北海道では朝鮮人のみならず少なくない中国人たちも強制動員の被害に遭った。 この内、最も有名な人は苛酷な労働に耐えられず逃げて山の中で何と13年を隠れて生きたリュレンロン氏(写真)だ。
1913年、中国山東省の高密市で生まれたリュ氏は1944年に北海道の北西部、沼田町の明治鉱業昭和鉱業所の炭鉱労働者として引きずられて行った。しかし炭鉱の苛酷な労働環境に耐えられず1945年7月に脱出した。 以後、リュ氏は戦争が終わった事実も知らずに北海道の険しい山中をさ迷って逃亡生活を続けた。
彼が再び世の中に姿を現したのは、脱出から何と13年が過ぎた1958年2月8日のことだった。 以後、故郷へ戻ったリュ氏は、1996年東京地方裁判所に日本政府を相手に被害補償を要求する訴訟を起こした。 彼は判決が下される前の2000年に亡くなったが、息子が訴訟を受け継いで、2001年1審で歴史的な勝訴判決を勝ち取る。 しかし2005年6月、東京高等裁判所はリュ氏が強制動員された後、耐え難い苛酷な労働に耐えられず逃げたという事実を認めながらも、旧日本憲法では国家公権力の行使によって市民が被害を被っても責任を負わないという、いわゆる国家無答責の法理があったなどの巧妙な法理を動員しこれを棄却した。この判決は2007年4月、日本の最高裁判所で確定した。
朱鞠内/キル・ユンヒョン特派員、<ハンギョレ>資料写真