(1のつづき)
日本の法廷での訴訟の第一歩
1991年8月の日本軍慰安婦被害者の故金学順(キム・ハクスン)さんの証言をきっかけとして、日帝の蛮行を糾弾する声が激しくわき起こった。その時からヤンさんは、隠してばかりいた勤労挺身隊の経験について口を開き、行動に立ち上がった。運動家としてのアイデンティティが芽生えた瞬間だった。1992年2月、太平洋戦争犠牲者光州遺族会(イ・グムジュ会長)に加入し、同年8月には「光州千人訴訟」(原告1273人)に参加した。1994年3月には、日本政府を山口地方裁判所下関支部に提訴した「関釜裁判」(日本軍慰安婦および勤労挺身隊の被害者による訴訟)の第3次原告としても合流した。しかし、日本の弁護士たちと連帯して提起した損害賠償請求訴訟は、その度に敗訴した。
ヤンさんは1999年3月、名古屋地裁で3度目の損害賠償請求訴訟を起こした。高橋信さんら日本の市民が立ち上げた「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」が支援した。しかし一審(2005年)、二審(2007年)に続き、2008年11月、日本の最高裁判所において上告棄却での敗訴が確定した。訴訟では負けたものの、成果は小さくなかった。日本の最高裁判所は上告を棄却しつつも被害者の強制連行、強制労働、賃金未払いなどの事実関係は全て認めた。
三菱重工に、2010年11月から日本の支援団体「名古屋三菱・朝鮮女子勤労挺身隊訴訟を支援する会」と韓国の支援団体「勤労挺身隊ハルモニとともにする市民の会」(現:社団法人日帝強制動員市民の会)との2年間16回にわたる交渉に応じさせる礎となった判決だった。ただしこの交渉は、「謝罪表現」を合意文に入れるかをめぐって調整したものの合意に至らず、結局2012年7月に決裂した。
韓国国内での法廷闘争
ヤンさんら5人(生存2人)は2012年10月、光州地裁に損害賠償請求訴訟を起こした。強制徴用被害者による訴訟で個人請求権を認めた同年5月の最高裁判決が根拠となった。2013年11月の光州地裁での勝訴に続き、2015年6月には光州高裁でも勝訴したヤンさんらは、2018年11月29日に最高裁で各被害者に対する1億~1億5千万ウォンの賠償を被告企業に命じる確定判決を受けた。ヤンさんは「私が慰安婦ではなく勤労挺身隊として苦労したということを理解する人が増えたということが一番うれしい。今まで立ち向かって闘ってきた自分自身を誇りに思う」と語った。
しかし日本の政府と企業は、1965年の韓日請求権協定で強制動員問題は解決済みだとの古い主張ばかりを繰り返し、最高裁の賠償命令に従わずにいる。これに対し、勤労挺身隊被害者訴訟代理人団は2019年3月、三菱重工の韓国国内の商標権2件(ヤン・クムドク)と特許権2件(キム・ソンジュ)を差し押さえた。三菱重工の資産を売却し、賠償金を少しでも確保するためだ。2021年9月には最高裁で債権に関する差し押さえが最終確定し、売却命令が下された。三菱重工はまたしても不服を申し立てた。抗告は一度棄却され、三菱重工は今年の4月19日(キム・ソンジュ)と5月6日(ヤン・クムドク)に最高裁に再抗告した。最高裁は事件記録受理から4カ月以内に本案審理を進めるかなどを最終決定しなければならないということを考えると、現金化は差し迫っていることになる。
外交部は先月26日、同事件の担当法廷に対し、事実上判決を保留することを求める意見書を提出した。日帝強制動員市民の会のイ・グゴン理事長は「ヤンさんらの訴訟は、国から保護を受けることができなかった被害者の凄絶な抵抗のための唯一の手段だった」とし、「韓国政府が公益を前面に押し出して裁判に介入することは、被害者の権利の実現を妨害するもう一つの国家暴力」だと批判した。強制労務動員の解決の第一歩は、日本の政府と企業が人権侵害を認めることだ。ヤンさんは「一日も早く日本の謝罪と賠償が実現することを願う。私の切実な最後の願いだ。日本が謝罪し、両国が仲良くしてくれたらと思う」と強調した。(了)