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映画『タクシー運転手』ドイツ人記者が撮った19歳の市民軍…「私を北朝鮮軍だとは」

登録:2020-04-08 00:01 修正:2020-04-21 16:20
[5・18 40周年企画]5月、あの日あの人々 
(7)北朝鮮軍に捏造された市民軍クァク・ヒソンさん

空輸部隊へ入隊待機中“5月虐殺”を目撃 
リヤカーに載せられた遺体を見て市民軍に加勢 
5月23日、YMCAでヒンツペーター氏が撮影 
「道庁から聞こえてきた“愛国歌”を歌い胸が詰まる」 
抗争中に道路をさまよう母の姿を見て悩む 
鎮圧作戦前日に脱出したことが今も“負い目” 
タクシー労働者として集会示威法違反で拘束など労組活動 
チ・マンウォンに「光殊184番」呼ばわりされ…真実究明運動へ

1980年5月、光州YMCAの屋上で19歳の市民軍クァク・ヒソンさんが愛国歌を一緒に歌い笑っている=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社

 画面の中で黒く短いひげの青年が、ヘルメットをかぶり愛国歌を一緒に歌っている。青年の眼差しは旧全羅南道庁前の噴水台広場での集会に向けられている。1980年の5・18光州(クァンジュ)民主化運動当時、19歳で市民軍に加わったクァク・ヒソンさん(59)は、光州YMCAの屋上で銃を握って立っていた。ドイツ公営放送の記者、ユルゲン・ヒンツペーター氏(1937~2016)が撮影した当時の映像に若かりしクァクさんの姿が出てくる。ヒンツペーター記者は、映画『タクシー運転手 約束は海を越えて』の実在の主人公だ。

 ヒンツペーター氏に会ったのは1980年5月23日頃だった。通訳1人と同行したヒンツペーター氏は、光州YMCAの屋上に上がってきて、全羅南道庁前の集会場面を撮影させて欲しいと言った。クァク氏は最初は断ったと話した。「(抗争指揮部が)後で生き残れば大変なことになるからと、写真撮影には応じないようにと言われました」

 ヒンツペーター氏が市民軍に外国製たばこを一箱ずつ渡した。たばこに窮していた頃だったので、若い市民軍たちはざわめいた。その時、誰からということもなく市民たちは国歌を斉唱しはじめた。「その時は、愛国歌を聴いただけで胸が熱くなりました。道庁商務館には遺体もありましからね。ところが集会場面を撮っていた外国人記者が、愛国歌を歌っていた私に突然カメラを向けたのです。私は撮られたことも知りませんでした」

1980年5月、映画『タクシー運転手』の実在の人物、故ユルゲン・ヒンツペーター氏が撮った映像中の市民軍クァク・ヒソンさんが、先月23日午後、錦南路に立った=チョン・デハ記者//ハンギョレ新聞社

 クァクさんが5月の荒波の中に身を投じたのは“戦車の轟音”のためだった。その年の1月、空輸特戦旅団に志願したが、家族の反対で入隊できなかった彼は、入隊の日を待っていた。「無職でぶらぶらしていたので、5・18が勃発したことも知らなかった。友人が開いた花亭洞(ファジョンドン)のサッシ店に集まっていました」。クァクさんは5月19日の朝、後輩のヤン・ドンナムさんと道路に出て、居並ぶ戦車の行列を見た。「『何か起きたらしい』と思いました。ずっと歩いて上がってみると、国軍統合病院に戦車がたくさん駐まっていました。車は通っていませんでした」。その日は、全斗煥(チョン・ドゥファン)新軍部が市民を虐殺するために本格的に戦車と兵力を配置した日だ。

 クァクさんは、旧全羅南道庁方面行きのバスに乗った。同行した後輩のヤン・ドンナムさんは、その日を5月20日と記憶していた。「農城洞(ノンソンドン)には地下車道はなかったが、その付近に製材所がありました。その前にいると、市民たちが運転するバスから『道庁に行く人は乗れ』と言われたんです。迷うことなく乗りました。市内の韓国銀行交差点で停車しました」。クァクさんは忠壮路(チュンジャンノ)入り口で初めて遺体を目撃した。「リヤカーの上に遺体が積まれていました。太極旗に覆われていましたが顔は見えました。それを見て、恐いというより無性に腹が立ちました。怒りがこみあげて、悪態も口をついて出てきた」

