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日帝時代の太平洋戦争犠牲者のために生涯かけて闘争…イ・クムジュ会長死去

登録:2021-12-13 10:17 修正:2021-12-13 10:30
12日、持病で死去…享年101 
光州遺族会を率いて日本政府を相手に闘争
イ・クムジュ太平洋戦争犠牲者光州遺族会会長=勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 日本が起こした戦争の被害者のために生涯献身した太平洋戦争犠牲者光州遺族会のイ・クムジュ会長が、12日夜、持病で死去した。享年101。

 1920年、平安南道順天(スンチョン)で生まれたイ会長は、1940年10月にキム・ドミンさんと結婚したが、3年後に太平洋戦争で夫を亡くし、日帝に対して生涯闘った。夫のキムさんは1942年11月、日本海軍の軍務員として南太平洋に連行され、1943年11月25日、南太平洋のタラワ環礁で米軍の大規模上陸作戦の際に亡くなった。

 1948年に光州に移ったイさんは、軍事政権が崩壊した後の1988年、太平洋戦争犠牲者光州遺族会の初代会長を務め、日本の植民地支配による被害者の人権回復に努めた。69歳の時だった。

 1990年代からは、被害者を集め日本政府を相手取って本格的な訴訟に乗り出した。1992年2月、原告1273人が参加した「光州千人」訴訟を皮切りに、同年8月の帰国船浮島丸沈没事件訴訟、12月の日本軍「慰安婦」・女性勤労挺身隊被害者などが原告として参加した「関釜裁判」訴訟、1995年のBC級戦犯捕虜監視員訴訟、1999年の三菱勤労挺身隊訴訟、2006年の日本外務省を相手取った韓日会談文書公開訴訟など、日本政府と戦犯企業を相手取ってこれまで7件の損害賠償訴訟を日本の司法府に起こしてきた。

2019年12月、国民勲章牡丹賞を受賞して微笑むイ・クムジュ太平洋戦争犠牲者光州遺族会会長=勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会提供//ハンギョレ新聞社

 イ会長は被害者の話を聞いた後、日本語で細かく整理し、裁判を支援した。当時イ会長は、証人出席や市民団体との連帯活動などで日本を行き来した回数が80回以上になったという。日本の法廷で17回棄却を受けるなど、訴訟はたびたび敗訴したが、最後まであきらめなかった。

 イ会長は、韓国政府を相手取った「韓日会談文書公開」訴訟でも直接原告になるなど「強制動員特別法」制定の先頭に立った。2003年12月19日には、特別法制定を求め国会法制司法委員会の委員らに遺書を書いて送ったこともある。盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権は2004年に「日帝強制占領下での強制動員被害真相究明などに関する特別法」を制定したのに続き、40年間ベールに包まれていた「韓日会談」文書を公開した。「日帝強占下の強制動員被害真相究明委員会」が発足し、政府が初めて被害者に対する本格的な調査に乗り出すまで、イ会長は光州遺族会を率き主導的な役割を果たしてきた。

 三菱勤労挺身隊訴訟は2008年に日本の最高裁で敗訴したが、ヤン・クムドクさんら日本の訴訟の原告が2012年10月に光州地裁に訴訟を起こし、2018年11月29日に最高裁(大法院)で最終勝訴する結果を得た。イ会長は2011年、一人息子夫妻が相次いで亡くなると、その翌年に光州生活を清算し、孫娘のいる全羅南道順天(スンチョン)の療養型病院で闘病生活を送ってきた。

 政府は2019年12月、日帝被害者の権益のために献身した功労を認め、イ会長に「大韓民国人権賞」(国民勲章牡丹章)を授与した。

 葬儀場は光州のチョンジ葬儀場に設けられ、出棺は15日午前。埋葬地は順天市立公園墓地となる。

1990年代、イ・クムジュ太平洋戦争犠牲者光州遺族会会長が光州の自宅で強制徴用被害者の書類を整理している=勤労挺身隊ハルモニと共にする市民の会提供//ハンギョレ新聞社
キム・ヨンヒ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/1023033.html韓国語原文入力:2021-12-13 09:03
訳C.M

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