本文に移動

「裁判闘争」30年…勤労挺身隊被害者ヤン・クムドクさんが粘り強く生きる理由(1)

登録:2022-08-17 03:51 修正:2022-08-17 06:54
女子勤労挺身隊被害者ヤン・クムドクさん「謝罪と賠償」要求 
2018年に最高裁で勝訴…商標権売却による現金化が目前 
戦時中の未成年女性に対する労働収奪の象徴的事件を広く知らしめる
勤労挺身隊の被害者として日本政府と日本企業を相手取って30年間におよぶ裁判闘争を闘ってきたヤン・クムドクさん=市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 「謝罪を受けることが願いです。今日死ぬか明日死ぬか分かりませんが、それでも粘り強く生きてみようと思っています」

 日帝強占期に朝鮮女子勤労挺身隊として強制動員された被害者で、30年間にわたって韓国と日本を行き来しながら「裁判闘争」を闘っているヤン・クムドクさん(93、光州市西区良洞(クァンジュシ・ソグ・ヤンドン))は15日、本紙の取材に応じ、「私はまだ元気だ。諦めない」と語った。日帝が太平洋戦争末期に13~15歳の少女たちを軍需工場に動員した勤労挺身隊は、戦時における未成年女性からの収奪の象徴的な事件だ。朝鮮の少女たちは日本の三菱重工業(300人あまり)、不二越鋼材工業(1089人)、東京麻糸沼津工場(300人あまり)などで一銭の賃金も受け取れず強制労働させられた。解放から77年たっても一言の謝罪も聞けていない。

ヤン・クムドクさんら三菱重工に動員された勤労挺身隊の少女たちが、1944年6月ごろに撮った集合写真。前列左から7番目がヤン・クムドクさん=市民の会提供//ハンギョレ新聞社

強制連行と強制労働

 1944年5月、ヤンさんは全羅南道の羅州(ナジュ)公立普通学校の6年生の時だった。ある日、日本人の校長と憲兵が教室にやって来た。彼らは「日本に行けばたくさん稼げるし、中学校にも進学させてくれる」と勧誘した。1年生の時から常に級長だったヤンさんは、日本で勉強して教師になりたくて手をあげた。しかし、数日後に日本に行くという娘の話に父親は激怒した。校長は「指名されたのに行かないなら両親を警察署に留置する」と脅した。ヤンさんは父親のはんこをこっそり持ち出して担任に渡した。この時はまだ、ヤンさんは教師になる夢に胸を膨らませていた。

 日本に渡ったヤンさんは、三菱重工の名古屋航空機製作所に投入された。シンナーとアルコールで飛行機の部品のサビをふき取ったり、飛行機の胴体にペンキを塗ったりする仕事だ。「その時、鼻を悪くしてしまって今もにおいがよく分かりません。ペンキが目に入って右目も見えなくなってしまった」。10代で耐え難い労災にあったわけだ。工場ではいつも腹をすかせていた。食事は少々の麦飯にたくあんと梅干し2粒がすべてだったという。試練はそれで終わりではなかった。

1994年3月、いわゆる関釜裁判に参加したヤン・クムドクさん(左から3番目)が、日本の山口地方裁判所下関支部の前で横断幕を広げている=市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 1944年12月7日午後。ヤンさんは日付と時間をはっきりと覚えていた。その日は羅州の学校の先輩チェ・ジョンネさんに、昼休み終了10分前に工場に行こうと言われた。ヤンさんは「もう少し休む」と言った。チェ・ジョンネさんと同窓のキム・ヒャンナムさんが作業場に入っていってすぐ、地面が揺れた。地震だった。急いで外に飛び出したヤンさんは塀の下敷きになり、左脇腹に大きな傷を負った。後日、人々はこの地震を「東南海地震」と呼んだ。この地震でチェ・ジョンネさん、キム・ヒャンナムさんら韓国の6人の少女が現場で亡くなった。ヤンさんは「虚しかった。今もその時の写真を見ると心が痛む」と語った。

日本軍慰安婦の烙印

 1945年初めに名古屋の工場が連合軍の空襲で破壊されると、ヤンさんを含む少女たちは富山県にある三菱重工の大門工場へと移された。そこでは月に一度、家に手紙を送ることができた。「お米のご飯を食べて中学校に通っている」と書いた。工場管理人の脅しもあったが、遠い故郷にいる両親に心配をかけたくなかったので、嘘を書いたのだ。しかし、この手紙は一通も家に届かなかった。

 解放後「朝鮮に帰って待っていれば賃金を送ってやる」と会社に言われて釜山行きの船に乗った。ヤンさんが夢見ていた羅州駅への到着日は1945年10月22日。日本へと旅立ってからまる1年と5カ月が経っていた。

ヤン・クムドクさんら三菱重工で働かされた勤労挺身隊被害者たちが1999年3月1日、名古屋地方裁判所に訴状を提出するために互いに手を取り合って行進している=市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 故郷に戻てからは、さらに大きな苦しみが待っていたという。人々は勤労挺身隊の出身者を日本軍慰安婦と誤解し、陰口をたたいた。周囲の視線は冷たかった。このような陰口や誤解のせいで、結婚話が一度破談になった。姉の紹介で大工の男性と出会い、1949年に結婚式をあげた。ある日、夫は「日本で男を何人相手にしたのか」と叫んだ。日本企業の工場で働いていたと言っても信じてもらえず、たびたび喧嘩になった。結局、夫は家を出てゆき、別の所帯を持った。十数年後、夫は3人の男の子を連れて帰ってきた。和順(ファスン)から光州(クァンジュ)に引っ越したが、結婚生活は順調ではなかった。帰ってきた夫は数年でこの世を去った。大仁市場(テインシジャン)で魚の露店商をして6人の子を1人で育てた。(2に続く)

チョン・デハ記者、写真提供:日帝強制動員市民の会 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1054846.html韓国語原文入力:2022-08-16 10:00
訳D.K

関連記事