1980年5・18抗争の時、全南大学病院の屋上でドイツ人記者のユルゲン・ヒンツペーター氏(左端)がインタビュー取材をする間、ポール・カートライト氏(右から二人目)など平和奉仕団員が手伝っている=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社

 空輸部隊の軍人たちは、催涙弾を発射しながら市民たちを追いかけた。後輩のヤンさんとは逃げている間に離ればなれになった。須奇洞(スギドン)のある店に逃げて、平台の下に潜り込んだ。平台の下の粗い材木で顔を怪我したが、うめき声も出せなかった。軍人たちが駆け付けて来て、店の老夫婦に行方を問いつめた。幸い老夫婦が「誰もいない」と言ったため連行を免れた。その店を出て結局軍人たちに捕まった。「私の髪が長くて、屑拾いだと思ったのか、こん棒で数発殴っただけで逃げろと目配せした」。運がよかった。

1980年5月、映画『タクシー運転手』の実在の人物、故ユルゲン・ヒンツペーター氏が撮った映像内の市民軍クァク・ヒソンさん=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社

 5月21日、旧全羅南道庁前の戒厳軍が集団発砲をした後、市民たちは自身を守るために武装を始めた。クァクさんは、光州近隣の和順(ファスン)に行こうと提案した。小学校の時、和順炭鉱で働いていた父親に弁当を届ける際に見たダイナマイトを思い出した。1968年の和順炭鉱爆発事故で父親は右手首と視覚・聴覚を失った。市民たちと和順に向かったクァクさんは、光州~和順の境界のノリッチェ(峠)検問所で、警察官らが捨てた銃を手に取った。和順炭鉱に向かう途中、ある派出所で実弾を手に入れ光州に戻った。

 郊外に退却した戒厳軍によって光州は封鎖されていた。クァクさんはアジア自動車(現在の起亜自動車光州工場)に行き、軍用トラックを駆って出てきた。「軍用トラックには鍵がありません。レバーを倒せばいいんです。多くの人が車を運転して出てきました。それに乗って行きました。運転した人が農城洞の原木バリケードがある所に行きました」。車に乗った10人余りは、しばし車から降りて飲み物とのり巻きで腹を満たした。その時、突然銃声が轟いた。「教練服を着た10代と見える人がトラックに上がりました。『上がるな!』と大声を張り上げたが、銃で撃たれて倒れました」

1980年5・18当時、新軍部の命令を受けて光州に出動した空輸部隊と戒厳軍が戦車を走らせ市民を鎮圧している(左)。これに対し市民たちが車両で行進しながら空輸部隊の虐殺に対抗している=5・18記念財団提供//ハンギョレ新聞社

 教練服の少年を助手席に乗せて、基督病院に車を走らせた。初めての運転だった。「尻が濡れていました。体をつたって血が尻まで流れていたんです。タオルで覆いました。目の下に銃弾が当たって後頭部まで穴が開いていました」。クァク氏は半分正気を失った状態だった。応急室から出てきた医療陣は首を振った。「病院内に入れさせまいとするので、その少年の手を握り、胸を1、2回、とんとんと叩いてやりました」

 再び道庁に向かった。市民収拾対策委員会と戒厳司令部側が交渉を進めたが、合意には至らなかった。戒厳軍は武器の返却を要求し、若者たちは決死抗戦を主張した。戒厳軍の尚武忠正作戦(光州再鎮圧作戦)は、5月27日に予定されていた。クァクさんは市民軍に編入され、全日ビルから韓国銀行交差点までの巡回パトロールをした。逃げながら離ればなれになった後輩のヤン・ドンナムさんの近況もその時知った。市民軍で全羅南道庁の警備を担当していた。

5・18市民軍のクァク・ヒソンさんは、1982年に陸軍に入隊し砲兵として満期除隊した=クァク・ヒソンさん提供//ハンギョレ新聞社

 彼は最後の抗争の直前に、死を避けて光州を後にした。銃器の回収に出た彼は、月山洞(ウォルサンドン)ロータリー側で「ベトナムスカート」をまとって、ぼんやりした目で街をさまようある女性を目撃した。母親だった。「私が死んだと思って、霊安室ばかり訪ね歩いていたと後日聞きました」。その日は眠れず、市民軍の部隊長に悩みを打ち明けた。部隊長は「いつでも銃を返して行け」と言った。戒厳軍の目を避けて、路地と草むらを選んで歩き、36時間かけて自宅に到着したが、一人だけ生き残ったという負い目で恥ずかしかった。

