たちはお互いの顔を見るだけでも楽しい」としたが、今は社会経済的弱者間の戦争だけがさらに激化することになるだろう。

カン・ジュンマン全北大学教授。 //ハンギョレ新聞社

 どうしたらいいのか?より多くの人々が死んでいく前に、これから終戦まではいかなくても休戦だけでも考えてみよう。多様な価値観と人生観の拡散は、法と制度だけで成し遂げられるものではない。法と制度による変化を図るとしても、「私たちの心の中の6·25」を弱体化できる構想と設計が必要だ。競争一本ですべての問題を解決しようとする従来の発想に「協力」と「共存」という価値を浸透させなければならない。「福祉だけが答え」という模範解答だけに頼らず、私たち皆がそのようなシステム設計のために勉強しなければならない。これといったシンクタンク一つなく派閥間・政党間の闘争のみに没頭する政界の「憎悪商業主義」は、誰が勝者であれ「戦争のような生き方」をさらに悪化させるだけだ。

カン・ジュンマン全北大学校新聞放送学科教授(お問い合わせ japan@hani.co.kr )

韓国語原文入力:2015/01/11 18:45

https://www.hani.co.kr/arti/opinion/column/673054.html  訳H.J

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