「…日本人浪人たちが後宮と皇后と推定される女性を殺害した、意気揚々とした朝鮮の新たな『親日派』により、事実上、朝鮮の王が監禁される」
このような文章で始める125年前のロシア出身の30代建築家の自筆の証言録は、埋もれてしまうところだった日本の蛮行を明らかにした史料として歴史に残ることになる。彼の名前はアファナシ・イバノビッチ・セレディン=サバティン(1860~1921)。1895年10月8日未明、高宗皇帝の妃の明成皇后が景福宮の居所に乱入した日本の浪人たちの手で残酷に殺害された乙未事変を、当時、王室警護員の資格で唯一目撃し記録した外国人だった。
「皇后の寝殿で日本人の暴徒たちが行った蛮行を詳細に見た…日本人たちが朝鮮の女性たちの長い髪を掴んで引き出した後、窓の外へ投げ飛ばしていた。私が皇后宮殿の庭に立っている間、日本人たちは10~12人の宮女を窓の外に投げた」「日本人の頭目は再び私のところに来て、極めて厳格な口調で尋ねた。『我々はまだ皇后を見つけていない。皇后がどこにいるか知っているか?』」
当時の現場の状況を最も生々しく伝えるサバティンの証言録の様々な記述は、韓国の歴史上最も恥辱的な事件に挙げられる乙未事変が、日本の計略により行われた殺害劇だったことを立証する決定的な根拠になった。1883年に専門的な建築教育を受けないまま仁川(インチョン)の海関職員と土木技術者を兼ねて朝鮮に来たサバティンが、ロシア公使館を通じて大韓帝国末期の高宗皇帝夫妻と結ぶことになった縁は、じつに数奇だった。明成皇后が殺害される現場を目撃しなければならなかっただけでなく、皇帝が日本の脅威を恐れ1896~1897年に身を隠した(高宗ロシア公館亡命)ソウル貞洞(チョンドン)のロシア公使館を1885~1890年に設計し建設した。徳寿宮の重明殿や惇徳殿、独立門、景福宮の観文閣など、韓国の近代史に大きな痕跡を残した建物ごとに、サバティンが設計したり建設に関与した縁が刻まれている。それだけに、ウクライナ貴族の末裔のロシアの建築家が19世紀末~20世紀初頭の朝鮮で経験した人生は波乱万丈だった。
文化財庁は20日から、韓国・ロシア国交正常化30周年を迎え、大韓帝国末期の朝鮮の建築物の設計と工事に関与したサバティンをテーマにした特別展「1883 ロシア青年サバティン、朝鮮に来る」を始める。重明殿の2階で開かれる大きくはない展示だが、この地の近代政治史と建築史に屈曲した足跡を残したサバティンの面貌に新たな光を当て、知らせるという意味をもつ。展示は、乙未事変に関連したサバティンの記録を紹介するプロローグから始まり、「朝鮮に来たロシア青年サバティン」「ロシア公使館、サバティンが手がける」「サバティン、済物浦(チェムルポ)と漢城(ハンソン、ソウルの旧名)を歩む」というタイトルの3つの部分に分かれる。特に序幕のプロローグに出てくるサバティンの証言録と景福宮内の殺害現場の略図についてのパネル写真の記録は注目に値する。1895年10月8日未明、日本公使の三浦梧楼を筆頭に漢城に駐留した日本軍守備隊と公使館員、浪人集団などが景福宮に乱入し、明成皇后を殺害した当時、当直を務めるために出勤したサバティンが目撃した事実を書き記した帝政ロシア対外政策文書保管館の証言録と景福宮の殺害場所を描いた略図の写真を直接見ることができる。
サバティンは仁川海関で乗船税関の監視員として働いていた1888年、漢城に行き宮廷建築を担当し高宗の信任を得ることになる。1895年の乙未事変の目撃後は恐れを抱き、しばらく朝鮮を離れ、1899年に仁川に戻ってから1904年の日露戦争勃発後に再び去るまで、建築土木事業に参加することになるが、1部と2部ではこのような建築家と土木技術者としての活動状況を、建築物に関連した文書と写真資料で見せる。彼の代表作である貞洞の旧ロシア公使館の1次・2次設計案と当時の工事現場の写真、彼の直筆で記した工事見積書、竣工できなかった大韓帝国皇帝私邸の正面図、公使館の工事代金を求める請願書などを初めて見ることができる。
あわせて彼が関与したことが確実だと評価されている景福宮の観文閣とロシア公使館、済物浦クラブなどの写真と模型図を展示し、朝鮮の近代建築の先駆者として活躍したサバティンの建築家としての一面を眺めることができる。昨年行われたサバティンと韓国近代期建築の関係に関する韓国建築歴史学会の研究の成果を基にした、学術報告の性格をもつ展示でもある。展示企画を諮問した培材大学のキム・ジョンホン教授は「サバティンの行跡にはまだ読み解かなければならない部分が多いが、ロシア対外政策文書館所蔵の資料を初めて一般に公開し、サバティンの現場作業の内容を精密に観察することができるようにした点は成果だと言える」と述べた。展示は11月11日まで。