2014年4月、セウォル号惨事が起きた後、全羅南道珍島の彭木港を訪れたクァク・ヒソンさん家族=クァク・ヒソンさん提供//ハンギョレ新聞社
クァク・ヒソンさんは、息子が2人生まれるまで妻には市民軍だったという事実を隠してきた=クァク・ヒソンさん提供//ハンギョレ新聞社

 82年2月に軍に入隊し満期除隊した。その頃、ビデオ店を営む友人がこっそり貸してくれた5・18民主化運動のビデオを見て驚いた。タバコをくれた外国人記者(ヒンツペーター氏)が撮った5・18の映像を見たからだ。愛国歌を歌うクァクさんの姿を見た友人は「捕まるかも知れないので人混みには行くな」と言った。86年からタクシー運転手になった彼は、常に頭を短く刈って背広のズボンとチョッキ姿にネクタイを締めた。端正な印象を与えれば、5・18と関係ないように見えるのではと考えた。息子2人が生まれるまで、妻には5・18市民軍だったという事実を隠した。

5・18虐殺を映像で世界に初めて知らせたユルゲン・ヒンツペーター氏が、2015年にソン・ゴンホ言論賞を受賞している=資料写真//ハンギョレ新聞社

 5・18の記憶を誰にも話さなかったが、不正に目を閉ざせない気質は隠せなかった。89年に務めていたタクシー会社から御用労組を追い出すために、40日間余りのストライキを打ち、集会示威法違反と暴力容疑で逮捕された。紆余曲折の末に復職し、労組委員長になった。6年4カ月にわたり労組を率いた。1992年頃には、5・18光州抗争民主運転主同志会に加入して、他の会員たちと無認可福祉施設を訪れ、入浴支援などの奉仕活動もした。賃貸アパートで暮らしていた彼は、そこで5・18の時に別れた後輩のヤン・ドンナムさんと劇的に再会をした。ヤンさんは内乱実行罪で獄苦を味わった後、出所したという。彼は何も言えなかった。

今年2月13日、保守論客のチ・マンウォン氏がソウル中央地裁に出廷し、持ち物検査を受けている//ハンギョレ新聞社

 個人タクシーの運転手として生計を立ててきたクァクさんは4年前、光州トラウマセンターの写真治癒プログラムに参加した。クァクさんら7人の5・18有功者は、2016年5月16~23日、「ソウル市民聴」のギャラリーで展示会を開いた。彼は国立5・18民主墓地741基の墓地を一つずつ撮影し、一つのイメージとして作品化した。その写真を撮ってから初めて国立5・18民主墓地を訪ねた。「教練服のあの少年がどこに埋まっているのかを探したかった。すべての墓で一つひとつ2回ずつお辞儀をして黙祷し、1カットずつ撮りました。おかげで少しは負い目が減りました」

 クァクさんは5・18真実糾明闘争に積極的に参加している。5・18を歪曲する保守論客チ・マンウォンは、彼を黄海南道人民委員長クォン・チュンハク「184番光殊(クァンス=光州に投入された北朝鮮特殊作戦軍を指す呼び方)」とのレッテルを貼った。クァクさんなど4人は2015年10月、チ・マンウォンを名誉毀損などで告訴した。その後、追加告訴がなされ、5件(15人)と『タクシー運転手』の実在の人物である故キム・サボク氏に対する死者名誉毀損告訴事件などが併合されて裁判が進んでいる。チ・マンウォンは2月13日、懲役2年の実刑と罰金100万ウォンを宣告されただけで、法廷拘束は免れた。

 「法廷に行くと、急に(チ・マンウォンに)飛びかかりたいと思いました。判事がいようが検事がいようが構いません。かろうじて自制しました。必死にこらえました。自分が騒ぎを起こせば、また5・18に対する非難が起きるからです。それにしても、あろうことか後輩のヤン・ドンナムが北朝鮮のチェ・リョンヘだとか言うなんて、ヤン・ドンナムは神出鬼没の人物なのか?自分も軍隊にも行ってきたのに、“光殊”と呼ぶとはね」

チョン・デハ記者 (お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/area/honam/935796.html韓国語原文入力:2020-04-06 16:25
訳J.S

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